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「経済成長すれば生産性で人を測らなくなる」というのは、統計から見て間違い

amamako.hateblo.jp

前回の記事、多数のブクマ・コメントありがとうございます。というわけで、今回の記事では、頂いたブクマ・コメントに対し、自分でも色々調べて考えてみたので、その結果を交えて返答していきたいと思います。

「経済成長すれば生産性で人を測らなくなる」というのは、統計から見て間違い

まず、以下のコメントで寄せられた「むしろ経済成長することによって、この社会は『生産性で人を測らなくなる世の中』になる」という意見について。

dc42jk 経済成長するからこそ生産性で人間をはからない余裕が生まれる。全体が上手くいってれば、細かい部分の違いを許容する余裕ができるが、全体が上手くいかないとその違いを許容する余裕が無くなる。だから経済成長大事 

serio 「衣食足りて礼節を知る」と2000年以上前から言われてるわけで。経済成長して懐に余裕ができないと、なかなか弱者に優しくなれないよ。 

wosamu 高度成長期に生産性とか誰もいってなかったじゃん 

giteki 逆にデフレ環境の方が『経済成長はしません。よって人々の取り分はゼロサムです→ならば弱者に回すのを減らそう』になることをここ二十年で学んだ 

SyN 経済成長せずに貧しくなっていっているからこそ、生産性の低い人を受け止められない社会になっていると考えます。十分に経済成長していれば、個人の生産性が高かろうが低かろうがあまり考える必要ないですからね。 

shinichiroinaba ALSや重度障害者が快適な市民生活を送れるようにするためには一人当たり所得がとても高くならないといけない。貧しい社会ほど一人当たりの労働生産性に汲々とせざるを得ない。 

 おそらくれいわ新選組の経済政策を支持している方々も、そのようなロジックでれいわの経済政策を支持しているのだろうと思います。

ですが、様々な統計を参考にすれば、少なくともこのようなコメントで言われている、「経済成長すれば生産性で人を測らなくなる」というのが端的に間違いであることがわかります。

事実1:経済成長をしている頃の日本のほうが、障害者に冷淡な「生産性で人を測る社会」だった

これは、僕にとってはほぼ当たり前のことだったんですが、id:wosamuのように「高度経済成長期は誰にも優しい『生産性で人を測らない世の中』だった!経済成長がなくなったから生産性で人を測る社会になってしまったんだ」という人もいるみたいなので。

生産性で人を測っているかどうか、端的に分かるのは、障害者に対してどのようにその社会が接しているかです。

ただ、高度経済成長期はそもそも障害者問題自体が関心を寄せられてこなかったんで、計量的に障害者差別を立証することはなかなか難しいです。ですが、少なくとも80年代ぐらいからの変遷なら追えます。

「障害者に関する世論調査」というものが、1987年から、数年ごとぐらいに行われてきました。ただこれ、調査項目が結構変わってるのでなかなか年次比較するのが難しいのですが、その中でずっとある問いにこんな問があります。

「障害者やその家族の方に対して,話しかけたり手をかしたりしたことがありますか。」

そして、この答えに対する変遷は以下のようになっているわけです。一応、経済成長率も付記してあります。

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経済成長率が高かった1987年は半数以下が障害者に話しかけたり手をかしたりすることがなく、経済成長率がずーっと低かった1990年に〜2010年代前半に、その率は上がっている。一方、経済成長率が少し上げかけた2017円には、むしろその率は下がっているんです。

さらに言えば、これが「障害者の社会進出」の唯一の指標みたいに扱われるのは大いに不満なのですが、一応デファクトスタンダードな指標なので挙げると、障害者の雇用者数・雇用率も、成長率が高かった頃の日本より今の日本のほうが断然多くなっているのです。

www.mhlw.go.jp

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以上の統計から、まずはっきりと、経済成長をしている頃の日本のほうが、障害者の社会参加に冷淡な「生産性で人を測る社会」だったということが言えるわけです。

事実2:ある国が経済成長しているかどうかと、障害者に冷淡な「生産性で人を測る」国であるかどうかはほぼ関係ない

次に、経済成長率は主に国ごとに測られるものです。ですので、もし経済成長がされれればされるほど、生産性で人を測らなくなる国になるのなら、経済成長率が高いほど、障害者が社会参加できるということになります。

ところがこれも統計は否定します。「国際比較からみた日本の障害者政策の位置づけ」という論文に、各国のALMP支出というものを比較しているグラフがあります。ALMP支出とは、論文によれば

「社会的支出で労働者の働く機会を提供したり,能力を高めたりする為の支出を計上。障害を持つ勤労者の雇用促進を含む」

だそうです。まーた雇用の話かと、僕なんかはうんざりするんですがね。

しかしそういうデータしかないなら仕方ない、それと各国の経済成長率を比較してみましょう。

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ほぼ関係ないですね。相関係数も-0.41で、むしろ負の相関が出てますが、そこら辺が有意かどうかとかいう議論は、統計に詳しい方におまかせします(たぶんあんま意味はないでしょう)。

とにかく、経済成長率の高低と、障害者の社会参加に前向きであるかどうかは、ほぼ関係ないということが、統計からは読み取れるわけです。

以上の二つの統計から、少なくとも統計的には、「経済成長すれば生産性で人を測らなくなる」というのが間違いであると、言えるわけです。

ただ、僕が前の記事で言いたいのはそういう話ではなかったんです。

経済成長を至上命題にする限り、「生産性の低い人は生産性の高い人の施しで生きさせてもらっている」という上下関係は覆せないのではないか

僕が言いたいことをより汲み取っていただけたのは次のコメントです。

tukanpo-kazuki 「生産性がない人でもぎりぎり生きていける世の中を作ろう」「生産性を上げて生活をどんどん豊かにしていこう」この二つは別に矛盾しない概念だと思いますよ。生産性を上げない人が豊かになることはないけど。 

otiken9 経済成長を目指す社会において、生産性が高い少ないで人を測らないことは可能なのか?という話だろう。経済成長が弱者救済をもたらす論理は、障碍者を生産性が低い人間と扱っていることに他ならないと考えるが。 

nemuiumen 「経済成長するからこそ生産性がない人にも優しくできる」は、「果実を生産性の高い人間が食べた後もし食い残しがあれば生産性がない奴らに施してやらんでもない」ということだと思うんだけど、それって正しいのか 

aves_ramphastos_toco 経済成長を目的とする場合、生産性で人間を測り不用品を潰すしかないわな。「生産性低い奴を潰す世の中バンザイ、自分がそうなったら喜んで自殺する」という覚悟がないなら一定量のアソビないし成長否定を要す。 

そう、経済成長を至上命題にする社会でも、その経済成長の施しを受けて「ぎりぎり行きていける」社会にはなれると思うんですよ。でもそれはあくまで「ぎりぎり」で、しかもあくまで施しを受けるものであるということになる。それって結局「生産性のみで人を測る」ことと何ら変わりないんじゃないの?というのが僕の疑問なんです。

これに対し、「経済成長はするけど、でもそれに寄与しているかを、人間を測る道具にしない」という主張もあります。

jkr2348fsfsd 「生産性の高低に関わらず、果実が行き渡るような経済成長を」という事では。経済成長と再分配両方やっていこうという意味合い。 

usutaru 生産性で人間をはからせないルールを決めた上で経済成長を目指すこと。現状がノールール過ぎやせんかという問いかけでは? 

masumizaru 両立もなにも、人権の保障と経済成長には何の関係もないです。経済が成長しようがしまいが人権は守られるべきだし、経済成長のために人権を犠牲にしていい法はない 

kash06 ブコメは「経済成長を否定したらこうなる」を論じるが、争点はそこだろうか。ぼんやり思うに「経済成長をするが、それを成し遂げた人の功績に応じた配分にせず、人の必要に応じて分け合う」を大胆に行うではないか。 

これは僕もいいと思うのだけど、一抹の不安が残るのが、じゃあ「経済成長に寄与しても何にも得をしない」という状況で、人は経済成長を支える活動を続けるの?ってことです。

例えば山形浩生氏などは、このように述べ、人はだまってても成長する、だからそれに追いつく経済成長が必要なんだと述べるわけです。

cruel.hatenablog.com

よほどとんでもない環境にでも置かれない限り、だまってたって人はあれこれ工夫をするし成長しちゃうし、みんながそれをやったら、経済だって当然のように成長するしかないんだもの。

しかしそうやって「人はだまってても成長する」というのは、結局の所、「生産性のみによって人を測る価値観」を内面化して、「成長してより多くのものを生産しなければ自分に価値がない」という風に思ってるからそうしているだけなんじゃないのと、僕なんかは思うんです。

とすれば、もしそこで「生産性のみで測らなくてもいいんだよ」と言ってしまえば、そもそも人は本来成長なんかしたくないんじゃないかと思うのですが、これは僕が怠惰なダメ人間だからなんでしょうか?

その点でいうと、この話題への言及で一番慧眼だったのが、プロ倫を例に出した、このコメントだったのかもしれません。

giyo381 経済成長とかだけ抜き出してもその前提の資本主義を受け入れる精神がないと。全て神の思し召しやら、労働は悪とかそういうのから資本主義を形成するプロ倫あたりから始めよう 

 マックス・ウェーバーは、近代のこの資本主義のありようが、決して人間の本能などに根ざすものではなく、むしろその反対、宗教という極めて形而上的なものを契機にして生まれた、文化的な所作であることを、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で明らかにしました。 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 そしてさらに、その後現れたナチスを例に社会学は、そのような近代の資本主義を形作る精神は、やがて必然的に「生産性のみによって人を測る世の中」を作り出すと述べたわけです。

コミュニケイション的行為の理論 上

コミュニケイション的行為の理論 上

 

「経済成長こそが重要なんだ」という経済学者は、しかしこの様な、現行の経済成長を前提とした経済のあり方が、いかにナチスとよく似た価値観によって支えられているかということを、全く見ようとしないように思えてなりません。そこが、僕が「経済成長こそが重要なんだ」論者に抱える不信感の根源なんです。

れいわがもしそれでも「経済成長が重要なんだ」という考えと、「生産性のみで人を測らない」という考えを両立しようとするなら、そこではただ経済学の理論(それがケインズであれフリードマンであれMMTとやらであれ)を振りかざすのではなく、そこで「経済成長」と「生産性のみで人を測らない」を両立する、今までの「資本主義の精神」ではない新しい精神こそを提示しなければならないと、僕は思うのです。

追記(2019-07-26 04:53)

参考にした統計のリンク一部書き忘れてたので追記

https://survey.gov-online.go.jp/s62/S62-07-62-06.html

https://survey.gov-online.go.jp/h04/H04-08-04-08.html

https://survey.gov-online.go.jp/h09/shogaisha.html

https://survey.gov-online.go.jp/h13/h13-shougai/index.html

https://survey.gov-online.go.jp/h18/h18-shougai/index.html

https://survey.gov-online.go.jp/h24/h24-shougai/index.html

https://survey.gov-online.go.jp/h29/h29-shougai/index.html

https://honkawa2.sakura.ne.jp/4400.html