あままこのブログ

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経済成長を巡ってすれ違う二つの人間観―人は生来「働きたい」ものなのかそうでないのか

rna.hatenadiary.jp

なんだろう、やっぱり経済成長肯定論者との間では、根本的なところで議論が噛み合ってない気がする。
で、これは一体なぜなんだろうと考えてみると、そもそも「人間はいかなる存在か」という根本的な人間観が異なってるんじゃないかと、思うわけです。

「生産性は嫌でも上がっていくもの」……本当に?

id:rna氏は「経済成長は別に『生産性を上げていこう』という話ではない」と主張し、その論拠として、次のように述べています。

そもそも生産性というのは嫌でも上がっていくものなのです。労働者の日々の創意工夫や突発的な技術革新によって、同じモノを作ったりサービスを提供したりするのに必要なコストは下がっていきます。言い換えるとより少ない労働者で同じだけのモノ・サービスが供給できるようになります。*1

ということは、ただ生産性が上がるばかりで需要の拡大が伴わないと労働者が要らなくなるわけで、失業が発生したり所得が減少したりします。「供給ではなく需要が問題」というのはそういうことなのです。つまり、生産性の上昇に見合っただけの需要の拡大=経済成長が必要である、というのが僕の考え方です。なので、経済成長と言っても年率にして数%程度が必要だと言っているに過ぎません。

……

生産性の向上は、経済成長のために強いられているのではなく、個々の生産者が利益を追求する過程で必然的に生まれるもので、しかし経済成長がないと副作用として失業やらラッダイト運動やらが発生してしまいます。そういう順番の理屈なのです。

つまり、id:rna氏の考えでは、人間というのは、例え強いられなくて勝手に生産性を上げていくものであり、その生産性を上げた結果に経済を追いつかせるために経済成長が必要なんだと、そう主張しているわけです。なるほど、働いている時に常に「なにか工夫できるところはないか。よりよい技術を生み出せないか」とか真面目に考えている人は、こういう風に人間を捉えてるんだなぁ。

でもそれに対して、生来働くのがいやで、常に「ああ働きたくない、働きたくない」とつぶやいている僕なんかは、こう思うのです。

「いや、人間は何の圧力もなく普通に生きてるだけで良ければ、創意工夫やら技術革新なんかしないでしょ。少なくとも今それをみんながやってるのは、『そうやって生産性を上げられないと、自分が劣っているように思えてしまう』という、強迫観念に苛まれてるからじゃないの?」と。

ここでは、そもそも「人間はいかなる存在か」、「人間は何で働き、利益を追求しようとするのか」という根本的人間観が、異なってきているのです。

経済学者が前提とする人間観……人間は本能的に生産を向上し、利益を追求しようとする

id:rna氏が前提とする人間観、これは、僕が思うに、まさしく経済学が前提とする人間観、いわゆる経済人だと思うのです。

ja.wikipedia.org

「経済人」とは、「homo economicus」の訳語で、「もっぱら「経済的合理性」にのみ基づいて、かつ個人主義的に行動する(するだろう)」と想定した、人間に関する像・モデル・観念のことである。

つまり、経済学の考えにおいては、人間っていうのは文化とか価値観とか関係なく、本能的に生産性を向上し、それによって利益を上げようとするものなのです。だから、無駄な時間があったらその時間はより利益を生むために働こうとするし、働いてるときも常に「より効率的に、利益を生む方法はないだろうか」と考えるものなのだと。その観点から言うと、「失業者」はすべて「本人の望みは働きたいけど、様々な不都合によって働けない不幸な人たち」だから、より少なく、できればゼロに近づけないといけないとなるし、そうやって向上した生産性を無駄にしないように、経済成長をしなければならないと、なるわけです。

そして、現状の経済政策っていうのは、ケインズ主義だろうがマネタリズムだろうが、それこそMMTだろうがすべて、この経済人を元に考えられてる。れいわの経済政策も、そうだと言えるわけです。

しかしそれに対して、全く別の人間観も存在するわけです。「人間は自然と利益を追求するというけれど、それって結局、『そうでないといけない』という文化があるだけじゃね?」と疑問を呈する考え方が。

人類学的人間観……人間は「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という文化・価値観に縛られてるから、生産性を向上し利益を上げようとする

僕が前提としている人間観、それは端的に言えば、「人間が何を求め、そしてその求めるものを得るために、どう動くかは、文化によっていかようにも変わりうる」というものです。

今回の記事に沿って言うならば、「人間は『生産性を上げなきゃ駄目だ』という価値観を内面化させられてるから、その価値観に沿って動いてるわけで、決して本能的に生産を向上し、利益を追求しようとするわけではない」というものです。

このような見方は、人類学や社会学の方面から提示されてきたもので、それなりに実証的なものなのですが、こんな場末のブログでその実証性をとやかく言うことほど不毛なものはないので、説明はしません。気になる人は、以下の本でも読んでください。

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 
西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)

西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)

 
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

ていうか、僕なんかするとこっちの人間観のほうがよっぽどリアリティあるんですがね。僕は誰からも何も言われなければ常に休んでいるか、遊んでいたい人間で、自分から「働きたい」と思ったことは一度もありません。ただ、そうすると親とかから冷たい目で見られるし、何より死んでしまうので仕方なく働くわけですが、働いてる間も「もっと工夫したい」とか全然考えません。

そういう人間からすると、前項で上げた「経済人」なるものは、結局、社会からそういう価値観を強迫観念として植え付けられてるから、そうなってるだけなんじゃないの?と、思えてならないのです。

あなたは、どっちの人間観がより、リアリティあると思いますか?

経済人とナチスの距離……「「生きるに値しない命」などない」と、言うだけで十分なの?

id:rna氏は次のように述べ、経済成長を否定しなくても、ただ「「生きるに値しない命」などない」と言えば良いと言います。

でも「富国強兵」を否定するために経済成長を否定する必要はないのです。僕ならただ一言「「生きるに値しない命」などない」と言います。それ以上の理屈など不要ではないでしょうか。

 id:rna氏の記事でも書かれているように、「生きるに値しない命」とは、ナチスの障害者殺害政策のキーワードです。そう、れいわが何であそこまで口酸っぱく「生産性で人間をはからせない世の中」と言ったかといえば、「生産性でのみ人間をはかる世の中」というのが、究極的に到達するのが、このナチスの障害者殺害政策だからなんですよね。

だから、「「生きるに値しない命」などない」と言うのは重要、重要なんだけども、でも……それだけで良いのか?という思いが、僕の中にはあるのです。

なぜなら、ナチスは別にいきなり狂人が出てきて、「『生きるに値しない命がある』という狂った信念をドイツに押し付けた」から、成立したものではないからです。ナチスの「生きるに値しない命がある」という価値観は、ポッと現れたわけではなく、それまでの「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観の延長線上にあるのです。

※ここらへん、より詳しく知りたい人は、下記の本を参照。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

 

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

 

そして「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を、自他に適用した結果が、まさしくあの相模原の障害者殺傷事件であるわけです。

news.yahoo.co.jp

例えば、この事件を起こした植松被告に、「「生きるに値しない命」などない」とだけ言っても、鼻で笑われるでしょう。なぜなら、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を内面化した人間に対して、そんな言葉は、空虚な綺麗事でしかないからです。

重要なのは、そのような残酷な価値観ではない、新しい価値観をいかにして示せるかなのだと、僕は思うのです。そういう新しい価値観を示せず、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を人々が内面化したままでは、きっと第二、第三の相模原殺傷事件は起きるし、さらに言えば、やがてナチスのようなものをこの社会に生み出してしまうでしょう。

「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観以外の価値観をいかに示すか……経済成長と「生産性で人間をはからせない世の中」を両立する唯一の方法は、それしかない

そしてこの問いは、まさしく「経済成長が大事」と主張する経済成長肯定派にこそ、考えてもらいたいことなのです。

僕は、経済成長なんかどうでもいいと考えていますから「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観から人々を脱洗脳すればそれでいいじゃないかと考えます。その結果、現行の経済が回らなくなろうと、それはそれで人は生きていくだろうと、楽観的に考えています。

しかし、もし「経済成長」を前提とした現行の経済システムの維持が不可欠と考えるなら、考えるからこそ、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観ではない形で、現行の経済成長を支える価値観を考えなければならないはずなのです。

しかし、それに答える人は、「経済成長」を語る人にはほとんどいません。「経済」について、価値観部分から語るのは、それこそローマ法王だったり

jp.wsj.com

ダライ・ラマだったりみたいな宗教家ばかりです。

gendai.ismedia.jp

こういう宗教家ばっかりにまかせていて良いのでしょうか?彼らは宗教が専門だけど、経済のことなんか全然知らないんですよ?

「経済成長が大事」だと言う人は、「経済について詳しい」という自負があるのでしょう。だったら、そういう人にこそ、「経済成長」と両立する価値観とはなにか、真剣に考えてもらいたいと思います。

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