あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

そしてみんな「病んで」しまった

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www.4gamer.net
にゃるら氏が作ったこのゲーム、早速結構話題になっているようで、僕が普段見ているVTuberでも、実際にこのゲームを実況プレイしてみたり、まだしてなくても「これから実況プレイしようかな」と呟いていたりするのがよく見られます。
まあ僕自身、こういうメンヘラとか病み系の美少女キャラクターとか大好きですし、ぜひやってみたいなーとは思うんですけど、しかしその一方で、こうも思ったりするわけです。

「こういうゲームが『面白いゲーム』として安易に消費される世の中って、果たしていいのだろうか?」と。

僕としては、とりあえずどーしてもその思いを書き留めておかないと、ゲームをやろうにも実況プレイを見ようにも、なんかずっともやもやしたものを抱えそうなので、ここに書き留めておきます。

僕たちが生きる現実としての「悪趣味」

このゲームは、ゲームの紹介やら実況動画を見ていく感じ、インターネット上で生配信をする女の子を、その女の子の彼氏として導いていくゲームだそうで、それこそ例えが昔の『プリンセスメーカー

のインターネット配信者版みたいなゲームっぽいです。

ただこのゲームの特殊なところは、そこでインターネット配信者としてネタを見つけたり、あるいはインターネットで配信をしていく中でダメージを受けるメンタルを回復するために、例えば薬物を摂取したり、女の子と性行為をしたり、陰謀論を教え込んだりするということが、できることなわけです。

そしてその結果として、薬物を過剰摂取(オーバードーズ)してしまったり、性依存に陥ってしまったり、陰謀論者となってしまうみたいなエンドもある。

まあ、このように書くと普通の人なら「なんて悪趣味なゲームなんだ」と思うでしょう。実際僕も悪趣味だとは思うわけですが、しかし一方で「でもこれって、インターネットで生きる若者のリアルだよなぁ」と思ったりするわけです。

もちろんこれはあくまでゲームですから、過剰にカリカチュアしている部分はもちろんあります。しかし、実際自分の友人とか、あるいは自分がインターネット上で動画を見ている配信者のことを思い浮かべても、薬物の過剰摂取だったり、うつ病、性依存症とかいった形でメンタルを病んでしまっている人は本当に多く見かけますし、また陰謀論であったり、政治的に極端な思想に行ってしまった人とかも多くいるわけです。

というか、むしろそういう「正常から逸脱してしまった部分」を全く持たず、健康的に生きている人のほうが、接している人の中ではむしろ少数派なんではないかという気もするわけです。さらに言えば、僕が知るそのような健康な人も、実際は病んでいる部分を隠しているだけなのかもしれないわけで。

僕がもやもやするのはそこで、このゲームで描かれる「悪趣味」が、全く自分の生きている世界と関係ない「悪趣味」さなら、僕も別に何も悩まず「悪趣味だなーこのゲーム」と言いながらプレイすることができると思うわけです。しかし、このゲームの悪趣味さは、あまりに僕が生きる世界と地続きすぎるわけで、そんな悪趣味さを、例えゲームの中とはいえ脳天気に楽しんでいいのかどうかということが、自分の心の中でもやもやするのです。

「病み」があこがれの対象になるということ

そして更に僕がもやもやする、このゲームをプレイしたり、あるいはこのゲームをプレイするYouTuber・VTuberの動画を見る人にとっては、このゲームで描かれる「病み」って、実は憧れる対象になってしまっている、ということです。
実際、ここまで悪趣味に描かれなくても、精神的に不安定であることを「病んでる」とか表現したり、自分がポルノに依存している「ポルノ依存」であることを告白したり、陰謀論といった「オカルト」知識が豊富であることを、自分の個性として売りに出しているライバーは多くいて、そして実際に人気になったりしているわけで、このゲームで描かれるように、「病む」ことと「インターネットで多くの人に承認されること」というのは、実際トレードオフな関係だったりするわけです。
そして、そういう人気あるライバーに憧れる人たちが、「インターネットで承認を得るならこういうふうに『病む』ことが重要なんだ」と考え、一生懸命病もうとする、そんな流れが、実際あるわけです。

ただここで注意したいのが、僕は「『病み』を個性とすること」を一概に否定したいわけではないということです。というか憧れようが嫌おうが、社会の中の正常についていけず病んでしまう人というのは、必ずいるわけで、そういうひとが普通の社会では得られない承認と尊厳を、インターネット上で「面白い個性」として得ることができる、これ自体は、僕は肯定したいわけです。

ただ、そうはいってもやっぱり「病んでいる」よりは健康であるほうがいいはずなんですよ。まあ、昔の僕なら「健康なんてダサい!病んでることこそ最高!」とか言ってたでしょうが、しかしそうはいっても、気分が落ち込むよりは晴れやかであるほうがいいし、なにかに依存しているよりは依存していない方がいい、陰謀論にはまって周囲に迷惑をかけるのはやっぱり良くないと、思うわけです。「病んでいる」ときの休息場所としてインターネット空間があるのはいいが、しかしそこで休息を得たあとは、きちんと病いを治癒して健康になるのがいいんじゃないかと、今の僕は思うわけです。
しかし実際は、むしろインターネットで人気を得続けるには「病み続ける」ことの方が正解になるわけです。そして、インターネットで人気を得たいと思う多くの人々は、だからむしろ進んで「病もう」とするわけです。

このゲームは、そういったインターネットの現状を、ただ「面白いもの」として肯定しているように見える。そこが、僕のもやもやポイントなんですね。

私達の社会は「正常」を失った

でも、そこでじゃあ「今のインターネットを肯定する」以外の描き方があるのかと言われれば、ないのもまた、今のインターネットの現状、というか、現代社会全体の状況でもあるわけです。

「病み」、「性欲求の肯定」、「隠された真実の追求」といった、今の社会から逸脱した表現・表出が、大衆のサブカルチャーに浸透していたのは、1960〜70年代でした。いわゆる「カウンターカルチャー」というものの全盛期で、工業社会・家父長制といった、社会全体の支配的な価値観・システムに対する反抗として、それらの表現・表出は行われるようになったわけです。

しかし、1980年代になると、むしろそういったカウンターカルチャーこそが社会の全面にあられるようになっていった。「標準に沿うこと」こそが重要視される工業化社会から、「標準から差異化する」ことが求められるポスト工業化≒情報化社会になるにあたり、むしろ「いままでの社会と違うことをやること」こそが求められるようになったわけです。

ところが、1990年代になると、むしろそうやってどんどん差異化を求めていた結果、実は人々は疲弊しおかしくなっていったんではないかと、一部の人々が気づきはじめたわけです。そしてその人々は、それまでのただ「差異化」を求め奇異な方向に進化していく方向を否定し、むしろ「一人の職業人として真っ当に生きろ」「日常に帰れ」と言い始めた。

ところが、そうやって彼らが「帰れ」と叫んだ先の「真っ当な生き方」というのは、しかし現代においてはもはや持続不可能なものだったわけです。「一人の職業人として生きろ」と言われても、産業構造の変化の中でもはや従来の「職業人」なんてのはリストラ対象でしかなくなるし、昔の標準家族に戻ろうとしても、もはや経済的に共働きでない家庭なんてありえない。

そんななかで、無理やり「標準」「正常」なるものを求めようとすると、「古き良き戦前の日本」なんて歴史修正主義にすがるか

あるいは「高度経済成長期の夢よもう一度」なんてノスタルジーにすがるしかなくなる。

しかしそれらも結局、ネット右翼日本会議的な陰謀論にしかならないわけです。

でも、そんな人々を「頭悪いネトウヨどもwww」として笑う僕らは、じゃあ彼らの「正常さが社会から失われている」という問題意識に答える事ができているのか?

「多様性が大事」「多様性が認められない古いおじさんは価値観をアップデートしなきゃ」というけれど、「みんな違ってみんな良い」という世の中は、その実「どうやって幸せになるかはその人の自己責任」と言ってるだけなんじゃないのか?

少なくとも昔は、「このレールに従って生きれば幸福になれる」という道が指し示されていた。もちろんそれは、逆に言えば「このレールに沿って生きられない人は不幸になっても仕方ない」という残酷な切り捨てと表裏一体だったわけだけど。

でも今はそもそも「ただそれに沿っていれば幸福になれるレールなんて存在しない」社会なわけで。

上記で挙げたゲームは、「インターネット」に焦点を当てたゲーム。だけど、インターネットをやめても、この社会全体が「病んでいる」としたら、逃げ場は結局ないんじゃないか?

そんなことを考えると、「この今のインターネットを肯定する」ことが本当にいいのか?と、僕は悩んでしまうのです。