あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

インターネット上で「声」を発することについて

🔥もしくはマーマー神💙💛 on Twitter: "青識亜論ことパパミルク太郎君のスペースを少し聞いていたけれど、最低最悪だった。 酔っ払って奇声をあげる、他のスピーカーに黙れと大声をあげて喋らせない、何か言われたらトーンポリシングだと叫ぶ、とにかく酔っ払っていることを言い訳にする、部落民はにおいでわかる等の差別発言。 1/2"

古のrir6君がちゃんと大人の小汚さを身につけて、社会の弾力性を理解する。ということができずに、糸のキレた凧みたいになったのが、青みたいな人間にも思えるんだよなあ。黙らせる事ができない存在が憎いみたいな

2022/03/12 01:39
b.hatena.ne.jp
なんかネットサーフィンしていたら、流れ弾を受けたので。

といっても、ああいうTwitterとかのSNSにうごめいてるミソジニストについては、まあ散々語ってきたのでし、最近も↓
note.com
みたいな、特には語りません。「そういう発言をすると傷つく人がいる」というナナメの関係の知人・友人を持たないことの不幸を、ただ哀れむしか無いわけで。

僕が興味を持つのは、こういう暴言を発してしまうTwitterのスペースという場。

というか、スペースに限らず、音声配信とか動画配信って、ブログのような「文字で発表するメディア」とはまた違ったメディア特性があるんだけど、文字書きに慣れ親しんできた古のネット民ってあんまりそのメディア特性の違いに敏感でない気がする。上記のような暴言をインターネットで声に出してしまうのって、その特性の違いに対する鈍感さがあったりするのかなーと思ったり。

そういうメディア特性の違いによる、発せられるメッセージの違いを分析するのが、彼らが忌み嫌う社会学だったりすると思うんだけどね。

クールなメディアとしての「文字」、ホットなメディアとしての「声」

いわゆるクールなメディア/ホットなメディアという、社会学の古典的分類に沿って言えば、ブログとかネットニュースとかの「文字」というのはクールなメディアに分類される。それに対して、声による音声配信とか、またはYouTubeでの動画配信というのは、ホットなメディアに分類される。

で、このクールなメディアとホットなメディアには色々な違いがあるんだけど、今回の記事で重要になるのが「自分とそのメディアを切り離すことができるか」という点。

よく「発言内容への評価と、その発言者の人格への評価は切り離して考えましょう」ということが言われる。このこと自体の妥当性はさておき、この切り離しって、文字だと容易だけど、声にすると結構難しい。

例えば、「今から発する言葉は嘘ですよ」と宣言した後に

「お前は馬鹿だ!死んでしまえ!」

ということを、文字と声それぞれで伝えたとする。多分、今ブログであなたが見ている様に、文字で伝えている場合は、上記の文章はそれほどショックではないはず。

ところが、それこそ電話越しに怒鳴り声で上記のようなメッセージを伝えたとしたら、嘘だと分かっていても、結構ショックなのではないでしょううか。少なくとも僕は、その言葉を発した人に対しイヤな感じを受けてしまう。

ことほどさように、声というものは文字より、与えられる側の感情に作用し、そしてそれ故に、「声を発した当人」と「発せられたメッセージ」を近づけてしまう。だから、声を発する声優や、声や体でメッセージを伝える俳優は、「この人は役柄を演じているだけ」と知っていても、演じていた役柄がその人本人のキャラクターとして認知されがちなのです。いくら怖い小説とかを書いてもその人自身が怖い人とは思われないのと対称的に。

「声」は自己暗示を生みやすい

そしてこれは他人に与える印象だけの話ではない。声を発する自分自身にも同じ事が言えます。

自分が心から思ったことでもないことを、他人の反応を得るためにわざとインターネットに書くという行為があります。いわゆる「釣り」という行為ですが、例えば掲示板やブログ記事でそういうなことをやっていても、多くの人はそれと現実を切り離すことができるわけです。

昔のインターネットではよく「インターネット上ではあんなに過激なことを言っているのに、現実のオフ会で会ってみると全然おとなしい人だった」ということがあり、「ネット弁慶」なんて揶揄されたりもした。つまりこの場合は、良くも悪くも「ネット上での人格」と「現実での人格」というものが使い分けられているわけです。

ところがインターネット上で声を発することができるようになると、この使い分けは途端に難しくなります。なにしろネット上で声を発するときも、現実で声を発するときも、やることは一緒なのですから。そこでもし「ネット上での人格」と「現実での人格」を使い分けようとするなら、かなり理性上で意識して使い分けをする必要が出てくるわけ。ところが多くの人は、その意識的な使い分けができていない。

そうなると、例え「敢えて露悪的に言ってやる」みたいに本人が考えていたとしても、その「露悪的な演技」に引っ張られて、本人の人格までもが悪しき方向に引っ張られるのである。そして集団分極化がより促進されやすいというインターネットの特性により、その露悪はさらに過激になっていく。

上記のスペースでの暴言が、具体的にどういう流れで発せられたかは、僕は知りません。しかし一般論として、インターネット上で声でコミュニケーションするということは、極端な方向に人格を変形させていく効果が、文字より高いと言えます。

「声」で発するメッセージは、より抑制的にしよう

上記のようなことを踏まえた上で、Twitterのスペースや、YouTubeでの動画配信で注意すべきことを考えてみましょう。

最初に言えることは、声で発するメッセージは、文字で発するメッセージより抑制的な、穏やかなものであるべきということです。上記の例で挙げたように、他人を批判するメッセージも、文字で書けばそれほどダメージを与えないが、声で発するとショッキングということも多々あるのです。

インターネット上で動画配信とかを見ていると「この人面白いけど過激なこと言ってるなー、Twitterでみんなに知らせてみよ」と考え、いざ発言を文字起こししてツイートしようとすると「あれ、これそんなに過激でもないし面白くもないな……」と思う経験を、よくするんですね。実際、「過激な配信者」として知られる配信者の配信内容も、文字起こししてみるとそんなでもなかったりするわけです。でも、それでも「声」のメディアでは十分過激で面白く聞こえるから、それはそれでいいんですね。

逆に、文字起こししてもなお「過激だ」と思うような配信は、今回炎上したスペースの例にあるように、度を逸した、不快な過激さといえる訳です。

「演技する」という技法をきちんと訓練する

そして、二つ目に重要なのが、「演技で発する声と、自分の人格を分離する訓練をする」ということです。
声優とか俳優というのは、まさしくそういう訓練を積んできた人です。彼らは、好青年の役をやった数時間後に卑劣な悪漢の役をやったりすることが多々あるわけで、そこでは、それぞれの役柄を演じる人格を分離する必要があるわけです。そして、それは自然に身につくものではなく、訓練が必要なのです。

インターネット上で人気の配信者に、演劇経験者や、あるいはTRPGのような「演技するゲーム」が好きな人が多いのも、まさにそこなのですね。演劇とかTRPGといったものは、「自分と異なる存在」を意識的に演じる必要が出てくるわけです。そしてそれは、頭で理解すればなんとかなるものでなく、何回も反復練習して、身体にたたき込まなきゃならないものなのです。

ところが、インターネットの人というのは、こういう身体性というものを軽視していることが多いため、「頭で理解しているから」とかいって安易に露悪的に振る舞って、ドツボにハマっていくのです。

僕はよく知らないけど、上記のブコメで言及されたrir6くんとかいうのも、そんな感じだったんじゃないかなー?

メディアの違いを理解せよ!

しかし、こういう騒動を見る度に思うのが、かの名言、「メディアの違いを理解せよ!」です。

なんていうか、インターネットの人って、「伝えるメディアなんて関係ない、メッセージが全てだ!」という素朴なメッセージ至上主義の人が多い気がするんですね。社会学とか、あるいは人文的な高等教育をきちんと受けず、更に言えばそれらを「お気持ちw」とかいって馬鹿にする。

で、そういう人が「インターネット上でこういう技術を使ってメッセージを伝えれば余計なノイズにじゃまされない!」とか思って新技術とかを賞賛したりするんですが、いやそのノイズこそが重要なんだって。

つい最近も、「VTuberは生身の人間の人格にじゃまされず、真にバーチャルなキャラクタを生み出すことができたはずなのに、今あるVTuberはただの生主じゃないか」とか言って勝手に失望している人がいましたが、文字でやりとりするならともかく、「声」というメディアの特性を理解していれば、そこで生身の人間の介在しないバーチャルな存在が現れるはずないじゃないですか。マクルーハン読み直せと。

というか、技術者の人ってほんと「生身の人間」の匂いが嫌いですよね。

僕なんかのような人文系の人からすると、「生身の人間」の匂いこそが好きなんで、インターネットという新しい情報技術で、生身の人間がどのような表現をしていくか、その可能性とリスクこそが面白いんじゃ無いかと、思わずにはいられないのですが。