前回の記事、おかげさまで多くの人に見てもらえていただけたようで、たくさんのコメントをはてブ・Twitterでいただきました。
amamako.hateblo.jp
その中には、「そもそもゼロ年代批評がフェミニズムと親和性があったなんて嘘で、本当はとても男性中心主義的なホモソーシャルの場だった」という指摘があったりして、「それは確かにそうだなー」と思ったりしました。
「ゼロ年代批評」を、「オタクとフェミニズムが結構仲がいい時代」と回顧する記事。こういう時代の「空気」に酷い目にあわされてきた身からすると、Noとしか言えない。大多数のケースでは、フェミニズムやカルチュラル・スタディーズが奪用・脱政治化されてきただけでしょう。https://t.co/Soa0cScIA2
— 岡和田晃_NLQ23もうすぐ出ますよ、『〈戦後文学〉の現在形』に津島佑子論と「震災と文学」 (@orionaveugle) 2020年11月9日
フェミニズムの理論には親和的だったけど、集団の実態としてはバリバリのホモソーシャルだった……みたいな印象だな、ゼロ年代批評界隈。そして、多少マシになりつつも、今でも結構、ベースはそのノリなんじゃないかと思うけども。
— 前Q(前田久) (@maeQ) 2020年11月10日
私、ゼロ年代の批評ってすごく男性中心的だなーと当時から思ってて、ああいうこととは違うことをやりたいと思って批評やってるんだけど。 / “オタクとフェミニズム、なんでこんなに仲が悪くなっちゃったの? - あままこのブログ” https://t.co/r6kqE5WLNJ
— saebou (@Cristoforou) 2020年11月9日
いわゆる「ゼロ年代批評」、書かれていた内容もそうだけど、書き手たちの間に「男子校部室ノリ」が猛烈にあったので、確実に男性中心主義的なフィールドになってたと思う。今ではなんか色々ウヤムヤになってるけど
— コメカ (@comecaML) 2020年11月9日
昔のインターネットが「平和」に見えたのは、結局マイノリティを抑圧していたからだったのかも
ただ、それとは別に、先日の記事で僕が「昔のインターネットってそんなに女性嫌悪やフェミニズム嫌悪なかったよね」という風に書いたことに、ゼロ年代にインターネットを使っていた女性当事者から「いや女性嫌悪だらけだったよ!」と、批判が多数寄せられていたのが、僕にはかなり考えさせられたわけです。
オタクとフェミニズムは仲が良かったのかも知れないけど、ゼロ年代のネットは女性が男性向けジャンルにいるとわかると攻撃され炎上させられてきた時代なので、そのオタクとフェミニズムは(論文とか書いてる人は別として)論じる人達の大半は男だったんだよなあとしか言えんhttps://t.co/HjOiWObFfs
— 江楠 (@sk56rn_op) 2020年11月9日
なんかゼロ年代とかいまより凄まじいミソジニーが放置されきってたし、BL含め女性向け二次創作もめっちゃ攻撃されてて、テン年代もその延長線上にあるという理解なんですが……脱政治化して使っていたのが通用しなくなっただけだったのでは……
— セメントTHING 시멘트 (@cement_thing) 2020年11月9日
インターネットで楽しく趣味の話をするために性別を隠すのは基本だと思ってインターネットしてきたから、昔は男女共に仲良かったよね、と言われても、ちょっとそういう世界は知らない……
— 西田藍 (@iCharlotteblue) 2020年11月9日
この著者と同世代だけど、オタクであるだけで叩かれる風潮がまだあって女子で漫画アニメ好きだとめちゃめちゃ叩かれてたし、2ちゃんでは男っぽく振る舞ってたし、腐女子なんかわざわざ標的にされて叩かれてたのに、だいぶ牧歌的だったと認知しているようで白目。。。 https://t.co/4xgDNazSXa
— buvy@夏は溶けるman (@buviviman) 2020年11月9日
批評の話ではないけど、ゼロ年代のネット空間における腐女子の境遇は厳しいものがあった。某掲示板のBL系スレにいたら勝手にそれ見つけた荒らしが攻めてきて、夜通しみんなで罵倒の応酬みたいなことありましたね。
— おきさやか(Sayaka OKI) (@okisayaka) 2020年11月9日
そういうことあるせいかパスワード付きのサイトは多かった。
要するに彼・彼女らにとっては、ゼロ年代のインターネットのほうがよっぽど男性優位主義的なミソジニーにあふれた空間で、それに比べれば今のインターネットはそういうミソジニーに対して「NO」と言える、昔に比べたら良い空間になっている、という主張なわけです。
このような意見を読んでいて思い出したのが以下の記事です。
flets.hikakunet.jp
この文章の著者は現在のインターネットが「いつも誰かが怒っている」ように見え、それを見ているのにかなり疲れを感じるようになったと語っています。
ある時期から、SNSのタイムラインを眺めると、いつも誰かが怒っているな……と感じるようになった。私からそう見えるだけではないらしく、同意してくれる人もちらほらいるので、私個人の錯覚というわけでもないみたいだ。
具体的にいうと、おそらく2017年の末頃からだろうか。いや、もっと前からかもしれない。政治、育児、フェミニズム、企業広告やマンガやテレビの不快な表現。そういったものに、いつも誰かが怒っている。炎上のネタに事欠くことはない。
しかし一方で、筆者はそういったものを見るのは疲れるが、しかしだからといってそういうものから距離を取るのも違うのではないかと述べ、その理由として次のように書いています。
誰かが怒っているところを目撃することを、嫌だから、不快な気分になるからといって、やめてはいけないんじゃないのかと考えたりもするのだ。この人はなぜ怒っているのか。この怒りの気持ちがSNSで拡散されていることには、どういう意味があるのか。考えなければいけない、見なくてはいけないと思うから、完全には切れないのである。
ちなみに、「怒っているほう」がいつも常に正しいとは、私は決して思わない。それは『サンクチュアリ』を読めばわかる。「不当に差別された正しくてかわいそうな黒人」など、そこにはいない。不遇な経験をしたからといって、それは無実の罪を被った白人を火あぶりの刑に処してよい理由にはならないだろう。
怒っているほう、嘆いているほうが難癖をつけているように思うこともあるし、被害者面をして自分に都合のいい主張を押し付けているように思うこともあるし、そもそもの主張が矛盾しているように思うこともある。差別しているほうはもちろん、されているほうだって、決して聖人ではない。ときには悪意だってあるだろうし、嫉妬を孕んでいることだってある。「あいつを引き摺り下ろしてやりたい」という醜い感情を、持たない人間がいるだろうか。
だけど、男性と女性では、マジョリティとマイノリティでは、見えている世界がちがう──ということに、私も含めて、無自覚な人が少なくないのかもしれない。今、怒りを抱えていない人は、「怒らなくて済んでいる」ということがどれだけ贅沢で恵まれた環境であるかに、もっと自覚的でなければいけないのではないだろうか。
(略)
インターネットの「空気」は数年単位で変わる。怒りと不機嫌と炎上が目立つのは、きっと今が、過渡期だからだろう。時代がこれからどう変わるのかはわからないけれど、おそらく、良いほうに変わるのだと私は信じている。だから、私と同じように「SNSの不機嫌さ」に疲れている人たちには、接する量を調整しつつ、もう少し一緒にこの不機嫌なインターネットを見つめていきませんか、と声をかけたい。
思えば、SNSがなかった時代には、隣で誰かが不当な差別を受けていても、怒りに打ち震えていても、苦しくて泣いていても、それに気付くことは簡単ではなかった。
だけど今は、もちろん発信する人にそれなりの勇気は必要だけど、昔に比べたら格段に、声を聞くこと自体は簡単になっている。これは歓迎すべきことなのだろう。そこに怒りが、苦しみが「ある」と私たちが知るだけで、きっと救われる人がどこかにいる。
要するに、「差別への怒りを声に出せなかった時代」よりは、今の時代のほうがまだいい。そしてインターネットも、そうやって今まで隠されてきた「怒り」に気づくことで、もうちょっと良いものになっていくのではないかと、述べているわけです。
しかし僕は、どうもその見方は楽観的過ぎるように思えてならないんです。なぜなら、そうやって「あいつらは差別している!」と怒る人に反発している人の多く—今回の記事の文脈で言うならば「女性フェミニストからに批判に反発する男性オタク」—にとっては、その「あいつらは差別している!」という批判こそが、自分たちの趣味に対する差別だからです。
どういうことか?
かつてのインターネットやオタクカルチャーは「男性中心主義的なホモソーシャル空間」だったわけですが、しかし一方で、だからこそインターネットやオタクカルチャーは現実の「マッチョやクイーンビーがえらく、ナードが最下層」なスクールカーストから逃避できる、逃避空間としての役割を持っていました。
しかし「差別への怒り」は、そのような逃避空間を崩壊させてしまう。そこで男性オタクたちはこう思うわけです。「むしろフェミニストの奴らこそが、オタク差別をして自分たちから居場所を奪っていく差別者じゃないか」と。
ゼロ年代インターネットで「非モテ論」が流行ったのは、そういう話題について語れるのがインターネットだけだったから
ゼロ年代のインターネットは、確かに今思い出しても「ミソジニー」的空気がそこら中に漂っていました。そういう空気が一番如実に表れていたのが、いわゆる「非モテ界隈」です。
「非モテ界隈」とは、「自分が女性にモテない」という劣等感を抱えた男性が集まった界隈で、主に2ちゃんねるとかはてなダイアリーとか、あるいはテキストサイトとかにたむろってました。
彼らがどんな主張をしていたのかといえば、「国は女どもを男に分配する再配分を実施しろ」とかいう、まさしくフェミニストが聞いたら激怒するような主張であったり、「女は結局殴らぬオタより殴るDQN」という、結局女性は口ではDV反対とかいってても、本音では暴力振るってくるぐらい男らしい奴を好きになるんだろという、女性蔑視的主張だったりするわけです。まあ確かに、今あらためて振り返れば、これほどミソジニーにあふれている言葉が交わされる場所もないわけで……
でも、じゃあなんで彼らがそういった主張を繰り返しているかというと、その背景には「自分たちこそ強者であるモテる男や、そういう男を尊ぶ女に虐げられてきた弱者で、そういう弱者が唯一馬鹿にされず自分の気持ちを吐露できるのが、インターネット空間なんだ」という思いがあるわけです。
例えば、そういった非モテ界隈で起きた騒動の一つに、「マッチョウィンプ論争」というものがありました。
www.tyoshiki.com
guri-2.hatenadiary.org
www.ymrl.net
www.ymrl.net
どういう論争か?端的に言ってしまえば「自分を非モテとか思っている人たちって、要は女性にアタックする勇気がないだけでしょ」というid:guri_2という人に、id:Rir6という人*1が「そんなの結局強者の言い分じゃん!」と噛みついた騒動です。
で、その騒動でid:Rir6という人はこういうことを書いています。
私たちはまずこう思ったはずです。「こいつらを酷い目に遭わせてやりたい」と!つまり憎しみです。私たちはどうしてもそれをオブラートに包んで、何か「それは自己責任ではなくて社会の責任だ」とか、「そのように言うあなたたちは既得権益によってそんなことが言えているんじゃないですか」という様な社会的に正しい意見に仕立て上げようとしてしまいます。ですが、そうやって社会的に正しい意見にすればするほど、本当に言いたいことは消えていってしまいます。じゃあ、「そうだよね、貧困とか格差は社会の責任だよね」と理解をしめしてくれる金持ちなら良いのか?「しょうがないなぁ、職がないなら僕が雇ってあげるよ」と言う会社社長なら良いのか?違うでしょう。私たちが本当に言いたいこと、それは「てめーらうぜぇ。ぶん殴りたいぐらいむかつく。とっとと消えろ」ということなはずです。言葉で相手を傷つけたいはずなんです。だったら恐れることはない、それをやれば良い。(*3)
もちろん、このようなことを言うと大きな反発を食らうことも知っています。「彼らは別に善意で言っているんだから、それを罵倒するのは酷い」と。だが、そもそも何で善意の発言は罵倒しちゃいけないんですか?というかそもそも人を憎み、罵倒することに「正当な理由」が必要であると、そう考えること自体、「正当な理由なき罵倒の自由」を社会に搾取されていることに他ならないんじゃ、ないんですか?
そもそも彼らマッチョは既にマッチョなんですから、金とか名声とかそんなものは十分あるわけです。だったら何でその上私たちが、インターネット上で彼らが傍若無人に自慢や根性論を書くのを容認しなきゃならないのか?僕にはそんなもの奴隷根性であるとしか思えません。ウインプはマッチョの文章をインターネット上で見つけたらすぐに罵倒し、そのマッチョを追い出す。これぐらいのことをしても十分OKでしょう。というか、何でウインプたちがそういうことをしないのか、僕は不思議で仕方ありません。
無茶苦茶な文章だなーと思うわけですが、この
そもそも彼らマッチョは既にマッチョなんですから、金とか名声とかそんなものは十分あるわけです。だったら何でその上私たちが、インターネット上で彼らが傍若無人に自慢や根性論を書くのを容認しなきゃならないのか?
という文章に代表されるように、当時のインターネットというのは、現実ではマッチョなジョックやその周りにいるクイーンビーに虐げられているナードたちがその鬱屈した気持ちを吐き出せる場なんだと—少なくとも当時の非モテ少年の認識としては—思っていたわけです。
「昔のインターネットを返して」というバックラッシュ
しかしそうやって「女性蔑視やホモソーシャルに満ちてはいるけど、それ故に現実で虐げられる男の子たちのアジールだったインターネット」は、やがて大衆化する中で、様々な人がそこに参加したり、あるいは元々参加していたけれど声は上げなかった人が声を挙げるようになっていくにつれ、まさに冒頭に挙げたように「不機嫌」な場となっていくわけです。
それに対し「平和で炎上なんか無かった昔のインターネットを返して」というバックラッシュが男性オタクから起き、それに対して「昔のインターネットで私たちがどれだけ抑圧されてきたか分かってるの!」と、フェミニストが反発する。昨今のさまざまな男性オタク対フェミニストの対立の根本には、このような構図があるのではないでしょうか?
そして、おそらくこういう対立は日本だけではなく、先進国各国で起きていることなのだと思うのです。例えば、以下の記事によれば、最近アメリカでは「ヴェイパーウェイブ」という、90年代のコンピューターをモチーフにした音楽がインターネット上で流行っていて、その中でもトランプを支持する若い保守派、「オルタナ右翼」が多くこういう音楽を愛好していること。その理由として、「ポリコレとかに汚染される前の平和な世の中」にノスタルジーを感じる人が多くなっているからではないかということ述べられています。
gendai.ismedia.jp
またアメリカや韓国では、「ゲーマーゲート」という、フェミニズムに共感を示した女性ゲーム開発者に対しネットコミュニティで集中的に嫌がらせがされるという事件がありましたが、これも、嫌がらせをする側からすると「現実からのアジールであるオタクカルチャーを女が侵犯するな」という感覚なのでしょう。
www.huffingtonpost.jp
www.afpbb.com
他者の「虐げられてきたというトラウマ」に、僕たちはインターネットで向き合うことができるのか
この対立が根深いのが、どちらも「自分たちこそが虐げられてきた被害者だ」という意識があることです。
男性オタクたちは、現実世界で男女両方から虐げられてきた中で、インターネットやオタクカルチャーに居場所を得ていたのに、その居場所まで奪うのかと思っている。
それに対し女性フェミニストたちは、現実でもインターネットでも男性たちに虐げられてきたのだから、それに対して抵抗する権利が私たちにはあると思っている。
これに対し「じゃあどっちがより虐げられてきたのか」ということを言う人が居ますが、僕はそういう議論はあんまりしたくありません。
したくない理由は、まず第一にそんなの「人による」としか言えないということ。例え集団全体の傾向として「男性優位」とか「モテ優位」とかがあったとしても、実際はその中で個々人が体験してきたことは全然違うわけですから。
そして、こちらのほうがより重要なのですが、第二の理由は「例え比較的にその人の不幸がたいしたことなかったとしても、その人にとってそれが重要なことは何も変わることはない」からです。そもそも比較で言うなら、先進国で生きる私たちは、大多数が後発発展途上国の人々より幸せなわけで、それを意識することは確かに重要ではあるでしょうが、意識したとしても「自分が不当に虐げられている」という感情は消えません。そのような感情を無理に「正しさ」で抑圧していけば、いつか暴発してしまいます。
誤解してほしくないのですが、僕は「正しさ」なんて無視しろと言っているのわけではありません。「正しさ」は重要です。男女差別やオタク差別といった不当な差別は、それが「正しさ」に反するからやめるべきだと主張できるのであって、もし「正しさ」をすべて捨て去ってしまえば、そういう差別に何も声を出せなくなってしまいます。
でも、そういう「正しさ」ではどうにも癒やせないものも、世の中にはあるのです。虐げられてきたというトラウマはその最たるもので、「その虐げられてきたというトラウマは政治的に正しくないから無視しろ」というのは無理なんです。
そういう感情を内に抱えた僕らが、その感情を癒やしながら、いかに他者が「どんな人間で、どんな虐げられてきたというトラウマを持っているのか」に対し、理解を示せるか、それこそが重要になるはず。
しかし、実際のインターネットは、それこそ個々人のライフヒストリーが現れるテキストサイトから、記事単体で読まれるブログ、そしてつぶやき単位で読まれるSNSというように、むしろ「発言者のバックグラウンドなんて無視してコミュニケーションする」空間になっていってしまって、そのような相互理解の場からは離れてしまっているように思えてなりません。
ただ、これも結局、昔のインターネットに居場所を見いだしていた男性オタクだったからこそ思うことなのかもしれないわけで……
うーむ。
*1:なんか僕の文章とよく似た文章を書く人だけど、気のせい気のせい