あままこのブログ

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『推しの子』が示す「推し活」のアポリアと、その解法

『推しの子』、現在アニメ放送中の作品ですが、とりあえず原作を1巻から11巻まで読みました。

読もうと思った理由は、単純に流行っているというのもありますが、↓の騒動が気になったからです。
www.cyzo.com
realsound.jp
この騒動における立場は主に3つに分かれると思います。

  • 『推しの子』は実際にあった恋愛リアリティーショーの問題を軽く取り扱っていて許せない
  • 『推しの子』はあくまでフィクションなんだから、現実の騒動とかとは関係ない
  • 『推しの子』は恋愛リアリティーショーの抱く問題を真摯に描いており、読者をそういう問題に向き合わせる効果を持っている(上記記事の立場)

しかし、僕がマンガを読んで思ったのは、上記3つの解釈のいずれも、合っている部分はあれど、しかし一面的な理解じゃないかということです。

僕が思ったのは、『推しの子』という作品の現実に対する立ち位置はもうちょっと重層的で複雑で、そしてその複雑さは、そのまま「私たちが『アイドル』というものに如何に相対すべきか」という問題の複雑さなんじゃないか、ということなのです。

『推しの子』恋愛リアリティーショー編の配慮とその限界について

『推しの子』という物語は、アイドルとか芸能界という要素を抜きにしてまとめれば、「自分の好きな人を殺された主人公が、その殺した相手を突き止め復讐しようとする」復讐譚です。ただこの作品の場合、その殺した相手を突き止めるために、自らがアイドルとなって芸能界でのし上がっていくという手段が取られることが、物語の特色であり、そして魅力なわけですね。

そして、芸能界でのし上がっていく最初の一歩として描かれるのが「恋愛リアリティーショー編」です。単行本の2巻から3巻で描かれるこのエピソードにおいて、主人公は恋愛リアリティーショーに参加することで、業界人に接触しようとする。

しかし、そんな恋愛リアリティーショーの中で、登場していたある女性が、その番組での描かれ方が原因となり炎上する。その炎上を苦に彼女は自殺しようとするが、主人公に止められ、炎上を納めるために、番組での描かれ方が間違っていると言うことを示す映像をネットに流し、見事炎上を納めるというのが、「恋愛リアリティーショー編」編の主なあらすじなのです。

そして、上記記事に書かれているとおり、確かに物語の中では「恋愛リアリティーショーでは多数自殺者も出ている」という、恋愛リアリティーショーの抱える構造的問題や、出演者をきちんと守らない業界の人間への批判、さらには、それを見た人がどう傷つくかも考えず誹謗中傷を書き込む視聴者たちへの批判もされているわけです。

その点で言えば、確かに『推しの子』は、ただ面白おかしく恋愛リアリティーショーを作品内で描いているのではなく、そこで一定の配慮をしているとは言えます。

ただし、ではこの『推しの子』が、恋愛リアリティーショーという人を見世物にする企画、そしてそういう企画を容認する業界構造を根本的に批判する作品なのかと言うと、残念ながらそうは言えないわけです。

登場人物たちは、確かに恋愛リアリティーショーによって傷つけられましたが、しかしその傷つきを反転させたのもまた、結局「ゲスな大衆の好奇心」を利用したものなわけですね。テレビ番組の中で作られた「あの子は性格悪い子らしい」というイメージを、ネット動画によって「あの子は実は良い子らしい」というイメージに書き換える。しかしそこでは「ちょっとの映像で簡単に人の印象を決めつける」という、恋愛リアリティーショーの構造的問題は何も解決されていない、むしろそれどころか、その恋愛リアリティーショーのシステムを生かして利用してしまっているわけです。

そしてそうであるが故に、登場人物たちも恋愛リアリティーショーというシステム自体を否定しないわけです。「色々大変なことはあったけど、あの企画のおかげで知名度あがって良かったね」という、良き思い出となってしまっている。これは、やっぱり恋愛リアリティーショーというシステムによって実の娘を亡くした人にとっては受け入れがたい描写でしょう。

『推しの子』が究極的に「芸能業界」を否定できない理由

そして、このような「芸能業界の構造のいびつさを指摘しながら、それを究極的に肯定せざるを得ない」というのは、恋愛リアリティーショー編に限らず、『推しの子』の物語全体について言えることでもあるわけです。

『推しの子』がアイドルアニメとして異色なのは、アイドルや、それを取り巻く芸能業界の暗い面をきちんと描いていることです。普通のアイドルアニメだったら描かれないような、アイドルの生存競争の激しさや、アイドル人気とは自然に生まれるものではなく作られるものであるという点、そして人々の注目の的になりプライバシーが軽んじられ私生活に干渉が入る点などが、きちんと描かれているのが、ある種人々の野次馬的好奇心を刺激し、人気となっているわけです。

ですが、そういう芸能業界の非人間的な側面は、この作品では否定されるものではなく、「芸能界を生き抜く上では乗りこなさなきゃいけないもの」として描かれます。もっと言えば、そういった残酷な側面すら利用してのしあがっていく、主人公のヒーロー性を証明する演出として、芸能業界の非人間性が活用されているのです。

そしてそれ故に、『推しの子』は、究極的に「芸能業界」を否定できず、「厳しい環境だからこそ、そこで生き抜くアイドルたちはすごいね」という個人の美談にしてしまい、構造的な問題を指摘するような作品とはなりえないわけです。

ルンペンプロレタリアートとしての「アイドル」

しかしだからといって、そこで物語に登場する登場人物がいきなり目覚めて「こんな芸能界おかしいよ!みんなで変えよう」と言っても、それは物語から遊離したデタラメとしかならないでしょう。だって別に登場人物たちは「嫌ならやめればいい」だけなのですから。芸能業界は確かにおかしくて非人間的な側面を持つけど、でも登場人物たちはそれを承知で、「でもそこで有名になりたい」と努力しているわけで、芸能業界自体が壊れてしまえば元も子もないのです。

かつて、マルクスという人は「ルンペンプロレタリアートは決して革命の主体とはなりえない」と言いました。ルンペンプロレタリアートとは簡単に言えば、工場勤めのような決まった職業に就かず、ふらふらと職を変えていく人のことです。このような人々は、工場労働者や農民の様に、しがみつかなければならない職能や土地を持たないがゆえ、自分の境遇が嫌になったら転職すればいいだけだから、わざわざ会社や資本家に対して闘争を起こそうとしない。だから革命の役には立たない、ということを、マルクスは述べているのです。

この物語に登場する登場人物たちは、全員がほぼこのような状態です。別にアイドルや役者として生きなくても生きる方法は色々あるし、更に言えば嫌な仕事は受けない自由も一応ある。そんな中で、わざわざ「業界を変えよう」なんて面倒なことを思えるわけがありません。

極私的に閉じていく主人公の執着

ただそんな中で「アイドル」というものに強烈な執着を抱いている登場人物が一人居ます。それが、主人公のアクアなわけです。

詳しくはどこかのサイトでマンガのあらすじを読んでほしいのですが、アクアは自分の推しである、アイというアイドルの子どもに転生します。しかし、そのアイは、自分の目の前で、アイのストーカーに惨殺されるわけです。で、アクアはそのストーカーにアイを殺させるよう仕向けた犯人が芸能界にいると考え、芸能界を目指すわけです。

もしここで、アクアが別にアイを「アイドル」として好きでなく、ただ自分の母親として愛していただけなら、アクアは、「アイドル」や芸能界というものを好きにはならず、むしろ唾棄すべき対象として眺めたでしょう。アイドルになったばっかりに、自分の母親はストーカーに殺されたのですから。それこそ、木村花氏の母親が、自らの娘を亡くしたことを契機に、恋愛リアリティーショーへの批判や、SNSの誹謗中傷をなんとかしようという運動に乗り出したように。

しかしアクアは決して「アイドル」や、それを支える業界を否定できません。なぜなら、アイが殺されるような自体を招いたのが「アイドル」というシステムなら、自分とアイを巡り合わせたのもまた、アイドルというシステムだからです。アイドルや、それを取り巻く業界を否定することは、自分とアイとの巡り合わせ自体を否定することになってしまう。

だからアクアは、アイドルや、それを取り巻く業界と言った社会構造ではなく、あくまで「アイを殺したやつ」という極私的な存在に執着するわけです。

構造的問題から逃げ、悪者を探す私たち

この、「推し」を大事に思うがあまりに「推し」を取り巻く非人間的なシステムを否定できないというアンビバレンツは、しかしアクアという一マンガの登場人物に限らず、「推し」を持つ全てのファンに共通する問題といえます。

昨今、ジャニーズ事務所の性加害問題が大きくクローズアップされています。しかし、多くのアイドルファンにとって、それはいわば公然の秘密だったわけです。
mainichi.jp
にもかかわらず人々はそれをずっと知りながらも、見て見ぬふりをしてきた。それは、必ずしも打算だけでなく、問題を声高に叫んで、今もまだ事務所で活躍している自分の「推し」に迷惑をかけてはならないという優しさによるものでした(もちろん動機がそうだからって、沈黙が擁護されるわけではない)。

ジャニーズ事務所に限らず、自分の意に沿わないことを強制される業界の構造的問題は、これまでもさまざまな経験者から指摘されてきました。
fika.cinra.net
ishikawa-yumi.theletter.jp


しかしそれらの抗議は結局「悪い運営を叩け!」という極私的問題に回収され、構造的問題の改善には向かわないわけです。

より倫理的な「推し活」は可能なのか

この「推しを大事に思うがあまり、推しの周りの非人間的なシステムを見過ごしてしまう」という、『推しの子』が示すアポリア。しかし『推しの子』という作品に、その難問に対する解答はありません。ポップな見た目に反して、『推しの子』の作品は、「アイドル」「芸能界」、そして「人間」というものへの諦念で構成されているわけです。

ですが、そんな諦念とは違う道も、あるのかもしれません。

『推しの子』のアニメが話題になった時、ある人がこんなつぶやきをしました。


僕がこのツイートを見たとき思ったのは「だから大森靖子は推せるんだよなぁ」という思いです。

エシカル消費」という言葉があります。
www.ethical.caa.go.jp

 エシカル(※)消費とは、地域の活性化や雇用などを含む、人・社会・地域・環境に配慮した消費行動のことです。
私たち一人一人が、社会的な課題に気付き、日々のお買物を通して、その課題の解決のために、自分は何ができるのかを考えてみること、これが、エシカル消費の第一歩です。

この言葉は、主に商品を購入したりするときに使われる言葉ですが、僕はアイドルやファン活動、推し活についても「倫理的なアイドル消費」「エシカルな推し活」というのができないか、そんなことを考えるのです。

「推しを決めるときにそんな『より倫理的か』とか考えてられない」という人もいるかもしれません。でも、むしろ僕は「間違ったことをやってない、真っ当なことを言うアイドルこそ推しがいがあるじゃないか」と思うのです。自分をファンにとって都合のよい人形とだけ見せるのではなく、きちんと一人の人間であることを主張し、そう扱うよう要求する。また雇い主側も、彼・彼女たちの労働条件や尊厳に配慮し、非人間的な取り扱いをしない。そんなアイドルや役者の方が、ずっと後ろめたさなく推せると、僕は思います。

『推しの子』が描いているのは、確かに現在のアイドルや芸能界の現状です。ですが、未来永劫そうであり続けなければいけないわけではありません。いつか『推しの子』を読んで、「昔の芸能界ってこんなひどかったんだね」と過去形で語れるときが来たとき、『推しの子』という作品はその真の役目を果たせるのでは、ないでしょうか、