あままこのブログ

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「職人的」な社会学は本当に社会を良くするのか?

tanemaki.iwanami.co.jp
はてブで珍しく社会学に対する肯定的な反応が数多く寄せられていますね。最近のインターネットでは殆ど社会学なんてパブリックエネミーみたいな扱いなのに。

ただ、むしろこの文章が評価されているのは、そういうインターネット上でパブリックエネミーと化した社会学のイメージを肯定し、「俺たちはそれとは違う実直な社会学をやるぜ」という主張をしているからとも言えます。

大風呂敷を広げた預言者v.s.「職人的」な社会学

この文章の著者である岸政彦氏は、まず以前の岩波講座社会学について

 前回は上野千鶴子吉見俊哉大澤真幸などが全体の監修者で、巻数も26あったと記憶しています。各巻のタイトルも凝ったものが多かった。執筆者も社会学プロパーだけでなく、竹田青嗣などの周辺領域の方が入っていました。文体や内容も派手で、自由で、雑多で、それほど社会学とは関係のないものもたくさんありました。

という風に「あんなものは社会学の名に値しない」とdisるわけです。岸氏によれば

そのころから比べると、社会学も大きく変わりました。どちらかといえば、より地味な、地道な、実証的なスタイルで調査研究をおこなう社会学が求められるようになったのです。今回の『岩波講座 社会学』では、そうした社会学者が中心となって執筆します。特定の対象と特定の問題に、特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続けるような、そんな社会学者たちはこれまでたくさんいたし、いまもたくさんいます。

というように「特定の対象と特定の問題に、特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続ける」ものこそが社会学であり

社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない。

とするわけです。

つまり、社会学者には

  • 大風呂敷を広げた預言者
  • 特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続ける、「職人的」な社会学

の2種類があり、そして自分たちは後者の社会学者であり、前者のような自分たちより上の世代のエセ社会学*1は駆逐されるべきだと、そう主張するわけです。

そしてインターネット上でパブリックエネミーとされる社会学の多くは前者のような社会学の議論であるため、インターネット上の世論も「よくわかんないけど、俺たちの趣味にケチ付ける悪い社会学者をやっつけてくれるなら応援するぞー」と、岸氏に声援を送るわけです。

「職人的な社会学」こそが人々の切実な問いに答えられる

そして岸氏は、大風呂敷を広げた預言者は不要であり

いま、この社会にとってほんとうに必要なのは、「職人的」な社会学者なのです。

と主張し

たとえば、この『岩波講座 社会学』に収められた、あるいは収められる予定の論文はどれも、現代の社会を生きる私たちの、切実な問いに答えようとするものばかりです。辺野古釜ヶ崎で何が起きているのか。地方の過疎化はどうすればよいのか。移民をどのように包摂できるのか。AIと倫理、教育におけるジェンダートラック、原子力災害と地域振興、ポルノグラフィと表現の自由長時間労働や非正規雇用の問題、ホームレスという人生、家族構造の激変、社会的養護の家族化、地方のノンエリート青年たちの進路、メディアと自己、ネットのナショナリズムとヘイト……。こうしたさまざまな問題に、社会学者たちは取り組んでいるのです。

と述べ、このような社会の具体的な問題の解決こそが、社会学のなすべきことであると断言するわけです。

そしてさらに言えば、そうやって具体的で切実な問題に対する答えを与えるものだからこそ、社会学

どうしてこんなくだらない規則が多いのか、どうして女子ばっかり外見で判断されるのか、どうして受験で人生の大半が決まってしまうのか。

というような問いに答えられると言う訳です。

つまり

  • くだらない規則が決められるメカニズムを理解することにより、そのようなくだらない規則を廃止し、より合理的な規則を制定することが出来る
  • 女子が外見で判断される仕組みを理解することにより、その仕組みを無くし、女子が外見で判断されないようにする
  • 受験以降も、人生を変化できるようにする

などのことが、「職人的」な社会学によりできるようになるというわけです。

なるほど、そうやって聞くと確かに、具体的な問題を解決する「職人的」な社会学こそが今の社会に必要であり、抽象的でよく分かんない理論(グランドセオリー)をこねくり回す「大風呂敷を広げた預言者」なんか大学から駆逐し、彼らに費やしているお金で、より「職人的」な社会学者こそを多く雇えばいいと、そう思えてきます。

切実な問題を解決することが、本当に社会全体を良くするのか?

ただ、そこで僕なんかはこう思うのです。

でも、そうやって『人々にとって切実な問題』を解決し、社会を合理的にしていくことが、本当に社会全体を良い方向に持って行き、人々が生きやすい社会にするのだろうか?」と。

例えば「どうして女子ばっかり外見で判断されるのか」という切実な問いに対し、「職人的」な社会学はそのようなルッキズムを廃し、人々がきちんと実力で評価されるようにするという答えを与えます。でもそれは逆に言えば「外見と関係なく、能力がないひとは能力がないと判断され、能力が高い人より得るものが少ない」ということなわけですね(社会学的に言うなら、メリトクラシー)。

しかしこれは、岸氏の言う社会学の考えでは、そもそも「社会学が解くべき問題」とはなりえません。なぜなら「女子だからといって、外見で判断されるのはおかしいのに、今の社会はそうなっている」というのは、「女子だからといって、外見で判断されるのはおかしい」という規範概念によって、切実な問題となりえますが、「能力がないひとは能力がないと判断され、能力が高い人より得るものが少ない」というのは「能力がない人が差別されるのは当然」という規範概念が社会に浸透している以上、切実な問題となりえないからです。

より普遍的に言うならば、岸氏の言う「職人的」な社会学は、すでに社会に一定の位置を示す規範概念によって「これはおかしい」と断言できるような切実な問題に対する処方箋にはなりえますが、そこまではまだいっていない、社会の規範意識では「それが正しい」となっている問題については、「それは切実な問題ではないから切り捨てて良い」となってしまうのです。

ですが実際は、そのように社会で自明とされていることにこそ、人々を不幸にする原因があると指し示したのが、まさしく岸氏が批判するような「大風呂敷を広げた預言者」の社会学なのですね。例えばそれは、マルクス主義フェミニズムにおける家父長制であったり、あるいはフランクフルト学派における道具的理性だったり……

これらの社会制度やシステムは、「切実な問題」の直接的な原因ではありません。ですが、そこを根本的に変革しない限りは、社会は結局人々を不幸にする方向にしか変化していかないと考えるのが、「大風呂敷を広げた預言者」の立場なのです。

それに対し、「職人的」な社会学は、そのような社会全体を批判し、それを根底から変えようとしません。そうでなく、社会全体はよりよい方向に進歩しているが、その過程の局所局所で歪みが生じているから、それを修正すれば自然と社会は良くなり、人々はより生きやすくなるとするのが、「職人的」な社会学の立場なのです。

しかし僕は、後者のような楽観的な考えは、あまりに歴史をむししてはいないかと考えます。ここら辺の議論については、以前論じた記事があるので参照してもらえればと思います。
amamako.hateblo.jp

「職人的」な社会学満鉄調査部の夢を見るか?

さらにいえば、僕は岸氏が、自分たちは「特定の対象と特定の問題に、特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続けるような、そんな社会学者」であると声高に主張する姿に、ある種の不安を覚えずには居られません。「そうやって自分たちに向け荒れる批判的な目を意識し、『自分たちはあなたたちにとって有益な存在だから存在を許して』とおねだりしなければならないほどに、社会学は追い詰められているのか」と。まるで、戦前「植民地支配のためなら」と満鉄調査部で存在を許されたような、社会科学者のように。
ja.wikipedia.org
戦前、マルクス主義自由主義に基づいて社会全体を変革することを夢見た社会科学者たちは、治安維持法などにより弾圧される中で、南満州鉄道など様々な植民地統治を行う部局に入り込み、そしてその場で、自らの学識に基づいて「人々がどう不満をもたず、より幸福に統治されるか」を考える職に就きました、まさしく「特定の対象と特定の問題に、特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続け」たわけです。

しかしそれは結局、日本の植民地支配を支える、総動員体制の1ピースとしての役割でしかなかったわけです。そしてそのような「自分たちの持ち場で問題を解決さえしていれば良いから、それが日本社会全体にどういう意味を持つかは考えなくて良い」とみんなが考えたことこそが、まさしくこの日本をあの敗戦に突き進ませたわけです。

そのような歴史を思うと、どうしても僕は「職人的」な社会学を称揚する気にはなれないのです。

*1:具体的には、それこそ大澤真幸氏だったり、あるいは宮台真司氏や橋爪大三郎氏とかでしょうな