あままこのブログ

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少女を犠牲にして世界を救う功利主義が「道徳」となってはいけない理由

amamako.hateblo.jp
先日の記事ですが、はてブTwitterの反応を見る限り、賛否両論、それも、否定がだいぶ多めのようです。


寄せられた主な批判としては

  1. 「著者の主張を曲解している」
  2. 「人文学は、文化相対主義を否定し、価値判断をすることによって社会に貢献しなければならない」
  3. 功利主義に対するあままこの批判は間違っており、功利主義こそ道徳とされるべきだ」

というようなものが多いです。


この内、「著者の主張を曲解している」という批判については、一体どこの部分が曲解というのか具体的に指摘されていない以上、返答しようがないと思うので、返答しません。


2番目の「人文学は、文化相対主義を否定し、価値判断をすることによって社会に貢献しなければならない」という批判に対しては、僕は、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』

で述べたように、学問は「価値自由」を旨とする作業だと考えています。つまり、ある社会現象に対し、それが一体どのようなメカニズムで動いているかを分析するのが学問であり、その社会現象に対し良い/悪いという判断は、学問の役割ではないと考えます。


例えばシン・esbee氏は統一教会の例を挙げ、「人文学はきちんと統一協会を『悪い』ものと批判するべきだった」と主張しますが、僕は、学問ができるのは、統一教会のような宗教が一体どうやって信者を獲得し、また囲い込んでいくのかという、メカニズムを解明するところまでで、「統一教会は良い/悪い」を判断するのは、学問の役割ではないと考えています。*1


そして次に、3番目の功利主義についてですが、これについて、確かに先日の記事においては、僕が功利主義をどう考えているのかについて、説明が足りなかったと思うので、今回の記事で改めてその論拠を解説したいと思います。

功利主義についてクリッツァー氏はなんと言っているか

まず最初に言っておきたいのは、僕が前回の記事で批判したのは、クリッツァー氏の説明する意味での功利主義です。そのため、「クリッツァー氏の言っている功利主義とは違う功利主義がある。だから功利主義は否定されるべきではない」と言われても、正直困るということは、最初に述べておきます。


ではその上で、クリッツァー氏は功利主義についてなんと言っているのか、『21世紀の道徳』を引用しながら、より詳細に見ていきましょう。


まずクリッツァー氏は、功利主義という言葉の定義について、次のように述べています。

「権利」の相対化をおこない、権利と権利との対立に別の基準を持ち込むことによって事態を解決する発想のなかでも代表なものが、「最大多数の最大幸福」を重視する功利主義だ。
功利主義にかかれば、権利と権利が対立する問題も、「どうすれば幸福を最大化できるか」という問題に還元される。当事者たちのうち片方の権利を優先したほうがより多くの幸福を生み出せることが自明であるなら、そうするべきだ。どうあがいても誰かが不利益を被る状況であるが、当事者の両方の権利にほどほどの制限をかけることで生じる不利益が最小化されるなら、そうするべきである。

そして、クリッツァー氏は、なぜ権利と権利が対立したときにそれを採用すべきと考えるかについて、ジョシュア・グリーン氏の論を引いて、以下のように述べています。

功利主義は道徳に関する様々な直感や慣習に反しているために、感情的には支持されにくい。しかし、どんな集団に属する人であろうと、理性を用いて「なにが大切なのか」「なにを重視するべきなのか」を冷静に考えてみれば、大半の人は功利主義を支持するであろう、とグリーンは論じる。

そして、理性を用いて冷静に考えれば功利主義を支持するようになる具体例として、クリッツァー氏が挙げるのが、「トロッコ問題」です。

クリッツァー氏は、理性を持って冷静にトロッコ問題を考えれば、功利主義に基づき一人の命を犠牲にして五人の命を救うことが正解であると判断できると述べます。

「五人の命を救うためであれば、一人の命を犠牲にすることは認められる」という考え方は、「最大多数の最大幸福」を重視して、「意図」よりも「結果」を優先する、功利主義の主張と共通している。前章でも紹介したように、『モラル・トライブス』では、どんな文化圏に属している人であっても、道徳問題について感情ではなく理性に基づいてじっくり考えた場合には、大半の人が功利主義的な判断を選択することが示されている。他方で、感情としては、五人の命を救うためであっても一人の命を犠牲にすることを選択するのは難しい。そして、思考に基づいた判断を下すことに対する感情の抵抗は、分岐線問題よりも歩道橋問題においてのほうが強くなる。そのために、分岐線問題では五人を救うという選択をできた人であっても、歩道橋問題では太った男の命を犠牲にすることができなかったのだ)

そして、理性を用いて功利主義を選択すべき理由として、クリッツァー氏は「進化論的暴露論証」というものを挙げています。

理性に基づいた判断が正しいと限らないし、感情に基づいた判断にも正当性があるはずだ、と反論する人もいるかもしれない。このような反論に対し、グリーンは「進化論的暴露論証」と呼ばれる主張を展開することで、感情よりも理性に基づいた判断を下すことの優位性を説いている。

(略)

道徳感情とは、自分と他人のあいだや自分と集団のあいだでトラブルが発生するリスクを予防するための、オートモードとして進化してきたものであるといえる。そして、通常の環境であれば、大概の場合では道徳感情に従うことは正しい。自分の身体を使って他人に意図的に危害を加えることで、より多くの人々を助ける喧嘩が得られるというのは、ごく特殊な状況でしか成立しないためだ。
しかし、トロッコ問題とはまさに「特殊な状況」である。そして、道徳感情が「通常の状況」に対応するために進化したものであるとするなら、「特殊な状況」では道徳感情に従うべきではない。必要なのは、理性に基づいて考えることだ。

つまり、感情とは通常の状況においてトラブルに対処するために、進化によって得られた能力で、理性とは異常な状況においてトラブルに対処するために得られた能力である。そして、トロッコ問題とは異常な状況のことを指しているのだから、理性で持って問題に対処するべきだと、いうことなのです。


(この部分、僕はかなり理解に苦しんで、僕自身自分の読解が正しいのか確信が持てないので、「その解釈は違う。『進化論的暴露論証』とはこういうものだ」と説明できる人がいたら、教えてほしいです。)


そして、以上のような説明によって、クリッツァー氏は次の結論を出すわけです。

・五人がトロッコに轢き殺されることよりかは、一人がトロッコに轢き殺されることのほうがまだマシだ

と。つまり、功利主義を道徳として採用すべきだと主張するわけですね。

功利主義は、それが「トラブルを解決する思想の一つ」である内は否定しない

最初に言っておきたいのは、僕は何も功利主義を、絶対に社会の中で通用してはいけない危険思想として全否定したいわけではないということです。


僕自身、日常において功利主義的に行動することは多々あります。例えば、僕が会社に勤めていて、「自分は企画の仕事をやりたいな」と考えてても、その会社の中には、僕より企画力が優れている人がいる場合、無理やり「僕は企画がやりたいんだ!」と主張せず、我慢して、自分の得意技術が活かせるプログラマーを選択します。それによって、僕自身の幸福は下がりますが、会社全体はより利益を生み出し、会社のみんなが幸福になれるからです。


ただここで重要なのは、この場合、功利主義はあくまで「その問題に関わる人々の間で『功利主義を採用してもいい』という同意が取られている」ということです。僕も会社も、問題が起きたときに、その問題を功利主義に基づいて解決しようと同意しているからこそ、トラブル解決の方法として、功利主義が採用されているのです。


そして、なんで僕がそこで功利主義を採用してもいいと考えるかといえば、ぶっちゃけていえば、僕が、会社においてどんな職種に就くかという問題を、そんな重大な問題と考えていないからです。確かに自分の希望した職種に就けないことは僕にとって不幸ではありますが、しかしその不幸は、僕にとって許容できる不幸です。


しかし、この世の中で起きる問題は、そのように、許容できるものばかりではありません。そして、功利主義が「道徳」となったとき問題が起こるのは、まさに「許容できるものではない」ケースなのです。

「少女を犠牲にして世界を救う」ことを、道徳として強制すべきなのか

『天気の子』という、大ヒットしたアニメ映画があります。

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
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本当に大ヒットした映画で、皆さんあらすじは知っていますでしょうから、詳細は省きますが、映画の中で、終わることのない豪雨が続いているときに、ある少女が現世からいなくなり、そしてその対価として、やっと豪雨が治まるという展開があります。


当然ながら、豪雨が続いて自然災害によって甚大な被害が出るよりは、少女一人が消え去る方が、犠牲=不幸は少なく済みます。実際、物語に登場するキャラクターも、「人一人の犠牲でみんな丸く収まるなら、そっちの方がいいだろ」みたいなことを言うわけですね。これはまさしく、功利主義を採用した考え方と言えるでしょう。


しかしそれに対し、主人公の少年は少女が消え去ってしまうことを嫌がり、現世に少女を連れ帰ります。結果として、再び豪雨が東京を襲い、東京のほとんどが水没してしまうという、甚大な被害が生じてしまうわけですね。


このような状況、功利主義を道徳として採用すれば、主人公の少年は「理性ではなく感情に従って、功利主義に基づかない選択をした。よって非難されるべきである」ということになるでしょう。しかし、僕は全くそうは思いません。


重要なのは、その主人公に対し、少女はかけがえのないものであり、他のものと比較不可能であったということです。


クリッツァー氏も文中で引用している通り、思考実験において、人々が功利主義に基づいて選択を行うのは、「それ以外の条件」というものが考慮に入れられないからです。

まず、私たちは、他の条件がすべて等しければ、少ない幸福より多い幸福を好み、それは自分たちだけでなく他者に対してもあてはまることをはっきりさせた。次に、他者について考えるときは、個人の幸福の多寡だけでなく、影響を受ける人の数を配慮することも確認した。最後に、各個人の幸福の多寡と影響を受ける人物の両方を考慮に入れ、すべての個人の総和を気にかけることをあきらかにした。他の条件がすべて等しければ、私たちはすべての人の幸福の総和が増すことを好む。

しかし、この場合は「主人公にとって少女は、そんなものとも替えがたい、かけがえのないものである」という、重大な条件があるのです。そしてそのために、少年は、「少女を救うためなら、世界がどうなっても良い」と叫びます。つまり、そもそも主人公の少年には、功利主義を採用する同意がなかったということです。


そして、上記のように、功利主義を採用しないという選択肢も尊重されるべきだと、僕は考えます。少なくとも、功利主義を採用しないからといって、その採用しない人を非難したり、社会の成員としてみなさないということがあってはならないと思うわけです。


以上のことから僕は、功利主義について、それが「問題の当事者全体で、採用することが合意された思想」である場合は、どんどん活用していけば良いと考えるものの、それが社会全体で「常に人々は功利主義に基づいて考えるべきである」とされる、道徳規範とされることに、反対なのです。

「当事者は責任を負い、非当事者はそれを助ける」ことこそが、私達の持つべき道徳なのではないか

しかしそのように、道徳としての功利主義を否定したとしても、主人公たちに全く負うべき責任がないとは思いませんし、『天気の子』の主人公たちもそれは痛いほど自覚しています。


主人公の少年少女は、物語の最後で周辺から「おまえたちが世界を変えただなんて自惚れるな」と言われますが、しかしそれを敢えて否定し、「自分たちが世界をこんなふうに変えてしまった」ということを自覚します。ラストにおいて少女が祈っているのは、まさしくその象徴であると言えるでしょう。


主人公たちは、功利主義に対しては真っ向から反旗を翻し、自分たちの意思に基づいて、自由な選択を行います。しかし、そのように「自分たちが自分の意志に基づいて選んだ選択」によって生まれた結果については、しっかりと責任を感じているわけです。というかむしろ、主人公たちは自由だからこそ、その選択には責任を負うべきだと、自負しているわけです。


そして僕は、このように『天気の子』で描かれた「自分が自分の意志で自由に選択を行い、そしてそれによって起きた結果に責任を負う」ということこそ、社会全体で共有されるべき、道徳にふさわしいと考えるのです。


ただ一方で、『天気の子』は、そのような当事者たちに求められるべき倫理とは違う、もう一つの倫理も示しています。先に述べたように、物語の最後において周辺の大人は、主人公たちに対し「おまえたちが世界を変えただなんて自惚れるな」と言います。なぜなら、仮に少女を犠牲にしなかったことによって世界が壊れてしまったとしたら、そんな世界はもとから壊れていたのであり、主人公たちに対し非難すべきことは全くないからです。むしろ、少年少女たちにそのような過酷な選択をさせてしまった責任が、その他の人間たちには存在するのです。


そして、その責任のとり方として、周囲の大人たちは、主人公たちを「功利主義に基づかない行動をした!」などと批判せず、むしろ全力でサポートするわけです。言うなれば、主人公たちが背負っている責任をみんなで分担しようとしているわけですね。


僕が『天気の子』を見て本当に感銘を受けたのは、このように「当事者に求められる倫理」と「傍観者に求められる倫理」の双方が、大変に真摯なものだからです。それは、まとめれば次の2つになります。

  • 問題の当事者は、自由に選択をすべきである。しかしその選択に対する責任は負うべきである。
  • 問題の傍観者は、「当事者にそのような選択をさせた責任」を負い、当事者をサポートする形で、その責任を果たさなくてはならない

そして、このような倫理というのは、まさしく、これまで、日本の、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるようなサブカルチャーが積み重ねてきた倫理的思考の極地にあるという点で、「セカイ系の倫理」と呼びたいと思います。


もし、「21世紀の道徳とはどんなものなのか」と問われれば、僕は、功利主義なんかではなく、このような「セカイ系の倫理」こそ重要なのではないかと、主張します。

*1:もちろん、個々の学者や、学者の集まりが、自分が学問で得た知識をもとに、統一教会を批判するのはかまいません。僕が言っているのは、学問が、その学問の結論として『〇〇は悪い』ということはできない、ということです。