あままこのブログ

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依存することは決して悪ではない―『〈弱さ〉を〈強み〉に: 突然複数の障がいをもった僕ができること』感想文

著者である天畠大輔氏は、四肢麻痺といった重度の障がいを抱えながら、研究者として障害者のコミュニケーションについて研究してきた方なんですが、先日(2022年)の参議院選挙にれいわ新選組から比例で立候補して当選した方でもあります。

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僕は、この前の選挙では、比例でれいわ新選組に投票したんですが、ぶっちゃけるとこの人のことはあまり知りませんでした。投票した理由も消去法で、自公維国Nは論外、立憲は連合とのつながりが気に入らない、共産・社民は、候補者は好きだが党組織が硬直していて期待が持てないという理由で、自分の政治信条とある程度合致していて、しがらみがなく大胆に動けそうという理由からでした。


だから、当選が決まった後、慌てて天畠氏について調べ、そしてkindleで著書が出ていると言うことで購入したわけです。「もし自分が受け入れがたい変なこと書いていたらどうしよう……」という不安もありながら。


ですが、その不安は杞憂でした。


この本を読んでまず第一に思ったこと。それは、「このような聡明でかつバイタリティに溢れた人を、国会に送り出す一助ができて、本当に良かった!」というものです。


なぜそう思ったか、詳細は後述しますが、この本で天畠氏が述べていることは、まさしく今の日本の政治で一番重要なことだと考えるからです。ついでに言うならそれは、僕自身の個人的悩みにも大きなヒントを与えるものであり、そして、今の日本社会全体が抱える問題の解決にも、道筋を指し示すものだと考えます。

『〈弱さ〉を〈強み〉に』の論旨要約

『〈弱さ〉を〈強み〉に』という本は、14歳で重度障がいを抱えた天畠氏が、いかに大学に進学し、研究者となり、さらに自分たち障がい者の介助を行う事務所の経営者となったかを、ライフヒストリーの形式で綴りながら、その中で気づいた、障がいについての様々な問題やその解決策を提言する著書になります。


で、この本で主張されていることは、主に次の4つになります。

  1. 「介助者手足論」の限界と、それを乗り越えるための「おまかせ介助」の重要性
  2. コミュニケーションにおける主体性は、共同作業の中にも宿りうる
  3. 依存することは悪ではない
  4. 障がい者に選択肢を与える介助制度の必要性

それぞれについて説明していきます。


まず1についてですが、これまで障がい者運動の中では、「介助者は障がい者の黒衣に徹し、障がい者が『やってほしい』と命じたことだけをやるべきである」という、「介助者手足論」というのが主流でした。


この背景には、介助者がよかれと思ってやったことであっても、介助者の主体的判断抜きに行われては、結局障がい者の主体性を侵害することになるという、障がい者の主体性を尊重する考えがあります。


しかし天畠氏は、障がい者の主体性を尊重するという考えは重要だとしつつも、意思を示すにも大変な困難を伴う重度障がい者としての立場から。実際はあらゆる介助行為をいちいち指示することはできないし、無理矢理やろうとすれば、それは障がい者への負荷になってしまうと指摘します。そしてその上で、ある程度は介助者が先走って介助を行う「おまかせ介助」も必要ではないかと述べるんですね。


そしてその上で、重要なのは障がい者と介助者の間にきちんと「それぞれが何を求めているか」という相互理解があることではないかと述べます。つまり、おまかせしてもある程度は自分が望むように介助してくれるし、自分の意に反する介助を行われたら「次からはそうしないでね」と言える関係。そのような強固な関係を介助者と作れることこそ、障がい者の主体性を確保するために重要だと述べるわけです。


次に2についてですが、天畠氏は、その障がいの特性上、情報機器などを用いて自分一人だけで執筆を作成したり会話したりすることがとても難しく*1、ある程度介助者に自分が言いたいことを推測して、その推測に基づいて執筆・会話をせざるをえません。


しかしそのような形で執筆・発話した内容は、どうしても天畠氏の考えだけでなく、介助者の考えも混ざってきてしまう。そのような介助者の考えが混ざった表現は、自分の主体的な表現とは言えないのではないかと、そのような悩みがあったそうです。


しかし、そこで天畠氏は、「健常者も障がい者も、自分一人の考えだけで選択や決断を行っているわけではなく、周囲との関係に影響されている以上、『純粋な自己決定』などは存在しない」という考えを、研究の中で学びます。


(ここらへん、社会学的にも結構重要なんだけど、本ではさらっと触れられてただけなので、より詳しく知りたい人は以下の文献なども参照)


そしてその上で、例え介助者の考えが混ざったとしても、それを自分が選択するという選択において主体性が確保されていれば、それでいいのではないかと、考えるようになります。


そして、上記のような視点から、天畠氏は障がい者の自立について、「何にも依存しない状態を目指す」のが自立なのではなく、「依存する選択肢を複数持ち、それらを主体的に選択できる」状態こそが、自立した状態と考えるわけです。そしてそこから、障がい者の自立を支援する福祉制度は、まず障がい者に「就労する/しない」「施設に入る/家庭に居る/地域で暮らす」などさまざまな選択肢を提示し、それらを障がい者が選択できる、そんな制度でなくてはならないと主張するのです。

自分の個人的な気づき:知的障害を持つ弟とのコミュニケーションは、「介助者手足論」を絶対視していた

僕がこの本を読んでまず思ったことは、「これをきっかけに、弟とのコミュニケーションを改めよう」という、ごく個人的な感想でした。


以前ブログで触れたことがあります(くしくも、これもれいわ新選組に関する記事だった)が
amamako.hateblo.jp
僕には知的障がいを持つ弟が居ます。


で、そういう障がいを持つ兄弟が居る人(このような存在を「きょうだい児」と言います)は、どうしても、障がい者の介助に近いことを行うわけです。そして、一応大学である程度障がい者運動とかを勉強した僕は、「介助者が障がい者の主体を侵害してはいけない」と考えますから、何を介助するにも逐一「○○(弟の名前)は何をしたいの?」と、障がい者である弟の意思を確認しながら行うわけです。まさしく、上記で言われた「介助者手足論」を愚直に実行していたわけです。


しかし、どうも弟はそれが気に入らないみたいで、逐一「どうすればいい?」と聞いても、生返事がほとんどだし、最終的には「もうお兄ちゃんが決めてよ!」とキレてしまったりします。で、それを聞いて僕も「せっかく弟が何をしたいか尊重するようにしているのになー」と、鬱屈した思いを募らせるみたいなことが多々あるわけです。


で、そういう悩みを抱いていたときに、この本を読んで「逐一意思を示すことを求められることも重荷である」という、言われてみれば当たり前のことに気づくわけですね。天畠氏は身体の障害により意思を示すことが難しいわけですが、弟は知的障害により、何かしら意思を決定するだけでとても労力を使うわけです。そんな中で矢継ぎ早に「僕はどうすればいい?」「これをやった次はどうすればいい?」と聞かれたら、そりゃあ疲労してしまいますし、結局「考えるの面倒だからお兄ちゃんが全部決めて。僕は文句言わないから!」というように、弟に主体性を発揮しないことを強いることになるわけです。


ただ、そうは言っても、僕自身軽度の発達障害を持つ身で、他人の気持ちをおもんばかるのは苦手中の苦手だったりするので、「おまかせ介助」をできるような存在にはなれないと思ったりもするわけですが。ただそれでも、できるだけ意思決定の負担を軽減する形で介助を行って、その上で「僕が思う、○○がやってほしいと思うようなことをやってあげるけど、それが嫌なら遠慮せずに言ってね」と言うし、また、嫌だと気軽に言える雰囲気を作らなきゃだめだなと、個人的に自戒するようになったわけです。


このように、この本を読んで僕がまず思ったのは、自分の個人的な教訓だったわけです。

議員もまた、介助者と同じではないか

そして、そうやって個人的な教訓を感じた後に思ったのが、「ここで言う障がい者と介助者の関係って、実は有権者と議員にも当てはまるんじゃないか」ということです。


「おまかせ民主主義」という、日本の有権者の政治意識を批判する言葉があります。一旦選挙で議員を選んだら、あとは全部議員に任せて、政治に関心を持たない。そういう状況を批判しています。


このように日本の有権者の政治意識を批判する人が、ではどのような状況を理想視しているかというと、有権者が常に世の中の政治課題について勉強し、それぞれの課題について逐一議員や政党に意見を出し、議員や政党はその声に基づいて行動すべきだとする考え方です。いってみれば、介助者手足論ならぬ「議員手足論」です。


しかし、介助者手足論が、理想としてはよくても、実際は障がい者に過大な負担を強いるように、議員手足論も、有権者に過大な負担を強いるわけです。そして、そのような過大な負担を強いられた有権者は、結果として「じゃあ政治に関心なんて持たない!」と、有権者としての主体性そのものを放棄してしまいます。


そうならないためにも、「おまかせ介助」のように、ある程度議員に、政治活動を委任する必要があるわけです。しかしそこで、揶揄されるような「おまかせ民主主義」にならないために必要なこと。それは、有権者と議員・政党の間に、「この議員・政党なら自分たちの考える最善を求めて行動してくれるだろう」という相互理解があること。そしてさらに、議員・政党が自分たちの望みと異なることを行ったときに、気兼ねなく「それは私たちの意図と違うから止めて欲しい」と言えるようにすることこそが、有権者が主体的に政治に関わるために重要だと、天畠氏の「おまかせ介助」論を援用すれば、言えるわけです。


果たしてれいわ新選組がこのような理想的な有権者との関係を築けるか、それは分かりません。ただ少なくとも、このような関係こそが、主体性を確保するのに理想的であるということを知っている人が、国会議員の中に居るだけでも、れいわ新選組に希望を持てるなと、僕は思うわけです。

「依存すること」と「主体性を持つこと」は二律背反ではない

そしてさらに言えば、天畠氏がこのように、「依存すること」と「主体性を持つこと」を、必ずしも二律背反なものでなく、むしろ相補関係にあると提言していることは、政治に限らず、現代社会に生きる人々みんなにとって、重要な考え方であるとも思う訳です。


現代は個人主義の時代であり、それまでの地縁や血縁というものが根こそぎ解体されて、一人の個人が生身で生きることを余儀なくされます。もちろん、それによって今まで地縁や血縁にしばられていた様々なことから、人は自由になったわけですが、一方で単体の個人が単体のまま社会で生き残ると言うことは、よほど幸運でない限り不可能なわけです。もし今現在独り身で自由に生きられていたとしても、もし病気になったりなんらかの障がいを負ったり、あるいはどうしようもない経済の変化で失業したりしたら?


そんな中で、ある人は「生き残るためには、例えそれを望まなくても強くならなきゃならない」と、マッチョな個人であることをめざし、また別の人は「生き残るためには結局何かの庇護に入らなければならない」と、宗教や民族といった共同体に服従しようとしたりします。しかしそのどちらも、結局「自分が自分の思うように生きる」という、主体性を放棄していることに他ならないわけですね。


結局、何にも依存しないで生きることができる個人なんてものは存在しないわけです。しかしだとしても、その依存先を複数持てるようにすることで、ある依存先が依存と引き換えに服従を強いてきても、「じゃあ別の依存先に依存するよ」と、依存先を乗り換えることができる。そのように選択肢を複数持てるようにすることこそが、依存しながらも主体性を持つために必要なのである。


そして、そのような観点からすると、「何者にも依存しないことこそが尊い」というマッチョ主義を心の中から退けることこそが、自分の主体性を確保するのに重要なことや、社会は複数の依存先を選べる選択肢を用意できるように設計されなければならないというようなことが言えるわけです。


このように天畠氏の著書は、障がい者との関係やコミュニケーションについての提言を行う著書でありながら、しかしそれにとどまらず、社会全体の、「生きずらさ」と呼ばれるような問題に対する処方箋となりえるものだと言えるわけです。

「弱さ」を恥だと思わず、それと向き合って、「強み」にすることの重要性

そして、最後に僕が思うのは、このような真摯な思考を徹底し、さらにそれを現実において実行できる、天畠氏のバイタリティのすごさです。


著書において天畠氏は、最初自分は、このような、「介助者なしにコミュニケーションができない」という自分の弱さを研究対象にすることに忌避感があったと記しています。なぜならそれは、自分の能力が評価されているわけではないように思えるからだと。


この感覚は、障がい者の弟を持ち、自分自身も発達障害を持つ僕もよく分かるんですね。別に障がいに忌避感を持つわけではない。けれど、障がいをいわば「ネタ」にして、ブログの記事であったり、あるいは論文を書くことには、どうにも嫌な感じがあるわけです。なんか自分の恥ずかしい部分をわざわざ晒して、「たまたま自分がそうだっただけ」のことにすがっている気がして。そうでなく、もっと普遍的なことについて書いて、それで、「障がい者の弟を持つ」とか「軽度の発達障害を持つ」といった属性とは関係ない、自分自身こそを評価してほしいと、そう思ってしまうわけです。


そして僕はそのように考えた故に、大学院で社会学を専攻していた頃も、障がい学についてある程度関心はあり、講義を受けたりはしたものの、それを自分の研究のテーマとすることからは逃げました。


ただ、天畠氏の著書を読んで思ったのは、「むしろそのような、自分が見ようとしない『弱さ』を直視することからこそ、心を打ち、さらに社会全体に波及する強度を持った論考が生まれるのではないか」ということです。そして、社会学とはまさに、そのような個別の問題にこそ、社会全体を解き明かす鍵があるとする学問だったということを、改めて痛感したわけです。


ちょっとこれからは、自分の個人的な経験に基づく文章も、書いてみようかな。

*1:不随意運動が激しいため、機器に正確に文字を打ち込むのが難しい