吐き出せ吐き出せ 胃から腸まで お前そっくり 裏がえるまで。
P-MODEL「ヘルス・エンジェル」
以前、とらドラについて語る記事を書いたとき(聖なる夜にとらドラ!をdisる - 斜め上から目線)こんなブックマークコメントをもらったことがあった。
はてなブックマーク - 聖なる夜にとらドラ!をdisる - 日常ごっこ
id:mae-9 観る前の文章も観た後の文章も、作品をダシにして自分に注目を集めたいという匂いが酷い。せめて見解が画期的ならいいけど、他人の見解をパッチワークして立ち位置ゲームしてるだけで、どうしようもない……。
このコメントについて僕が憤っていると(実際は、このコメントに憤っていたというより、まどマギについての僕の記事*1に対して、id:kanose氏とid:WintterMute氏が、「id:amamako氏はまどマギに対して本気で憤っているわけではなく、ただまどマギが絶賛されているからそれに対して反発してるだけでしょ(笑)」という酷い侮辱を送ってきたから、それに対して「そんなわけないじゃないか、僕は本気でまどマギについて怒っているんだ」と憤っている時に、ふとid:mae-9氏の発言を思い出して言及したわけですが。ここらへんの経緯の詳細については、togetterにまとめておいた*2ので気になる人はそちらを読んでください)、今度はtwitter上で、id:mae-9(前田久)氏は次のような返信をしてきた。
@amamako 作品をダシ(というかネットで耳目を集めるための釣り餌)にして手前勝手な自分の悩みを吐露してるだけであり、作品に接することで自分の思考に変化をもたらそうとした形跡も見えなければ、作品の問題意識に実直に寄り添おうともしていないように見えるのでクソだ、ということ
なんだろうなー。お下品なたとえをしますが、ある作品を食べて、いろんなものを栄養としてとりこんだうえで出てきたウンコってのは、ウンコだけどそれはそれで素晴らしいものだと思うわけですよ。しかし、最初っから「俺はゲロ吐きパフォーマンスがしたいんですよ!」って宣言して、ゲロの材料として作品を食べて、そんで吐き出されたゲロってどーだろ。僕はそんなもんには価値はないと思うわけです。
要するに僕のとらドラやまどマギについての記事は、前田氏に言わせればただの「ゲロ吐きパフォーマンス」で吐き出されたゲロにすぎず、そんなものには何の価値もないというわけだ。
ですが、僕はここではっきりと言おう。
アニメ批評においては、そういう「ゲロ吐きパフォーマンス」こそが、今必要であると。それこそ、前田氏がアニメ誌で垂れ流すような、お行儀の良い、きちんとある作品を食べて、いろんなものを栄養としてとりこんだうえで出てきた*3作品評論なんかより、よっほど。
物語は、人々の心において「型」の役割を果たす
ある作品を食べて、いろんなものを栄養としてとりこむ、なんと聞こえのいいフレーズだろう。それこそ小学校の国語の時間から、私たちは物語に対してこういう姿勢で接しろと言われて育ってきた。あらゆる作品は私たちを成長させる栄養になるのであって、私たちの害になる物語などないのだと。
そして、そのような視点から見れば、現代ほど「心を成長させる栄養」に溢れている、幸福な時代はないだろう。特にアニメに関して言うならば、新作アニメが毎クール湯水のごとく量産され、過去のアニメを視聴することも、インターネット等を使えばごくごく簡単に出来てしまう。そして、様々なアニメ誌や、ウェブ上のサイトでは日夜前田氏のようなアニメライターや、やらおんといったアニメ感想サイトが「このアニメがおすすめです!」と言い、アニメを薦めてくる。多分これほどまでに簡単に数多くの「物語」に触れられるようになった時代は、有史以来ないのではないだろうか。
しかし、ではそのように沢山の「物語」に触れ、そしてそこから多くの心を成長させる栄養を得ている私たちは、果たしてそれによって幸福になっているのであろうか?
僕はそうは思わない。むしろ、そうやって「物語全てを栄養にしろ。ゲロにして吐き出すなんてもってのほか!」と煽る人々により、私たちは物語から栄養を過剰に摂取しているのではないだろうか?
当たり前だか、どんな体にいいものも、それを過剰に摂取することは体に悪くする。人体に必要不可欠な水だって、あまりに大量ならば、人を死に至らしめるのだ。
では「物語」の場合、それを過剰に摂取し、心の栄養にすることは、どんな悪影響をもたらすか。
物語とは、心にある種の「型」を提供するものであると僕は考える。一番わかり易いのが、勧善懲悪の童話だ。いい事をしたものには褒美が与えられ、悪いことをしたものには報いが与えられる。世界はそのような仕組みであり、故に私たちはいい事をしなければならない、童話という「物語」は、そのような「型」を、子どもの心に与える。
しかし一方で、そのような勧善懲悪を真っ向から否定する物語も存在する。現実は非情であり、いい事をしたからと言って自分にそのいいことがかえってくるわけではない。しかしそのような写実主義に立つ物語であっても、そのような物語は、そこに描かれる「現実」をどのように描くかによって、人々の心に「型」を与える。例えば、幸不幸は階級の差によって生じ、労働者階級の人々はそれによって不幸な目にあうというように現実を描写すれば、それは「プロレタリア文学」となる。あるいは、幸不幸は人々の頑張りによって決定され、いかに他人を蹴落として自分が這い上がればいいか考えることが、幸福になる分かれ目なのだという風に描けば、それは「新自由主義」という型を読者に与えるだろう。
また、勧善懲悪でも写実主義でもない物語ももちろん存在する。例えば「けいおん!」の様な、いわゆる「日常系」と呼ばれる物語は、これまで出てきた物語が描こうとした「現実」そのものから退却できるという考えの「型」を与える。別に良いことをしなくたって、なんとかこの世界で生き抜こうとかそんなこと考えなくたって、楽しく生きようと思えば人生は楽しく生きられるのだと。これも、心における一つの「型」であることは、間違いない。
このような様々な型は、過剰に摂取しない限りは人々の心を豊かにしてくれる。それは間違いない。というか、そもそも人間は、物語が与える「型」抜きには生きていくことさえ不可能な動物だ。自由意志を持つ以上、その自由な意志が生きることを選択する「型」を心に持たないければ、人は死んでしまう。このような型について、人々は様々な物語を読むことにより、その物語に描かれる「型」を、自分の型を洗練させるための参考資料とする。
物語が多すぎるために、人々は複数の「型」を抱え込み、解離的病理に陥っているのではないか
だが、私たちにも経験があるように、資料があまりに多いところでは、私たちはむしろそれらの資料を参考にすることはできなくなる。人々の頭脳で処理を出来るキャパシティを超えてしまうのだ。しかしそれでも触れる物語は日々増加し、私たちはそれを「心の栄養」として参考にするよう迫られる。
すると何が起きるか?起きるのは「思考停止」と「断片化」である。迫り来る物語をとりあえず全て学び、それを心の「型」として採用する。だが、それはその物語に接している期間だけであり、次の物語に接したら、すぐ今までの「型」は捨て去り、新しい物語の「型」を採用する。そのようにしながら、短期間のうちに、それぞれの場面ごとで、次々と自分の心の「型」を入れ替えていく、そのような新しい人格のあり様が、今生まれつつあるのではないか?
そのような人格が持つ病理の典型例として、僕がtwitterでさんざん問題視してきた「蛸壺的メンタリティー」というものを挙げることができるだろう。蛸壺的メンタリティーとは、けいおんや俺妹・まどマギのキャラクターたちをひどい目に合わせる同人サークル「蛸壷屋」の作品を賞賛する人々のメンタリティーを総称したものである。このような人々は、決してけいおんや俺妹・まどマギといった物語のキャラクターたちを憎んでいるわけではない。むしろ、そのような作品に深くのめり込んでいなければ、そもそも蛸壷屋の同人作品を楽しむことは不可能である。しかし一方で、そのような人たちは、けいおんアニメのように女の子たちが幸せにまったり生きている物語を楽しみながら、一方でそのようなキャラクターがひどい目にあう蛸壺作品を楽しむ。それぞれの物語を楽しんでいる時で、心の「型」が解離してしまっているのである。
このような心の「型」の解離は、それが物語を楽しむ場面にのみとどまっているのならば問題はないのではないか?という疑問もあるかもしれない。しかし、前に述べたように、物語が与える心の「型」とは、人間が生きるという、生存の根本にまで関わってくる事柄なのだ。むしろ、物語から離れているときにこそ、物語が与える心の「型」は重要になってくる。その時、その心の「型」が、その前にどんな物語に接しているかによって偶然的に決定されるとしたら、それは人生を生きる戦略*4、ライフポリティクスに著しい悪影響を与えるのではないだろうか。
「嫌なら見るな」は物語過剰への処方箋とはならない
しかし、だとしたら、私たちは一体どのようにしてこのような物語過剰な現代において、物語から栄養を過剰に摂取することがない自律性を取り戻すことが出来るのだろうか。
まず出てくるであろう処方箋は、「嫌なら見るな」だろう。恐らく前田氏のようなアニメライターも、「アニメについて語るときは、それをきちんと栄養として語れ」という表現の裏には、「栄養にできないようなアニメについてはそもそも見たり、見ても語ったりするな。汚いゲロを残すな」という考えをもっていることが推測出来る。
だが、そこで「イヤ」であるということを、その物語に接する前から判断できるならば、そもそも私たちは前述したような病理に直面したりしない。例えば、本当に自分の心の「型」がはっきりと固定され、微動だにしない人間ならば、きっと大量の物語に接してもその中から自分の好む物語だけを選択し、自分の心の「型」に合わない物語は切って捨てるだろう。そのような人間は、自分の心の「型」を決して変えないから、物語を栄養にして成長することも決して無いが、しかしそれ故に解離的な病理を患うこともない。*5
しかしながら、多くの人々の心の「型」は、そのように決まり決まったものではなく、可塑性に満ちている。例え自分の現在の心の「型」に合わなそうに見える物語でも、もしかしたら自分の心の「型」をより良い方向に変えてくれる、そんな物語かもしれない。それが、自分にとっていい結果をもたらすかどうかは、実際にその物語に接してみないと分からないのである。この可塑性は、基本的にはいいことであり、これがあるからこそ人間は変化する世界の中で臨機応変に生き延びることができるわけだが、しかしそれが、物語が過剰な現代においては、アキレス腱ともなるのである。
このような考え方を更に助長するのが、まさしく前田氏や、あるいはたまごまご氏や藤津亮太氏*6などが声高に言う、「全てのアニメには平等に価値があり、いい所がある。それを引き出そうとしないのは怠慢」という考え方である。もし全てのアニメに平等に価値があるとするならば、ますますじゃあどの対象を「嫌だから見ない」と判断すべきかわからなくなるではないか。
アニメ価値相対主義と売上厨の共犯関係
そして、このような状況においては、ではどうすれば見るアニメを峻別できるかという基準として、「売上」が重視されるのは、ごくごく当然なことだろう。全てのアニメは平等にいい所があるという相対主義的な態度に立つ限り、そこでは唯一相対化されない絶対的な基準として、「売上」が絶対視されるのである。やらおん等に代表される売上厨と、「全てのアニメにいいところを見出そう」と言うアニメライター的態度は、何故か相反するものとみなされがちだが、しかし実際は双子のように同じところから発生した、相互を補完する、持ちつ持たれつの関係なのである。
しかし、このような「売上」という基準は、物語が過剰な現代において、対症療法的に接するべき物語を限定するが、しかし根本的な治療には決してならない。当たり前である。「売上」というものはあくまで非人格的な存在であり、そこで示される物語の「型」は結局バラバラ、解離的なものでしかありえないのだ。去年はけいおん、今年はまどマギからあの花というようにころころ好きなアニメが変わるような人間は、確かにその時々の「売上がすごい」という共通項はあるかもしれないが、結局人格的にはバラバラなのだ。
物語依存症(アディクション)というアナロジー―自己コントロールへの強迫観念こそが、アディクションを引き起こす
つまり、「嫌なら見るな」というように、見る前に物語を限定するような態度は、そもそもそのような態度は原理主義的で危ないことを抜きにしても、物語の過剰さに対する処方箋とは成り得ない。だとしたら、一体私たちはどうすればいいのか。
ここで、一つアナロジーを使ってみたい。大量の物語に溺れることによって、自己コントロールを消失してしまうというというこの病理は、ある種、アルコールやニコチンなどに対する依存や、摂食障害などの、いわゆるアディクションとみなすことが可能ではないだろうか。言うなれば、物語依存症という風に、この病理を位置づけてみよう。
依存症というものは、多くの人は、その人の意思が弱く、すぐに誘惑に負けてしまうことから起きると思っている。そしてそうであるがゆえに、それを克服するためには、本人が自己責任感をきちんと身につけ、「自己をコントロールできる/しなければならない」と考えている。
しかしこのような考え方は大きな誤りであり、実際は依存症は誰でもなりうる病気である。このような依存症の原因は、まず社会にあるといえる。過剰に欲望を煽りながら、一方で過剰に自己を規制しなければならないというメッセージ(まるで、さんざんアニメ文化を煽りながら、一方でそのようなアニメについて「嫌なら見るな」とも言い放つ、やらおんやアニメ評論界隈のように)も放つ現代文化の問題である。ただ、それは個人ではどうしようもできないこともまた事実だから、長期的な社会変革の目標としてはともかく、短期的な治療においては問題とならない(しかし一方で、このような社会・文化の問題をただ黙ってみていることもできないだろうということは、厳しく述べておきたい)。
とりあえず手の届く範囲で治療できるのはあくまで個人であるから、当然治療においては個人的要因というものが問題となる。ところが、ここで意外なことに、依存症を引き起こすものは、一般の人々が想像するように、責任感の弱さや自己コントロールのゆるさではなく、むしろその反対、責任感の強さや自己コントロールの過剰さであるということが、実は依存症治療においては常識らしいのだ。
例えば摂食障害の症状の一つである過食、しかし実は、過食自体はおかしくないことではないと専門家は言う。過食の前には絶食などが行われ、過食してしまった際には嘔吐が行われる。だから、実は過食症の大半は肥満ではない。そして、過食において真に問題なのは、過食そのものではなく、その前の絶食や嘔吐なのだ。何故なら、それらがあるからこそ、そこでの空腹感が過食とつながる。そして、そのような絶食や嘔吐は、正しく「自分の体重を管理しなければならない」という、自己コントロールへの強迫観念から生じるものなのである。そして実際、体重管理を要求される職業の人にほど、過食症は多くみられるらしい。
そしてそれ故に、実は依存症の治療は、その責任感の強さをやわらげ、自己コントロールへの強迫観念をとりあえず解除することから始まるのだ。言うなれば、「治したいという思いが強すぎる内は依存症は治らない」のである。そのために依存症の人々には、むしろ「自己コントロールではどうにもならないこと」があるという認知が求められる。この有名な例として、AAにおいて行われる「ニーバーの祈り」というものがある。
The Serenity Prayerij[o[ÌFèj
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
この祈りにおいては「変えることのできるもの」、いわば自己コントロールの範疇にあるものと、「変えることのできないもの」、つまり自己コントロールできなないものが対置され、それらを峻別することこそが重要とされるのである。
もちろんそこでただ「全ては変えられない」という諦めに陥ってしまっては元も子もない(だからこそ、ニーバーの祈りでも「変えることのできるもの」については変えようと言われ、決して自己コントロール自体を手放すわけではない)。重要なのは、自己コントロールできるものとできないもの、その二つを適切に見極めることなのである。
「ゲロ吐き」とはむしろ望みもしないのに現れる現象
さて、ここでもう一つ、「ゲロ吐き(パフォーマンス)」、つまり「嘔吐」という現象について、アナロジーをしてみたい。摂食障害という文脈においては、「嘔吐」は自己コントロールの一つとしてみなされるだろう。だが一方で、嘔吐という現象は自己コントロールの枠外に存在する場合も多々ある。例えば、サルトルはそのものずばり『嘔吐』という小説を書いた*7。ここで嘔吐を催す吐き気が一体何から生まれるかといえば、それはまさしく「存在そのもの」からなのである。通常、私たちの周りのものというものは、何らかの用途や意味を持って。存在している。しかしそのような用途や意味が全て剥ぎ取られたところに、「存在そのもの」が存在するというのが、サルトルの実存主義という考え方なのだ。そしてその「存在そのもの」は、現状の安定した、コントロールできる社会を正面から揺さぶるものとしてあり、だからこそそれは「吐き気」をおよぼすのである。
このアナロジーをここでの議論に、多少強引かもしれないがつなげてみたい。つまり「ゲロ吐き」という行為は、もちろんそれを誘発することは出来るが、しかし基本的には、コントロール不可能な現象なのである。それは自分という存在が、それとは相容れない存在を飲みこんだ時発生するものであり、自分という存在をコントロールしていたと思い込んでいる「私」は、それに対して右往左往するしかない。これは、アナロジーを越えて実際にそうである。何故かid:kanose氏やid:WinterMute氏、id:mae-9氏は僕が好き好んでとらドラやまどマギといった作品を「吐いている」という風にしたいらしいが、しかしそもそもそんなことをして僕に何の得があるのか?僕だって自分が受け付ける、コードギアスやデスノート、ハガレン、ガンダム00、まわピンといった自分が心から楽しめる作品だったら、絶対吐いたりしない。美味しいかなぁと思って食べた物(実際、僕はまどマギという作品に放送前はかなり期待していた)が、しかし受け付けなかった。だから僕はそれらの作品を「吐いた」のであり、そしてその吐き出す様子が、聖なる夜にとらドラ!をdisる - 斜め上から目線やまどかー、もどってこーい。 - 斜め上から目線といった記事なのである。*8
だから「アニメ批評には『ゲロ吐きパフォーマンス』こそが必要」なのだ
そして僕は、この「吐き出す」という行為に注目することこそが、この、物語過剰な現代において、アニメ批評に最も重要なものだと考えている。何故か!?それは、この「吐き出す行為」が、コントロールできない現象だからこそ、自己コントロールの根本的基盤となると、そう考えているからである。物語から栄養、つまり心の「型」を過剰に摂取し、人格を解離するのを止めるには、その栄養を吐き出すしかない。その栄養を吐き出すことによって、心の「型」の統一性を維持し、人格の自律性を取り戻すのである。それは、確かに前田氏の言うように「自分の悩み」のためにアニメ作品を犠牲にするような行為かもしれないが、しかし僕はこう言う。それの何が悪い!と。むしろそういう自分の悩みをないがしろにして、たかがアニメという「物語」に奉仕?(そんな非人格的な存在に奉仕することなどできないし、そんなのただのフェティシズムにすぎないと思うが)するようなアニメ批評のほうが、よっぽど酷い、非人道的なものであると思う。
しかしながら、このような行為は既存のアニメ批評においては、それこそ前田氏が批判するように「価値がない」ものとされてきた。何故か?まず重要な理由は、それは結局物語の生産者、アニメの作り手の側に利益を与えない、消費者運動的なものだからだ。それぞれのアニメの質自体を問題にして、「良いアニメ」と「そうでもないアニメ」を峻別するアニメライターなら、アニメの作り手全体には利益を及ぼすだろう。辛口のグルメ評論はむしろ飽食文化を支える存在でしかないように。しかし、タバコやアルコールそのものの害を指摘したり、グルメ文化自体を批判するような批評は、その作り手側に利益を及ぼさない。だから、そんな批評は、アニメライターのような人々からは決して生まれないだろう。
また、歴史的事情もある。今のように物語が過剰なほど溢れている時代は、過去なかった。これまでの批評の倫理というものは、全て物語が少ない、飽食より飢餓が問題となるような時代に育まれたものだ。だからこそ、その倫理は「とにかく効率的に物語から栄養を摂取する」ということを最重要視するもとなってしまうのである。
しかし時代は変わったのだ。今問題とすべきは、如何に効率良く物語から栄養を摂取するかではない。そうではなく、栄養が多すぎることは決していいことではない、「吐き出す」のは決して悪いことではないという、当たり前の前提を広め、そして、むしろ如何に物語を「吐き出す」か、そのやり方を示すことである。僕はこれからも、そういう形で、アニメを語り、古い君たちを打ちのめす。
前田氏のような人間が旧来のアニメ批評の利益・倫理にすがるのは勝手である。しかし、そこに留まる限り、私は君たちの敵である。さっさと消え失せて、道を開けろ!
*1:[http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110505/1304547864:title]、[http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110608/1307502747:title]、[http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110706/1309921972:title]
*2:[http://togetter.com/li/179930:title=Togetter - 「「ゲロ吐きパフォーマンス」批判に到るまでの流れ」]
*3:以前吉田アミが引用していた[http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20071018/1192701053:title=ヨイコノミライでの自称批評家への批判]を思い出して、実に吐き気がするなぁ
*4:せいぞん、せんりゃくーーーー?
*5:それはそれで「原理主義」という一つの問題系を構成していると僕は考えるが、それにはここでは触れない
*6:アニメについて肯定的な評しか書かないアニメライター。敢えて名前を出したのは、今回の記事は別に前田氏個人だけを攻撃したいわけではなく(もちろん前田氏の個人攻撃の意図も十分ある)、このようなアニメについて肯定的な評しか許さず、「ゲロ吐きパフォーマンス」を殊更に批判する、「アニメ評論」というような界隈全体をこの記事では攻撃・批判したいと思ったために、[http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-1926.html:title=やらおんなどでも「素晴らしいアニメ評論」と賞賛される]藤津氏の名前を出せば、より攻撃対象を明確にできると思い、名前を出した
*7:ただ嘔吐という現象自体が問題なのではなく、現代もどちらかというと「吐き気」、「むかつき」というような題であるという議論もあるが
*8:これらの吐き出し方が拙い、上手く吐き出せていない、もっと上手に吐き出せるはずだという内容への批判はいくらでも受けよう。僕自身、特にまどマギについては、不快感がいまだ残って、うまく吐き出せていないことが自分でもよくわかっている。でも、「吐き出すことがいけない」という、記事の前提そのものに対する否定には、僕はあくまで反旗を翻す