あままこのブログ

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最近「嫌いな物語を見る力」が衰えていると感じる

なんか最近、自分の中で「嫌いな物語を見る力」というものが衰えていると感じる。

というと、ほとんどの人は「は?」と思うのかもしれない。ほとんどの人にとって、小説や映画といった物語は「好きなものを楽しむ」ものであり、嫌いなものなんか端から読まなくていいじゃんと、そう思うものだろうから。

しかし、少なくとも若い頃の僕にとっては、物語とは「好きなものも嫌いなものもまんべんなく摂取し、自分の中で咀嚼しなきゃならないもの」だった。少なくともそういう強迫観念があった。

だから若い頃は、たとえ自分がどんなに嫌いそうな物語であっても、それが世間で流行ってる以上、きちんと物語を摂取し、それに対して自分なりに感想を持たなければならないと思っていた。

ところが最近は、もうそういう強迫観念がとんと薄れてしまって、流行ってるアニメや漫画を見ても、自分に合わないと「じゃあいいや」と視聴をやめるようになってしまった。

これは、ある意味では確かに健康なことなのだろうと思う。なんだかんだ言って、嫌いな物語を見ることは苦痛だし、それに対して感想を文章にすることも苦痛だ。そしてそれをインターネットに発表したりでもすれば、その作品が好きな人を傷つけることにもなる。それに比べれば、嫌いな物語を見たとき「これは自分向けじゃないな(Not for me)」と思うようになったのは、たしかに健康的なのだろう。

ただ、そこで僕は一抹の不安を覚える。というのも僕は、これまでの物語を摂取してきた人生の中で、好きな物語、自分に合った物語よりも、むしろ嫌いで、自分に全く合わない物語について考えることにより、自分の考えを深化させてきたという自負があるからだ。

つまり、好きな物語は、自分の思想なり感性と同じだから、それを摂取しても「ああ楽しかった」としか感じないわけだけど、嫌いな物語の場合は、その物語がなぜ嫌いであるかを考えることによって、「自分はその物語のどこが嫌いで否定したいと思うのか」という形で、自分の思想なり感性の輪郭を相対化させ、精緻化することができてきたのではないかと、考えているのである。

ところが、嫌いな物語を摂取することすらやめてしまうと、そういうふうに自分の思想や感性を相対化させることができなくなり、自己相対化ができなくなってしまうのではないかと、危惧しているのである。

ただ、これはもう、若者ではない以上、しょうがないことなのかなぁとも、一方では思ったりする。いちいち物語でアイデンティティを揺らがされるのは所詮若者の特権であり、おじさんになった僕は、自分の考えが正しいと無条件に信じる老害になるしかないのかと。それは、とても嫌なことなのだけれど。

どうでしょう?みなさんはこういう老い、感じたことあるでしょうか?