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なんか似たようなことは、前に僕も記事で書いたことあったな
amamako.hateblo.jp
と思いながら読んだ。
上記の記事に対するフロムダ氏の言及記事も読んだ。
fromdusktildawn.hatenablog.com
「表現者になりたい」のではなく「表現をしたい」という人、どちらが世の中で多いか少ないかという問題は、まあある。
世の中の多数派がどうなのかという話はあまり興味が無いので、自分のことを考える。
自分は「表現者になりたかった」のか「表現をしたかった」のか。
ところが、自分の問題に限って考えてみても、これがなかなか割り切れない。「表現者」になるために「人より知識を得て、知的優位を保たなければ」という思いは、かつてはあったし、それが自分の勉強の原動力だったりもした。
ただその一方で、「自分の表現がきっかけとなって何かが起こる」ことも、期待していた節はあるのだ。祭り、もめ事、炎上……そういう類いに盛んに首を突っ込んだのは、要するにそういう場ならば自分の表現によって、戦況が変化し、場合によっては戦況をくつがえしたり、あるいは勝利/敗北の決定打となったりするからだ。
しかし時に、この二つの欲望が相克するときもある。例えば論争の場では「自分の評判がダメージを負う代わりに、相手の評判もダメージを負う」表現というものがある。こういうとき「表現者」としての評判のみを気にするのなら、そのような自爆技はすべきではないだろう。ところが僕は、むしろそういう自爆技を好んで使ってきた。
しかしその一方で、自分は「自分の名を明かさず匿名の場から攻撃する」という戦術が、例えどんなにそれが効果的な場でも、取ることが出来なかった。はてな界隈ではID持ちの人でも「はてな匿名ダイアリー」で記事を書くということがよく行われるそうだが、僕はそういうことができない人間だったのだ。
だから、考えれば考えるほど、自分が「表現者になりたかった」のか「表現によって何かを変えたかった」のか、分からなくなってしまうのである。
で、更に最近困るのが、現代のネットでは「表現者になりたい」というのと「表現をしたい」というのがほぼ両立不可能になりつつある(ように見える)ということだ。
フロムダ氏は
「表現者に、俺はなる!」なんて気張らずに、
思い付いちゃったことを、気軽にネットに書き込めばいいんじゃないでしょうか。
それは、昔より今の方が、ずっとやりやすくなったのではないでしょうか。
という風に書く。そして、そういう風に「表現者たれ」というくびきを外し、誰もが気軽に表現できるようになったのが、Twitterやらを始めとする、SNS空間と言うことが出来るだろう。
そして、SNSが証明したのは、個々人が独立した「個」として存在するより、まとまった「群衆」として存在する方が、よっぽど簡単に社会を動かすことが出来るということだ。
誰か一人が、一生懸命何かについて考えて、ブログなりnoteなりに数千文字の記事を書くより、多数の群衆が、数十字程度のつぶやきを大量につぶやいてトレンドに載せる方が、よっぽど影響力があるのである。
しかしその一方で、そうやって顔のない群衆の一人となって社会を変えるうねりに参加しても、そこで「表現者」としてあなたを見てくれる人はどこにもいない。
それに気づいた「表現者になりたい」人たちは、そういう群衆の場からは撤退し、少人数の顔が見える場に移行しようとしているわけだ。あたかも、竹林にひきこもった古代中国の賢者のように。
しかし僕はそのどちらも選べず、どこにもいけないまま取り残されている。
どうしたものやら。