あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「何者でもない私たち」だからこそ主役になれると驕っていた時代

anond.hatelabo.jp
この記事、シロクマ氏やアジコ氏に向けられているけど、僕は勝手に「これってまさしく僕のような人間に向けられた手紙じゃん」と思わずにはいられませんでした。なので、勝手に宛先が僕になっていると勘違いして、話を進めます。

はてな村を形作っていたのは、むしろ僕のような「未だ何者でもない」者たちだった

というかそもそも、シロクマ氏やアジコ氏のような人間がはてな村人の代表として扱われるのが僕には納得いかないんですね。彼らはむしろ、「マンガ作者」とか「精神科医」みたいな、自分の属性・居場所を外に担保しておきながら、あくまで観察者としてはてな村のようなコミュニティを眺めている立場だったというのが、僕の感覚なんです。
そういう人らは、「実生活から一時的に逃げるアジール」としての機能がかつてのはてなにはあったと語るけど
orangestar.hatenadiary.jp
僕からすれば「余裕がある人はいいねぇ」って感じでしかないわけで。アジールも何も、この「はてな」だけが僕の唯一の居場所、ここで主役になれなきゃ、生きてる価値がない。少なくとも当時の僕は、それぐらいに感じていたわけです。
言ってしまえば、僕のような「ネットで演技して、なんとか主役を勝ち取ろうとあがく者たち」が演者として舞台に上がり、シロクマ氏やアジコ氏のような「ちゃんと自分が主役として実生活を生きられている人たち」がそれを観客として眺める、はてなとはそんな舞台だったのです。
実際、思い出してみてほしいんですが、はてな村では毎日たくさんの事件・揉め事が起こっていましたが、そこで揉め事の主役だったのはシロクマ氏やアジコ氏のようなきちんとした人ではなく、むしろどっか人格が破綻していたり幼さを内に秘めた者たち、まさしく下記で述べられてるような「劇場型性格」
kanose.hateblo.jp
web.archive.org
の人たちだったでしょう。そんな未完成の、何者でもない者たちが、人々の声援や野次に右往左往しながら悲喜劇を繰り広げていたのです。

「何者でもない私たち」だから、演じられる舞台があると思っていた

そして私たちは、むしろそうやって何者でもない私たちがゼロから演じるからこそ、今までとは違う「ネットならではの表現」ができると思っていたのです。
匿名ダイアリーの記事ではそれを「クラスの端っこで地味にやっているやつでも〜ネットでは主役になれると夢見れる場所だった」と表現しています。確かにそういう妬みの側面もあるのですが、それ以上に、クラスの中心にいる連中、そしてその連中が模倣しているマス向けの表現に魅力を感じられなかった僕たちが、「自分の実存全てを掛けて、本当に人々の心を揺さぶれるような表現ができる場所」と、思っていたのです。
確かに大衆向けの表現は作り込まれているし完成度も高い。だけど、それらはあくまで「お仕事」として作られているもので、作り手の実存なんか一切掛けられていないウェルメイドな大量生産品でしかない。それに対して僕らの表現は、技術的には稚拙だけど全身全霊自分の実存を掛けて演じた表現だから、大衆向けの表現なんかよりずっと面白いはずだと、そう、思っていたのです。
そして実際、はてな村で繰り広げられる様々な出来事は、TVで放送されるドラマやバラエティーなんかよりも断然面白かったわけです。その事実は、幾らブックマーカーや増田が否定しようが、少なくとも僕の中では、決して揺らぐことはありません。

しかし、結局世間が選んだのは、ウェルメイドな表現だった

しかし、そのような実存を賭した表現はいつしかはてなでも見られなくなり、まるでマスメディアの模倣のような、ライフハックとか政治的主張とかがはてなを覆い尽くすようになりました。
その分水嶺はどこにあったか?少なくとも僕にとってその日は、2012年8月14日です。
p-shirokuma.hatenadiary.com
あのとき僕は、ハックル氏をはてな村の人たちがキャッキャウフフしながら取り囲んでいたのを見て、はっきりと苛立ちを覚えていました。そんなマス向け表現の権化のような人をはてな村の人々がありがたがるなんて!と。そんなお前らの腑抜けた態度、僕が叩き直して、僕こそが主役になってやる!そうやって僕は、ハックル氏を囲むはてな村のオフ会に乗り込んでいったのです。
……結果は、惨敗でした。何も戦う技術を持たない僕は、ただハックル氏の手のひらの上で踊らされるだけで、ハックル氏のはてな村における名声を高めただけだったのです。
そう、幾らこっちが勇んで「お前らの表現には魂がない!」と叫んでも、結局多くの人にとっては、「面白いかどうか」だけが表現を図るものさしであり、そしてそのものさしから言えば、伝統がありかつ高度に体系化されたマス向け表現の技術を持つ人達に、「何者でもない私たち」が敵うわけがないのです。
そしてそれぐらいから、ネットは結局第二マスメディアと同じ立ち位置、はてなもまた、どっかのビジネス系雑誌のような場所のなってしまったのです。「何者でもないありのままの僕を認めて!」なんて稚拙な芝居は、お呼びではなくなったのです。

それでも、主役を目指して演じ続ける

でも、僕は諦めていません。
確かに「なにもない私を見て!」というだけの表現はもはや伝わらないでしょう。しかし一方で、一切そこに「私」が介在しない、ただ閲覧数や契約者数といった数字を見てシステマティックに生み出されるだけの表現にも、正直みんな飽き飽きしてると思うんです。ネットフリックスが吉本と組んで何か新しい表現が生み出せますか?
重要なのは、あくまで「私」から生み出される情念をベースにしながら、しかしそれだけでなく、いろんな知識や技術を勉強しすることなんです。成長し続けること、それこそが最大のコンテンツなのだと、今の僕は思っています。
「自分は既に自分の物語を生きている主役だから」と言い切れる人間は強いです。しかし、少なくとも僕はもっと他人からの称賛がほしいのです。そういう思いから、僕はこの舞台で「私」を演じ続けます。称賛を得て、主役=スタァになるために。