あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

1987年生まれから見た「若い世代」の論客たちについて


僕は、これらのツイートに、「たしかにそうだなー」と思ってたんですが、どうやらはてな人文系界隈では評判がよろしくないみたいで。
davitrice.hatenadiary.jp
plagmaticjam.hatenablog.com
曰く

このツイートを最初に見た時、いいねを押した。しかし冷静に見てみると「今ある問題を自虐的に語ることで世代に還元させ、誘導しようとしてる」ようにも見える。現行支配的な多様性やLGBTなどを念頭に置きつつそれを笑っていた僕達は間違った世代だったと言うのは反発を招いて当たり前ではある。

と。
まあ簡単に言うと「世代でひとまとめにするな」ということらしいです。
ただ、僕はそれでもやっぱ「世代」は重要だと考えるんですね。確かに、それぞれの個別の経験というのは異なるかもしれないけど、しかし同じ時代を生きた世代は、良くも悪くもそれぞれの時代の問題意識というのを背負っているし、それを相対化することはできるかもしれないけど、そこから自由になることは無理だと考えるからなのです。
そこでこの記事では、1987年生まれという世代から、上記の議論や、上記の議論に加わる若い世代の論客がどう見えるか、ちょっと書き記してみたいと思います。

「反省」とは日本の政治意識においてどんな意味を持ってきたか

上記のツイートや文章では、「反省」という単語がそれぞれ大きな意味を持っています。ただここで危ういなーと思うのが、どの人たちも「反省」という行為が現代日本においてどんな意味を持ってきたか、その背景にあまり関心を示していないということなんですね。そして、そうであるがゆえに、自分たちの前の世代や、自分と異なる意見を持つ人が「反省」というものをどう捉えているか、あまり理解できてないように思えるのです。
「抵抗としての無反省」という言葉があります。社会学者の北田暁大氏が『嗤う日本の「ナショナリズム」』という本

で示した、1980年代〜1990年代の政治意識を示す概念です。
で、多分これは僕がそれを体験したギリギリ最後の世代で、だから、僕より若い論客たちはピンとこないんだと思うのですが、僕の世代ぐらいまでは「反省しない」ということこそが、社会的な抑圧に対する(当時の)若い世代の抵抗だったんです。
日本の、特に大学に行って政治のことを考えるような「意識高い系」インテリにとって、1960〜1970年代っていうのは、基本的に「敗北の歴史」として語られます。反帝反スタの共産主義革命を掲げて戦ってきたけど、結局行き着く先は山岳ベースの集団リンチであったり、あるいは中核V.S.革マル内ゲバだったりしたわけです。人々が自由に生きられる世の中を目指して頑張っていたはずが、行き着く先はそれぞれがそれぞれを抑圧するような地獄、これは一体何だったのか、一体何が間違っていたんだろうかと、当時のインテリたちは必死に考えたわけです。
で、そこで思い至ったのが「それぞれがそれぞれに『反省』を迫るような態度こそがいけなかったんじゃないか」ということです。反省とは、具体的に言えば「自分で自分の過ちを認め、それを正そうとすること」なわけですが、それが究極的には自分自身の自由や存在を否定する「自己否定」につながってしまったのではないか。だったら、いっそ「反省しない」という態度で享楽的に生きることによって、より人々が自由に生きられる社会に近づくのではないかと、そう考えたわけです。
だから、僕ぐらいの世代までは、「反省」という言葉を提示されると、とっさに「そうやって人に対し反省を強いる態度こそが抑圧を生むのではないか」と思ってしまうわけです。
ただ、ここで僕ぐらいの世代までは、「反省を強いる社会秩序」というものを想定し、それに対する対抗手段として「抵抗としての無反省」というものを考えていたんですが、ちょうど僕のちょっと前ぐらいから徐々に、「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」という修飾が消え、単なる「無反省」になっていくんですね。
これは何でかっていうと簡単で、「抵抗としての無反省」を行う、全共闘以後の世代が、社会の大部分を占めるようになると、そもそも「反省を強いてくるもの」というのがなくなってくるからです。そしてそういった社会では、「無反省」という態度が所与のものとなり、「今のままでいいじゃん」「弱肉強食で何が悪い」「差別をして何が悪い」ということになっていくわけです。
おそらく、元ツイートで永井玲衣氏は、このような「無反省」に苛立ちを覚え、「やはり反省が必要なのではないか」と考えたと思うのです。それ自体は正しい、正しいのだけれど、そこで批判される「無反省な過去」も、別に知的怠惰の上に生まれたわけではなく、過去においては一定の根拠があったものだったということを理解しておかないと、それこそ〈過去への反省なく〉「反省」を強いる、ということになってしまうのではないかと、思ったりもするわけです。
一方で、元ツイートを批判する側も、そこで「無反省」を持ち出すことは、例えそれが抵抗としてのものだったとしても、結局1990年代〜2000年代のような露悪主義に至る道となりかねないということは、考慮すべきだと思うわけです。

全ての「思想」や「理論」は、それ単体では「正しく」ありえない

僕が若い世代の論客を見ていて思うのは、リベラルであるとか保守であるとかとはあまり関係なく、「思想は、その思想が生まれる時代に束縛されており、自分自身も時代から逃れることはできない」という認識が、よくもわるくもあまりないなということです。
これ、良い面ももちろんあるんですよ。時代の多数派の風潮とかは気にしなくていいと思うからこそ、そのような多数派に迎合することなく、言いたいことを言えるってことですから。僕なんかは古い人間なので、時代の潮流がどんなものなのかを見極めながら、パフォーマティブに主張をしたり、議論をふっかけたりするわけですが、若い世代の論客からするとそれは「時代というものを気にしすぎて、知的に不誠実になっている」と見えるのだと思うのです。
ただ、その一方で、若い世代の論客は、あまりに「自分」とか「理論」というものを信頼しすぎてないかなと思うわけです。例えばid:davitriceはこのように述べています。

……とはいえ、このブログをフォローしているならお察しできていると思うが、いまではわたしも「はてサ」的な思想には賛同していない。というか、八割方は否定しているし、はてサの人たちの大半にももはや反面教師としての価値しか見出せなくなっている。これは、学部や大学院を通じて自分でいろんな本を読みつづけて、ようやく自分の頭で物事を考えられるようになった結果だ。考えてみると当たり前の話だが、アカデミックなものを求めるなら、ブログじゃなくて、海外のものとか古典とかを含めて最初から本を読んどけばいいのである。

はてなサヨクを反面教師として「自分の頭で物事を考えられるようになった」そうで、自称「はてなサヨクの生き残り」である僕なんかは、単純にすごいなぁと思うわけですが、でもそこで「自分の頭で考えた」という自負がありすぎると、結局「自分で選び取ったんだからそれが正しい」ということになり、独善に至ってしまはないかと、老婆心ながら心配するわけです。
例えばid:davitrice氏ははてなサヨクを含めたポストモダン左翼について、次のように批判しています。
davitrice.hatenadiary.jp

 いまから思うと奇妙であるのは、ポストモダニズムそのものに対してまで批判が向けられるのではなく、あくまで「日本のポモ」だけが槍玉に上がっていたことだ。ポストモダニズムそのものについては「デリダはそんなこと言わない」などと擁護されており、左翼であり反権力であるデリダとかフーコーとかの「意図」や「動機」を無視して当人たちが望んだのとは正反対の方向に理論をはたらかせたから日本のポモはダメだ、というかたちで批判がおこなわれていたのである。

 しかし、ある理論の使い道や用途はその理論を生み出した当人の意図や動機に基づいて制約されなければならない、なんてことはないだろう。

 たとえば、西洋の思想家たちは古代から近代にいたるまでおおむね女性差別的であったり人種差別的であったりしたが、彼らが生み出した理論がいまでは性差別の問題や人種差別の問題を分析して批判することに用いられている。問題点を修正したりアップデートしたりしながら、その理論を生み出した当人には予想もつかないところへと適用されるようになっていく、という発展性とか拡張性とかが、理論というものの性質であり面白さでもあるだろう(だから、理論を応用した相手に対して「それは換骨奪胎というものであり、その応用の仕方は間違っている」と批判することも、大概は不当であるのだ)。

(略)

 ポストモダニズムや批判理論に基づいて、相手のことを「客観性をよそおいつつ、その裏には隠れた目標がある」という風に批判することには、自家中毒の危険がある。

「すべての理論や議論には意図や目標が隠れているのであり、相手だって俺だって客観的な事実を論じることはできない。相手にも意図や目標があり、俺にも意図や目標があるのだ。そして、俺も相手も自分の意図や目標を遂行するために議論を展開しているのだとすれば、アカデミアは真実を追求する場ではなく、どちらがよりもっともらしいことを言って主導権や影響力を握るかという闘争の場である。だから、確かさや客観性を保ちながら真実を追求するのではなく、自分の派閥の力を強めて相手の派閥の力を弱めることをがんばろう。批判の目も、相手にだけ向けるのが正しい。自分の側の議論にも批判の目を向けると敵に塩を送ることになってしまい、敗北につながりかねないからだ」となってしまうのだ。……ごく一部ではあるだろうが、こんな認識でがんばっている人はアカデミアのなかにもマジで存在していることだろう。

 マルクーゼの名前は忘れられても、彼の生み出した「抑圧的寛容」の発想はいまでも影響力を発揮しつづけている*2。あるいは、ジョナサン・ハイトが指摘するように、マルクスは「社会正義大学」の守護聖人でありつづけている*3。近年におけるポスト・トゥルースの問題とか、ちょっと前のポストモダン論争とかも、大元はこのあたりにあるのだろう。

ですが僕からするとid:davitrice氏はあまりに「理論」とか「思想」とかというものに対しナイーヴに「正しさ」を認めすぎているように思うのですね。
例えばid:devitrice氏は

西洋の思想家たちは古代から近代にいたるまでおおむね女性差別的であったり人種差別的であったりしたが、彼らが生み出した理論がいまでは性差別の問題や人種差別の問題を分析して批判することに用いられている

ということを述べて、「例え言った本人が差別的な人間でも、その理論が差別の批判に用いられることもある」から、誰が言ったかは関係ないとしています。
しかしそれって、逆を言えば「差別の批判に使われるような理論・思想を抱えたままでも、矛盾なく差別的でありえる」ということでもあるわけです。
具体的な例を出すなら、アメリカの権利章典
ja.wikipedia.org
は今もって人権侵害とかに対抗するために持ち出される重大な文書です。しかし一方で、このような権利章典がありながらも、アメリカでは奴隷制や黒人差別というのが長きに渡って続いてきた。これって、要するに「権利章典という文書だけでは、奴隷制や黒人差別のような人権侵害を否定し得なかった」ということの証左なわけです。
そこで、批判的な歴史学は、権利章典とかそういったもので語られる「人権」とは、当時の人々にとっては結局「白人男性」に限定されるものでしかなかった。それが女性差別や人種差別といったものを批判するものとして認識されるようになったのは、公民権活動家といった人々が、それを換骨奪胎して「みんなの人権」へと拡張するようになっていったからだと、主張するわけです。
だから、結局理論や思想というのは、それ単体では良いようにも悪いようにも使われるものであり、結局重要なのはそれを「人々がどのように利用するか」なのだと、ポストモダン左翼は主張するわけですね。id:davitrice氏は

理論を生み出した人たちの意図や動機を持ち出さなければ"悪用"することを防げないのだとしたら、その理論自体がもとからガバガバで問題のあるものだった、ということである。

と言いますが、ポストモダン左翼の立場からすれば、全ての理論というものは「ガバガバで問題あるもの」である。悪用の余地がない理論なんて存在しない。だから、「批判」が重要なんだと、なるわけです。

ブログが重要なのは、その人の立ち位置をはっきりさせるから

で、更に言うと、僕はこのように「同じ事柄でも、それが言われる状況や、言う人によって意味が変わってくる」と思うからこそ、TwitterなどのSNSでなく、ブログというメディアはより優れてると思うんですね。
id:devitrice氏は、氏にとってのブログの意義についてこのように述べます。

 では自分はどういう理由でブログを書いているかというと、「自分が考えたことや、読んだ本の内容の整理したい」いうことと「話題になっていることについて自分でもなにか言ってみたい」ということと「人々を啓蒙したい」ということとが混ざっている。社会人になって時間や可能性が限られるようになってからは、自分の考えや意見を記録して発信することの価値は以前よりもさらに強く感じられるようになった。そして、他人を啓蒙することも、冗談じゃなく重要だと思っているし、ある種の使命感は抱いている。

id:devitrice氏が、「啓蒙」という目的をブログに求めているというのは、確かにid:devitrice氏のブログを見ていると一目瞭然と言えるでしょう。ついでに言うなら、id:devitrice氏がどういった価値観・立ち位置から、一体どのような見方・思想・理論を啓蒙したいかも、ブログというものは如実に示してくれます。
で、僕にとっては、実はそれこそがブログの意義なんです。
ポストモダンを経由したはてなサヨクである僕は、「すべての人が共有する経験・価値観なんて存在しない」というものを、大前提としています。僕が今までの人生で見てきた景色と、id:devitrice氏が見てきた景色、id:plagmaticjam氏が見てきた景色はそれぞれ異なるのであり、そして見てきた景色が異なれば「何が正しいと思うか」という価値観も異なるわけです。
そして、ブログではそういった経験や価値観が、それまでの記事の蓄積として現れてくるわけです。そうすると、「こういう経験に基づいてこの人はこういうことを正しいと思っているんだな」ということが分かるし、そこから「ではそういう異なった人生経験を送ってきた人に自分のメッセージを伝えるのは、どうすればいいだろう」と考えられるわけです。
SNSでの議論には、それができないわけです。Twitterでの発言はあくまでフローでありストックされないから、「相手がどういう経験を積み、どんな価値観を持っている」かがわからない。そんな中で議論をしようとしても、それは単なる「自分にとっての正しさの押しつけ」にしかならないわけです。
そうやって「人格的なことを気にしてコミュニケーションをとる」のは、時としてid:davitrice氏が下記で批判するような「不毛なもの」「下品なもの」

 また、わたしは当時からよく把握できていなかったが、世間的なイメージでのはてな村では「ゴシップ」とか「人間関係」とかも重要であったようだ。思い返してみると、はてなブロガー同士の論争をまとめたり仕切ったり、横やりを入れたり介入したりすることで存在感を発揮しようとするタイプのブロガーは、たしかにいた。あるいは、他のブロガーや有名人を罵倒することで人気を得てポジションを確立させようとするブロガーもいた。……でもゴシップってそもそも不毛なものだし、他人が罵倒しあうのを見て喜ぶのも下品なものだ。ほかのネット空間とはまたちがうはてなに独特の閉鎖性とか属人感とか「学級会」感については昔から「やだなあ」と思っていた。たぶん世間的にはそれこそがはてな村はてな村たらしめている最大の要素なのだろうけれど、わたしはそんなの最初から求めていないのだ。

に思えるかもしれません。ですが、僕はそういうものを排しすぎるのもよくないと考えています。そういう意味では若い論客こそ、精一杯周りと「くねくね」したほうがいいんじゃないかと、思ったりするわけですね。別にその場所が「はてな村」である必要は、全くないわけですが。