あままこのブログ

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「さまよえる良心」の落ち着け方がわからない現代

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OpenAIの創業者とかイーロン・マスクとか、アメリカのIT億万長者の間には「効果的利他主義」「加速主義」といった極端な思想がはびこっており、その思想に基づく行動が世界に大きな混乱をもたらしているという記事です。

実際そういう人たちがどこまでベタにそういう思想を信奉しているかはわかりませんが、たしかにこれら2つの単語は、日本でも若いインテリたちの間で信奉する人が多くなっているみたいで。

僕が観測している若いインテリ、それも「世界を良くしたい」とか考える人たちの間では、この2つに反出生主義を足した

らへんがトレンドの思想で、よく彼らの主張の論拠とされていると、感じます。

「世界を良くしたい」と考えるインテリの若者が、極端な思想に走ること自体は昔からあったが……

ただ、「世界を良くしたい」と考えるインテリの若者が、穏当な社会改良的発想に満足できず、「この社会をぶっ壊して新しいもっと良い社会を作ろうぜ」という極端な思想に走るというのは、別にそんなに異常なことでもないわけです。

それこそ1960年代~70年代なら、そういう若者はマルクス主義に走って学生運動なんかに身を投じていたし、80年代~90年代なら、そういう若者は新興宗教にのめり込んだりしたでしょう。かつて宮台真司氏は、そういう若者たちを『終わりなき日常』を生きろで「さまよえる良心」を持つ若者であると分析しました。

ただ今までの社会ならば、そういう「さまよえる良心」に基づいて極端な思想に走っても、社会の側が強制的に、若者たちを馴致していったわけですね。例えば学生運動なら、たとえ大学在学中にどれだけ暴れていても、大学を卒業したら大多数が普通に就職したり、家庭を持ったりしました。

また、新興宗教においても、多くの宗教では社会との間で軋轢を起こしながら、しかし段々と一般社会との間に折り合いをつけていきます。あの、数々の事件を起こした旧オウム、現アーレフにおいてもそうであえることが、『A2』という映画に描かれています。

「さまよえる良心」を持ったまま、社会に馴致されなくても生きていけるようになってしまった

ところが現代においては、それこそ上記の記事でIT技術者たちが、極端な思想を持ったまま成功者となり、更にその成功者同士でコミュニティを形成することで、よりカルト的になっているように、社会に思想を馴致されず極端な思想を持ったままでも、社会で生き、そして成功することが可能になっているわけです。

かつて、ある特定の価値観を共有するのが当たり前だった社会では、たとえ極端な思想を持っていたとしても、飲み会や私的な付き合いといったインフォーマルな場で「そんな考え方は子どもじみているから大人になりなさい」と矯正されました。

ところが現代においては、そのような価値観の押しつけはいけないこととされています。そうなると「きちんと仕事をしお金を稼ぐなら、どんな価値観を持っていてもそれは個人の自由であり、他者が干渉すべき事柄ではない」となり、隣の席で仕事をする人間がどんなに極端な思想を持っていたとしても、「給料分の仕事をしてくれるなら、別に構わない」となるわけです。

そしてこれは仕事関係だけでなく、家族関係や地域社会においても同じです。各々の集まりの中で、自分に与えられている役割さえ遂行すれば、その裏でどのような価値観を持っていても構わないとなるわけです。

「さまよえる良心」を社会に繋ぎ止めるメンターの不在

そしてさらに、価値観の分断が進んだ社会では、「さまよえる良心」に対し理解を示しながらも、それをうまくなだめるメンターのような存在もいなくなります。

かつてのように「さまよえる良心」が強制的に社会に溶け込まされていた時代には、「自分も昔は極端な思想を持ってたけど、今は落ち着いている」人間がいて、そういう人間が、社会に馴染めない若者と、大人社会の間をうまくとりもっていったわけです。「得体のしれないもの」として若者を拒絶する大人社会に対しては、「でもこいつら本当はやさしい奴らなんだよ。ただその優しさがちょっと明後日の方向に行っちゃってるだけで」と説明し、一方で若者には「世界を良くしたいっていうお前の気持ちはよーく分かる。でも世の中って、そんな単純じゃないんだよ」と諭す、そんなメンターが、うまく「さまよえる良心」を持つ若者を社会に軟着陸させていたわけですね。

ところが現代においては、「一般社会」と「極端な思想を持つ若者たち」が完全に分断され、双方を理解できるマージナルな存在がいなくなっているわけです。そうなると、一般社会の方では「なんだあの常識しらずの若者共は」と、極端な思想を持つ若者への排斥が進んでいきますし、その反作用として、極端な思想を持つ若者の間でも「世界を良くする方法などに全く興味を持たずただ生きているだけの愚民どもめ」と、一般社会への敵意が募る。双方を取りもつ存在がいないため、ただ敵対性だけが募っていくわけです。

(余談ですが、このような問題がわかりやすく現れているのが、今の日本の社会学なのかなと思ったりしています。それこそ僕が勉強してきた頃の社会学というのは、宮台真司氏とかの、「大風呂敷を広げた預言者」に釣られて「社会全体を良くしたい!」と思う若者たちを釣り上げながら、「きみたちのその気持ちはよく分かる、でも、実際の社会はそんなに単純なものではないんだよ」と教え、安全に馴致していく、まさに上記の文章でいうメンターの役割を担っていました。ところが現代の社会学においては、端から「大風呂敷を広げた預言者」を敵視し、そういう預言に惹かれる、「さまよえる良心」を持った若者を排除しようとする。そしてその結果として、「さまよえる良心」を持った若者を、効果的な利他主義や加速主義、反出生主義といったより悪い方においやっているのではないか。
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という記事を書いた背景には、そういう問題意識があったのです。)

「さまよえる良心」をなんとかしようと思うからこそ、まずはそれを理解しなければならない

確かに彼らの信じる思想は、これまでの人文学が積み上げてきた知見を無視した危うい思想といえます。「功利主義」を金科玉条のように振り回す姿勢は、このブログでも何回か批判してきました。
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しかし一方で「今のこの世の中は倫理的におかしい。もっと真っ当な世の中があるのではないか」という問い自体は、十分に理解できるものだと思うわけですね。そして、そのような問いに「答え」を出そうとすれば、「効果的な利他主義」や「加速主義」や「反出生主義」のような極端な思想に行き着くのも、自然なことなのです。

重要なのは、彼らの正しさへの欲求を理解しながら、しかしその正しさをただ突き詰めれば多くの人が傷つくから、もうちょっといい方法がないか落ち着いて考えようと、共感を持って説得することだと思うのです。

しかし、現代の社会においては、そのように敵対するものに理解を示す事自体が悪とされるわけで、そのような対話の回路を作るのは、難しいことなのかなぁと思ったりもするわけです。

もしそれができるとしたら、それは社会の日陰の、サブカルチャーと言われる領域なのかも、しれません。