あままこのブログ

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自分がどう生きるかは、結局自分が決めるしかないのでは?―『21世紀の道徳』批判的書評

著者のベンジャミン・クリッツァー氏(id:DavitRice)の論考については以前もこのブログで何度か取り上げたことがあります。
amamako.hateblo.jp
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上記の記事を読めば分かるとおり、僕はクリッツァー氏の豊富な知識量についてはすごいと思っているんですが、そこから示される、社会問題や学問観・人生論にはどうしても同意できないところがあります。ただ、なんでそこで同意できないかはいまいちよく分からなかったんですね。


それは、この本を読んでも正直あまり変わらなかったんですが、ただこうやってまとまった形で論考を読むことによって、そもそもクリッツァー氏と僕には、根本的な考え方の違いがあるんだなと思うようになりました。

学問は「唯一無二の正解」を示すご神託なのか、「様々な見方」を提示する人生の参考資料なのか

クリッツァー氏は前書きにて、「哲学とは何か」について以下の様に述べています。

哲学といえば、「答えの出ない問いに悩みつづけることだ」と言われることもある。だけれど、わたしはそうは思わない。悩みつづけることなんて学問ではないし、答えを出せない思考なんて意味がない。なんだかんだ言っても、哲学的思考とは、わたしたちを悩ませる物事についてなんらかのかたちで正解を出すことのできる考え方なのだ。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.5). 株式会社晶文社. Kindle 版.

つまり、クリッツァー氏にとって、哲学や、その他倫理学や心理学・生物学といった学問は、それを勉強すれば、絶対とまではいかなくても、蓋然性の高い正解が見つかるものであり、その正解に従って生きれば、正解の生き方ができるものだと考えてるんですね。


しかしそういう考えに対し僕は、「学問、特に人文学に正解はない」と考えます。そもそも学問毎に、その学問が依拠する価値観や、学問観が異なる以上、ある学問で「正解」とされることが、別の学問では「間違い」とされることは多々あって当然ですし、無理に「それでは唯一無二の正解が導き出せない」として、価値観・学問観を統一することが良いとも思いません。だってそれぞれの学問は、それぞれの学問固有のディシプリンに沿って、これまで研究をし、また研究手法を洗練させてきたわけですから、そこでいきなり「今までのおまえらのやり方は間違っている!」と言って、それまでの研究成果を放棄させることに、意味があるとは思いません。


更に言えば、学問内においても、主義の対立はあります。例えば僕の専攻だった社会学では、構造機能主義やらシステム論やら構築主義やらと、「社会というものをどう捉えるか」について様々な理論の対立があります。そして、純粋に理論を研究している人なんかは、それぞれの理論のどれが正しいか、またそれぞれの理論の良いとこどりをして、よりよい理論を生み出そうとしたりしているわけですが、ただ社会学者の大多数は、そういう理論的なことを純粋に突き詰めると言うよりは、とりあえず好みで自分の依拠する理論を選んで、そしてそれに基づいて実際にフィールドワークやら統計調査とかをして、研究をしています。


結果、社会学では、そもそも「社会とは何か」という、社会学の根本に位置する問題に対する見解がバラバラなまま、様々な研究が行われたりしているわけですが、でも、そうやってバラバラな見解に基づくからこそ、社会学は社会のあらゆる場面を研究することができている訳です。


そういう環境にいた僕にとって、学問とは、「唯一無二の正解を与えてくれるご神託」というよりは「自分が常識的に持っている理解とは違う、様々な異なった理解を与えてくれるもの」なわけです。


もちろん、そうは言っても、生きていく中では、そういった様々な理解のうち、一つの理解を選び取り、それに基づいて決断をしなければなりません。しかし、そうだからこそ、僕は多様な見方を知って、それらを自分の頭で比較考量して、納得のいく決断を行いたいのです。「様々な見方を知った上で、でも自分はこれを選んだ」というように、決断に、責任を負いたいから。


そして、そういう考え方からすると、クリッツァー氏の「学問は唯一無二の正解を指し示さなければならない」という考え方は、「学問がこの道しかないと言ってるんだから、それを選ぶのは自分の責任ではない」と言うように、決断に対する責任を放棄しているように思えてならないのです。

『21世紀の道徳』での3つの主張

クリッツァー氏が『21世紀の道徳』で主張している内容は以下の3つに集約されます。

  • 道徳について考える際は、「最大多数の最大幸福」を優先する功利主義に基づかなければならない
  • 人文学における議論は、人類の生物学的本質を元にされなくてはならない
  • 生物学的本質に基づいた功利主義こそが、役に立つ人文学の必要条件である。

しかし、残念ながら上記の3ついずれについても、僕は同意できませんでした。

功利主義」が些末な対立を回避することこそ、破局的な対立を生む

最初に言っておくと僕は、「世界が滅ぶぐらいだったら少女一人が犠牲になっても仕方ない」という功利主義が大嫌いな、未だにセカイ系にとらわれた人間なので、そもそも根本的に功利主義が大嫌いです。


そういった功利主義嫌いに対し、クリッツァー氏は「功利主義を使うことで、異なった価値観を持つ人・集団同士のジレンマに対応できる」と主張します。

感情に基づいたオートモードの道徳は、あくまで集団内のジレンマを解決するために発展したものであり、集団間のジレンマを対処する役には立たない。むしろ、オートモードの道徳は部族主義を加熱させて問題を悪化させてしまう可能性が高い。そのため、集団間の問題に対処するためには、感情ではなく理性に基づいた、マニュアルモードの道徳が必要とされる。

(略)

グリーンが求めているのはあくまで「違った価値観を持つ異なる集団が衝突して、道徳に関する問題について争っているときに、問題に回答を与えて解決するための道徳とは何か」という、実用主義的なものとしての道徳だ。

そして、実用主義の観点からグリーンが選択する道徳が、功利主義なのである。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.88). 株式会社晶文社. Kindle 版.

しかしここには、「異なる価値観が対立したときは、穏便に解決をしなければならない」という前提が、暗黙のうちにあるわけです。


ですが、前々回の記事で述べた通り
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ただ対立を忌避して「穏便に解決しましょうよ」と言うことは、結局現状の社会秩序を利するものに他ならないわけです。


もちろん、異なる価値観同士の対立が、戦争・紛争にまで至ってしまえば、それは絶対避けるべきものと言えるでしょう。


しかし、そうでなく、言葉や非暴力的手段によって闘争が行われている場合は、むしろ健全な社会といえるわけです。なぜなら、闘争の中で双方に接点が生まれ、その中で相互理解が深まり、また異なる価値観の混交も生まれてくるからです。


一方で、功利主義を用いて「穏便に解決」した場合、結局異なる価値観の集団同士は相互不干渉になり、社会の分断が進んでいくわけです。そして、一旦些末な闘争は抑えられたとしても、功利主義の俎上の載せられない、根本的価値観をめぐる対立が生じたときは、破局的な対立へと至ってしまうわけです。

生物学的本質が示すのは、むしろ人類の多様性では?

次にクリッツァー氏は、今までの人文学における議論は、人類の生物学的本質をあまりに無視してきたと主張します。

実際には、「人間の本性」とは「社会的関係の総和」だけではない。それぞれの人間がどんな思考や欲求を抱いてどんな行動をするかということは、社会的なものとは別の要素にも影響されている。それは、進化の歴史によってどんな人間にも生まれつき身に付けさせられることになった、生物学的な側面だ。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.24). 株式会社晶文社. Kindle 版.

そして、社会的なものとは別の生物学的側面の例としてあげられるのは、例えばトロッコ問題に対する人々の態度は文化と関係なく全人類が共有する理性に基づくと主張したり

倫理学者であり心理学者でもあるグリーンは、分岐線問題や歩道橋問題に加え、その他様々なバリエーションのトロッコ問題を被験者たちに投げかけて回答させる、という実験をおこなった。すると、分岐線問題ではレバーを倒すという判断をした人が多かったのに対して、歩道橋問題では太った男を突き落とさないという判断をした人のほうが多かったのである。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.104). 株式会社晶文社. Kindle 版.

男性と女性では脳の性質が異なると述べたりするわけです。

発達心理学者のサイモン・バロン=コーエンは、著書『共感する女脳、システム化する男脳』のなかで、男性の「対物志向」と女性の「対人志向」について「システム化思考」と「共感思考」の違いという枠組みからまとめている。

「システム化」とは、物事の背景にあるシステムを分析して、そこに存在するパターンや規則を発見してコントロールしようとしたり、自分の手でシステムを構築したりしようとする傾向のことだ。「共感」とは、自分とは異なるだれかがなにを感じていてなにを考えているのかを知ったうえで、それに応じた適切な感情を自分に発生させることである。

(略)

そして、男性の思考は平均的にみてシステム化に偏っており、女性の思考は平均的にみて共感に偏っている、と彼は論じるのだ。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (pp.147-148). 株式会社晶文社. Kindle 版.

ひとまず、上記の議論が生物学において証明されたと仮定しましょう。


しかし僕が思うに、上記の議論が示すのは、「生物学が示す人間の本質」などではなく、むしろ「生物学が示す人間の多様性」であり、「全ての人間に共通する本質なんてものはない」ということに他ならないのでは、ないでしょうか?


例えばトロッコ問題に対する態度にしても、「どんな文化圏でも○○を選ぶ人の方が多かった」というのは、逆に言えば、どんな文化圏でもその多数派とは違う見解を示す少数派がいるということに他ならないわけです。このとき、多数派の選ぶものを指して「これが人間の本質だ」と言うのなら、では少数派は人間ではないのでしょうか?


このことは、男脳・女脳の例に対しても言えます。クリッツァー氏はジェンダー学を盛んに攻撃しますが、ジェンダー学の最も重要なテーゼには「セクシャリティはグラデーションである」ということがあります。

仮に、「システム化思考」と「共感思考」が点数化できるとし、男性の平均値がシステム化思考70点・共感思考30点、女性の平均値はシステム化思考30点・共感思考70点であるとしましょう。しかし実際は、全ての男性女性が平均値に収まっているわけではなく、男性の中にも平均より更にシステム化思考が強かったり、逆にシステム化思考が弱くて共感思考の方が上回っている人も居るわけです(女性についても同様)。


とするなら、そこから得られる結論は、「男/女はみんな○○」というようなものではなく、むしろ「個々の特性に合った対処をなされるべきで、『男だからこう対処すべき』『女だからこう対処すべき』みたいなことは言えない」ということなはずなわけです。


もちろん、上記のようなことはクリッツァー氏も理解しており、以下の様な注釈をつけています。

上述した議論はあくまでも男女それぞれについての統計上の平均値に関するものであり、「すべての男性はシステム化思考をしており、すべての女性は共感思考をしている」という主張がなされているわけではない点には充分に留意すべきだ。「男女には平均的な傾向の差が存在している」という主張は、いかなる意味でも生物学的決定論ではない。

ベンジャミン・クリッツァー.21世紀の道徳(p.150).株式会社晶文社.Kindle版.

しかしそうだとしたら、そもそも「生物学的に男性/女性はこうだ」と言うことが出来ない以上、やはりジェンダー問題において生物学を参照すべき点はどこにもないということになってしまうでしょう。


更に言うと、クリッツァー氏は本の中で盛んに「普通の人なら○○と考えるはずだ」ということを述べ、そしてそこから○○を前提として議論を進めますが、それはまさしく「普通の人」だけのことを考えていればそれでいいという、「普通の人」優越主義に他なりません。


しかし、今の世の中で求められているのは、いかに「普通じゃない人」を包摂した社会を構築することなわけです。例えば、ユニバーサルデザインや「やさしい日本語ニュース」といったのもその一例です。日本の識字率を考えれば、漢字交じりの日本語ニュースでも、普通の人は十分カバーできます。しかし、やさしい日本語でニュースを伝えれば、日本語を母語としない人や、識字教育を受けられなかった人でもニュースを受け問えることが出来る。今の世の中はこのように、「普通じゃない人」も包摂する形で進歩しつつあるわけです。


そんな中で、哲学・倫理学の議論だけ、「普通の人」のみを対象にして行われるなら、そのような学問こそまさしく時代に取り残された、役立たずの学問となってしまうでしょう。

「役に立つか」という問いは、そんなに重要なものなのだろうか

さて、ここで僕は「役立たずの学問」と、皮肉を言いました。なぜならクリッツァー氏は著書の中で、「人文学は、自らの有用性を主張しなければならない」と盛んに主張し、そして人文学が役に立つためには「生物学的本質に基づく功利主義」を採用することが必要だと主張するからです。


しかし、僕はよく分からないんですが、なんでそこまで「役に立つかどうか」を説明しなきゃならないんでしょう?クリッツァー氏は橋下氏の人文系批判を例に出しながら、人文学者はこのような批判にきちんと回答してこなかったと言い、次の様に述べます。

そもそも、相手はなにも「人文学には価値がなくて役に立たないのであれば、人文学は存在してはいけない」とまで主張しているわけではない。大半の場合は、「他のところにもまわせる公金を人文学にまわせというなら、それを正当化するだけの価値が人文学にあることや、人文学がなんらかの役に立つことを示せ」と要請しているだけなのだ。先述したように、これ自体は真っ当な要請である。そして、人文学だけが「『価値』や『役に立つ』を云々することは特定の主義に基づいた発想であり悪質な思想に直結するので、その質問には答えません」と回答を拒否できる道理はないのだ。

ベンジャミン・クリッツァー.21世紀の道徳(p.42).株式会社晶文社.Kindle版.

要するに「人文学が役に立つことを証明できなきゃ、予算を削減しますよ」というわけです。


なるほどこれは、大学などで職業として人文学を研究している人なら死活問題かもしれません。ですが、逆に言うとそれだけの話です。別に大学で国からお金をもらわなくても、人文学的に素晴らしい研究をしているひとは山ほどいます。僕だって別にこのブログを国からお金もらって書いているわけではなく、僕がこのブログで人文っぽいことを書くのは、ただ単に「楽しいし、それが自分にとって必要だと思うから」であって、役に立つなんてこれっぽっちも思っていません*1


要するに、「人文学が役に立つか」なんて問いに答えられなくても、せいぜい大学の先生たちが路頭に迷うぐらいで、人文学の本質とは全く関係ないのです。しかしクリッツァー氏はそういう枝葉の問題を本質と勘違いしているが故に、下手な人生訓みたいな話を無理矢理人文学の議論に繋げているように、思えてならないわけです。

やっぱり、「言い訳」を求めているようにしか思えない

結局、クリッツァー氏の議論の問題は、人文学、というか学問を「それに従っていれば自分が自分の人生に責任を負わなくて済むご神託」と思い込んでいることに他ならないように思えます。


人文学にそのような役割を求めていながら、人文学で言われている(とクリッツァー氏が理解している)ことに従っても、自分の人生が幸福にしてくれなかったことに腹を立て、「僕の人生を幸福にしてくれない人文学は間違ってる!人を幸福にするのが真の人文学なはずだ」と思い、無理矢理「最新の研究に基づけば人生はこう生きるべきである」という話をしているわけです。


ですが、結局人間とは一人一人全然違う生き物である以上、「普通の人だったらこう生きれば幸せな生き方」が、自分にとっては全然不幸な生き方だったりするし、逆に「普通の人からしたら不幸な生き方」に見えても、その人にとっては幸福な生き方だったりすることが多々あります。
だから、人文学は答えを絞らず、「多様な幸せのあり方」を提示するわけです。


ただ、それがミスマッチを起こすことも多々あるわけで、クリッツァー氏は「普通の人からしたら不幸な生き方」が幸せであるとする、人文学の議論に騙されて不幸になってしまったから、人文学は「普通の人だったらこう生きれば幸せな生き方」こそを主張するべきだと言うわけですが、実際は僕のように「普通の人からしたら不幸な生き方」が幸せだったりする人もいるわけです。そして、人文学ってどっちかというとそういう「普通じゃない人」向けの学問な訳で。


そう考えると、クリッツァー氏はそもそも人文学に出会わなければ良かったのかも知れません。


しかし、そもそも人文学でなくったって、「こう生きていれば幸せになる」なんてことが断言できる学問・思想なんてないわけです。「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの有名な言葉がありますが、自由であるからこそ、自分の選択に責任を負うのは自分しかいないわけです。それこそトロッコ問題を例に出せば、1人殺す方を選ぼうが5人殺す方を選ぼうが、それを選ぶのは結局自分の自由意志なのです。例えどんなに「功利主義の理論に従えばこうするのが正解なはず」と言い訳したって、選んだのは自分であり、その責任は自分で負うべきなのです。

僕が人文学を学んで得たのはそのような覚悟でした。そういう身からすると、クリッツァー氏のこの本における議論は、人文学に「人生の言い訳」というないものねだりをしているようにしか、思えません。

その他、気になった点

第2章

企業にせよ国家にせよ、それどころか家計をやりくりする主婦やお小づかいをもらった小学生であっても、限られた予算を何に使用するかを判断するときには、生産性や効率や効用などを考慮しながら「役に立つかどうか」を検討するものだろう。そのような行為は、なんらかの「主義」に影響されたものではなく、どんな社会においても大昔からおこなわれている普遍的な営みなのである。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.41). 株式会社晶文社. Kindle 版.

贈与経済とかちょっと勉強すれば、「どんな社会においても大昔からおこなわれている普遍的な営み」とか言えなくなると思うよ。

また、すでに人文学を専攻している大学生や、入学を検討している中高生などは、自分たちが学ぼうとしている学問の価値について学者たちですらまともに答えられていない姿を目にすると、「こんな学問を勉強することにほんとうに意味はあるのか?」という疑問を抱いてしまうはずだ。

ベンジャミン・クリッツァー.21世紀の道徳(p.52).株式会社晶文社.Kindle版.

うん、そこで疑問を抱いて引き返すなら、多分引き返した方が身のためだと思う。

また、社会学政治学などの学問では、それぞれの問題意識や考え方に即したかたちで「差別」という言葉が定義付けられている。
しかし、ここではあえてシンプルに言い切ってしまおう。差別とは「不合理な区別」、あるいは「正当な理由を持たない区別」だ。逆に言えば、合理的な区別や正当な理由を持つ区別は差別ではなく、ただの区別である。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.57). 株式会社晶文社. Kindle 版.

うん、古今東西の差別を肯定する人たちは常にこう言ってきたね。「これは差別では無く区別だ」と。

もちろん、18歳以上であっても、すべての人が投票をする際にそのような複雑な能力を駆使したうえで判断しているとは言えないかもしれない。だが、すくなくとも、5歳の子どもには投票を適切におこなうための政治的判断を下す能力がないことはほぼ確実だ。だから、5歳の子どもが選挙権を持たないことは、正当な理由に基づいた「区別」なのである。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.58). 株式会社晶文社. Kindle 版.

「投票を適切におこなうための政治的判断を下す能力がない」ことを持って選挙権を剥奪したら、「黒人にはそのような能力は無い」「女性にはそのような能力は無い」「無産階級にはそのような能力は無い」と言って選挙権を剥奪することが可能になります。だから、能力では無くて権利が重要なんです。

第五章

感情より理性を優先すべき理由として「進化論的暴露論証」というものを紹介しているが、この説明がいまいちよく分からない。

感情は通常の状況に適応するために生まれ、理性は例外的な状況に適応をするために生まれた。だから、例外的な状況には理性で対応すべきだというのは、「理性は例外的な状況に対応するために生まれたのである」という事実から「例外的な状況に対応するときは理性を用いるべきだ」という規範を導く点で、典型的な自然主義的誤謬に他ならないのでは?

第7章

教育や表現を通じて個々人のなかで「役割」や「らしさ」はどのように構築されていくか、という過程についての具体的な説明には欠けているのだ。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.145). 株式会社晶文社. Kindle 版.

とりあえず「ベビーX実験」とかから検索してみましょう。

第9章

  • これまで散々功利主義を擁護しながら、その反対側に位置するカントを引くことに、自己矛盾を感じなかったのだろうか
  • ロマンティック・ラブ・イデオロギーって、別に「恋愛感情が全て社会的構築物だ」と主張しているわけではなく、その恋愛感情が、一夫一妻制や、「男が女を守る」という騎士道精神をまとうことを指し示す概念なんだけどなー。本当はきちんとギデンズとか読んで欲しいけど、とりあえず↓読んで

  • ロマンティック・ラブ・イデオロギーとリベラルな恋愛観(カジュアル・セックス)が対立するとき、双方のバランスを取るのが重要とクリッツァー氏は主張するけど、リベラルな恋愛観は「ロマンティック・ラブ・イデオロギーに基づく恋愛を行っても良いけど、そうでない恋愛をすることも否定できない」と言ってるわけだから、別にバランス取る必要ないでしょ。社会的にはリベラルな恋愛観を採用し、その中で個々人がロマンティック・ラブ・イデオロギーを選択したり、あるいはカジュアル・セックスを選択すれば良いだけで。

第10章

「死の床に就いたとき『自分は間違っていた』と思う人生は間違った人生」となぜ断言できるんだろう。人生においては、それぞれの瞬間に、その瞬間を生きていた自分がいるわけで、それら複数の自分の中で「死の床の自分」だけがなぜ全体を評価する特権を持つと言えるのか?

*1:だからこそ、このブログは「役に立たないことだけを書く。」