あままこのブログ

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バックラッシュ上等ですが何か?

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御田寺氏については以前も
amamako.hateblo.jp
で批判しましたが、相変わらず「インテリが気に食わない俺たち」を慰撫して、信者を集めているみたいですね。


で、この記事の著者の倉本氏は、そんな御田寺氏について

そこに、「リベラル派の理想に擬態した単なるインテリのエゴ」を決して通さず、社会の絆を崩壊させずに、「具体的な改善」だけを選択的に通す「選別膜」のようなものを作っていくことが必要なんですね。


つまり僕が主張したいことは、


リベラル派にとって「ガチの極右勢力」は確かに不倶戴天の敵かもしれないが、「白饅頭防衛線」みたいなものとは、発展的にお互いを利用し合う形に決着する必要がある対象であるはずなんだということ


(略)


彼は「欧米由来の一方的な正しさ」を徹底的に相対化しようとする言説を一貫してすることで、この「インテリの言うことなんて絶対聞いてやらねーからな!!」というモンスタームーブメントが止められなくなってしまう悲劇をギリギリのところで止めようとしている存在なのだ


(略)


先日の対談でも御田寺氏が力説してましたが、そこを無理にインテリ側の事情だけで押し切ってしまうと、アメリカで妊娠中絶の権利が危うくなったりレベルじゃなくて、それこそタリバンレベルのバックラッシュを誘発してしまえば、もうそこでは「欧米的理想」が完全に吹き飛んでしまった社会になってしまうからですね。

とか言って賞賛しているわけです。要するに、「リベラルなインテリの主張を推し進めていたら、それに反発する大衆のバックラッシュが来てもっと事態は悪化する。だからリベラルは、御田寺氏=白饅頭のような反リベラルの気持ちに寄り添い、それを満足させる視点を持たなければならない」というわけです。


ですが、それに対して僕ははっきりこう言いましょう。


「正しいことを行ってバックラッシュが来るんだったら、そのバックラッシュとは戦う以外の選択肢はないでしょ。バックラッシュ上等!それを恐れる必要がどこにある?」と。

正しさへのバックラッシュがない状況とは、それだけ不正義が蔓延しているってだけのこと

倉本氏は、妊娠中絶を巡り、リベラルと保守の対立が激化しているアメリカや、女性の権利を擁護しようとする運動とイスラム原理主義運動が対立するイスラム圏などを例に、「ああいう国・地域で起きているような対立が日本で起きたら嫌でしょ?」と言い、バックラッシュが起きない状況こそが健全だと言います。


しかしはっきり言いますが、それらの国でバックラッシュが起きているのは、正しいことを行おうとする人たちが居て、きちんと声を挙げているからなんですよ。逆に言えば、日本でそういうバックラッシュが起きてないと、もし見えるとしたら、それは正しいことを行おうとする人たちそのものが存在しないように、思わされてるからなんです。


要するに不正義が社会全体に蔓延していながら、それに対して人々が誰も文句を言っていないという状況。「バックラッシュが起きていない平和な日本」とは、そんな地獄のことなのです。


ここで注釈しておくと、「バックラッシュが起きていない平和な日本」とは、実際は虚像に他なりません。今のようにインターネットで対立が可視化される以前から、多くの人は「正しいこと」を行うために戦ってきましたし、更に言えばそれに対するバックラッシュも多々あったわけです。だからこそそのものずばり『バックラッシュ!』

という本が出版されるほどには。


そして、正しいことが実現されることを求める人々は、そういったバックラッシュと戦い、時に勝ち、時に負けながらも、この日本社会で正義を貫こうとしているわけです。

「言葉には出来ないけど僕の気持ち分かってよ」なんて甘えが許される社会こそ、不健全である

いちおう言っておくと、僕がここで批判しているのは、「正しいこと」をなそうとしている人たちに対して、ただ「正しいことを押しつけるな!」と反発するバックラッシュであって、「あなたたちの言う正しいことは間違っている。別の正しさがあるはずだ」という反論は、また別です。そういう反論に対しては、個別具体的に応じ、「ではどちらの正しさが正しいのか」ということを、討議する必要があるでしょう。


しかしここで御田寺氏は次のように言うわけですね。

現時点で言語化可能なメッセージだけが重視される社会になると、言語化能力がある人の権利だけが無制限に通る反面、自分が生まれ育った環境にいた仲間や、肉体労働者のように”言葉を持たない”存在の権利は徹底的に軽んじられる社会になってしまう。その不均衡を是正することが必要だ。

要するに「自分たちの要求を言葉には出来ない人たちもいるんだから、そんな人たちのことも分かってよ!」と言うわけです。


ですが、「言葉にせずとも分かってくれ」なんていうのは、まさしく言葉なんか使わなくても自らの特権を保持することができる立場の傲慢に他ならないわけです。つまり、言葉を使って自分の要求する権利が正当であることを証明しなくても、元々自分たちの特権が自明のものとなっているから、そんなことが言えるわけです。


一方で、今まで虐げられてきた人々は、「言葉」を使うからこそ、初めて特権を持った支配層と戦うことができるわけです。なぜなら、言葉というものは、現実の権力構造とは関係なく存在しているからです。


暴力や資本と言ったものは、現実の権力関係によって独占されます。しかし言葉は誰もが平等に持っていて、それを行使することが可能なのです。例え現実にどんなに基本的人権が無視され、不平等が放置されていても、言葉の上では「基本的人権は万人が持っている権利だ」「人はみな平等である」と言うことができるのです。


誰も「言葉」を独占なんかしていません。例え今言葉を知らなくても、それこそ図書館にでも行けば、無料で言葉を知る方法なんていっぱいあるわけです。にもかかわらず「言葉」を使って自らの権利を主張しようとしないのは、結局その主張が言葉で擁護できない不当なものであることに気づいているからなのです。そして、「言葉」を使えば、自分たちの主張が不当なものであると暴露されるからこそ、「言葉なんか使って討議するのではなく、穏便に解決しようよ」とか言って、現実にある抑圧を隠蔽しようとするのです。

「義理」「当事者意識」とは、人々を縛り付ける奴隷の重りに過ぎない

上記の記事で倉本氏は、「義理の連鎖」とか「本能レベルでの紐帯」とかいう言葉を使って、とにかく「今ここにある社会」を肯定しようとします。そういう言葉は、まさしく倉本氏や御田寺氏の議論を読んで、「やっぱりフェミとかリベラルとかの言うことはおかしいよなー」と溜飲を下げる、既に特権を持っている人間からすれば、まさしく願ったり叶ったりでしょう。


僕は、それ自体は、「うわー醜い傷のなめ合いしてんなー。見てらんないなー」という風に思いはしますが、別に気にしません。そういう不正義にあぐらをかいた特権を持った連中がどんどん愚かで醜くなっていくのは、彼らの自己責任だからです。


僕が頭に来るのは、そういう特権階級向けの現状肯定だけやってればいいものを、「今ここにある社会」の不正義によって、虐げられている人たちに対して、「いや君たちが暴れたらもっと状況はひどくなるよ」とか言って、言葉で社会を変えることなんて無意味だと、ペシミズムを植え付けてこようとすることです。


何度も言いますが、バックラッシュを経験せずに変わった社会なんて、有史以来存在しません。フェミニズム運動も、奴隷解放運動も、公民権運動も、障害者運動も、どれもどれも強烈なバックラッシュを受けてきました。そしてそういうバックラッシュを受けて、「このままじゃ自分たちの権利が更に悪くなってしまう。ご主人様の機嫌を損ねてはいけない」と、上記の記事のようにささやいてくる声も多々あったわけです。


ですが、社会を変えてきたのは、そんな声に対して「バックラッシュ上等!徹底的に戦ってやるよ!」と言い、毅然と戦いを続けた人たちなのです。