あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

2021年、改めて「駄サイクル」について考える

ta-nishi.hatenablog.com
上記のスペースを聞きに行くかはまだ特には決めていないんですが、そういや昔僕『ネムルバカ』

のこと大嫌いだったなー。『ヨイコノミライ』の「自称批評家さん」のコマ
amiyoshida.hatenablog.com
ぐらい大嫌いだったなーと思い出し、でも今となっては正直内容思い出せないことに気づいて再読してみました。
すると、なんで昔このマンガがそんなに嫌いだったかを思い出して、ついでに今読むと全く別の読み方もあるなということに気づいたので、ここに書いておくことにしました。

駄サイクルを作るにも才能がいる

まず、そもそも僕は「駄サイクル」という言葉が揶揄として使われるのが大嫌いだったんですね。その理由を一言で言ってしまえば、「そんな駄サイクルの中にさえ、入れない人が居るんだぞ……」という気持ちです。
特に僕のようなトコトン人付き合いが苦手な人からすると、「あるコミュニティの中で、常に周りがどんなことをやっているか気にかけ、そしてそれぞれの活動に社交辞令を送り合い続ける」って、どんだけ高等技能なんだよ、そんな高等技能を持ってるなら絶対活かしたほうがいいじゃんと、思わずにはいられないんですね。
もちろん人付き合いが苦手でも、多くの人が出来ない技能を持っている、例えば絵が描けたり音楽ができたり声がきれいだったりすれば、自然と取り巻きが集まって、駄サイクルを形成することができるのでしょう。ですが、コミュニティの中で周りに気を配るコミュニケーション能力もなければ、特殊な技能もない人間は、駄サイクルに入ることすらできずに朽ちてゆくしかないのです。
だから、そういう視点からすると、「駄サイクルなんてだっせーよなー」というネットの風潮は、まさしく才能あるものの傲慢にしか思えなかったし、それに騙されて、せっかく駄サイクルの中で幸せで居られる才能があるのに、そこを抜け出して苦しむ若者とか見たくない!と思うわけです。だから、「駄サイクル」という言葉が、僕は本当に大嫌いでした。

「才能がある/ない」ではなく、「自分に合う/合わない」こそが問題だった

しかし、今あらためて読むと、駄サイクルっていうものが嫌がられる理由も、少しは分かるんですね。ただそれは、当時ネットで「駄サイクル」が揶揄された理由とは別の理由からです。
当時ネットで駄サイクルが揶揄されたのって、そうやって駄サイクルの中に居続けると、生み出す作品の質もどんどん落ちていくからという、作品至上主義からだったと思うんです。それについては、僕は今でも「作品の質が幾ら落ちようが当人たちが幸福ならそれでいいじゃねーか」と、否定的です。
ただ、それとは別に、駄サイクルって、それが回るコミュニティに完璧に同化できれば良いんだけど、そこに同化しきれない「私」というものがあると、途端に苦しいものとなってしまうという問題が、あるんですね。そして実はこっちの問題意識こそが、『ネムルバカ』がなぜ駄サイクルという概念を生み出した理由なんじゃないかと、思い至ったのです。
そもそも、作品中において「駄サイクル」と名指しされた仲崎のお店ですが、あそこがなんで嫌な感じがするかといえば、それは端的に仲崎がとことん「浅い」やつだからですよね。文化的な知識も浅ければお行儀も悪く、にもかかわらず態度は尊大、なのにそんなやつにおべんちゃらをはかなきゃならないなんて、僕だって嫌ですよ。
で、それに対して鯨井は、「そういう駄サイクルの中にいると自分が才能があると勘違いしてしまう」と言って、入巣もそれに納得するわけですが、いやいや、あそこで感じた嫌悪感ってそんな立派なものでないでしょ。ただ単に仲崎とその周りの連中が、入巣にはトコトン合わない人間だったってだけで、そこで「才能がある/ない」って、そんなに関係ないじゃんと。
ではあそこで鯨井がなんでわざわざ「才能があると勘違いしてしまう」なんて話題に持っていったかといえば、それは鯨井の焦りなわけです。いつまで立ってもデビューできない自分に焦って、そこで「駄サイクルみたいなものに自分がハマりかけて才能を摩耗させているからではないか」と勝手に思い至り、駄サイクルを否定することでなんとか「苦しい努力を厭わない自分」という自己認識を形成しようとしている。
でも、じゃあそうやって「駄サイクル」みたいなものを忌避した結果どうなったかといえば、メジャーデビューは出来たけど、今までの仲間とは切り離され、プロデューサーの作り上げたイメージに沿った役割を演じさせられることになってしまうわけです。いちばん重要なのは、「才能がある/ない」なんかではなく、「自分に合う/合わない」だったのだと、それに気づいた結果が、まさしくあのラストのライブなわけです。

駄サイクルとエコチャンバー問題

ただ、そういう作品の読みとは全く別のところで、2021年という時代から見ると、駄サイクルというものはまた別の問題をはらんでいるわけです。
この漫画が公開された2008年当時は、そうやって駄サイクルの中で相互に褒め合ってても、困るのは当人たちだけでした。
しかし2021年の現代、そういう「閉じたコミュニティー」は、実は社会においてとても危険な「エコチャンバー」となってしまうのではないかと、危惧されているわけです。
kotobank.jp

《echo chamberは反響室の意》SNSにおいて、価値観の似た者同士で交流し、共感し合うことにより、特定の意見や思想が増幅されて影響力をもつ現象。攻撃的な意見や誤情報などが広まる一因ともみられている。

オンラインサロン問題
www3.nhk.or.jp
とかもまさにそうで、「駄サイクル」にのめり込んで青春を無駄にするぐらいならいいけど、そこで実際に大量の金銭を払ったり、自分の進路を棒に振るみたいなことが起きるのは、当然よくないわけで、むしろ現在のほうが真剣に「駄サイクル」が社会問題となってしまっているのです。

でもやっぱり逃げ場所も時には必要になる

しかし、じゃあそうやって社会問題にまでなるような「駄サイクル」をやっぱなくしていくべきものなのかというと、それも難しいところで……
例えば僕は、あるバーチャルYouTuber*1の「メンバーシップ」というものに入っていた時期がありました。メンバーシップとは簡単に言えば、月数百円〜数千円のお金を払うことにより、専用のスタンプが送れたり、その会員限定の配信などをしてくれるものです。まあ、ぶっちゃけて言いますが、オンラインサロンとかと基本はおんなじです。
でも、実際「ある程度自分に対してお金を払ってるユーザー向けの配信」って、誰でも見れる配信よりバーチャルYouTuberには気が楽みたいで、実際そういうメンバーシップ限定の配信で、公開の配信ではちょっと言えないような、弱音だったり愚痴とかを話されることも多いんですね。で、メンバーシップを払ってる人は、当然その子のファンですから、励ましてあげるわけです。
これも言ってしまえば「駄サイクル」だし「エコチャンバー」なわけですよ。でも、じゃあそれが否定されるべきかといえば、少なくとも僕は「それで元気になってくれるならいいじゃん」と思うわけです。逆に、こういう場が全てなくなって、全てが公開の場で競われるような環境が健全かといえば、それもそれでグロテスクでしょう。
だから、「駄サイクル」をどう考えるかって、本当はとてもむずかしい問題なんです。

駄サイクル云々より、それで「自分」が傷つかないかということこそ、真に重要なのでは?

ただ一つ言えるのは、駄サイクルであれ社会の仕組みであれ、「自分」というものを抑圧し、無理やり型にはめようとする空気には、従わない方がいいということです。
駄サイクルが、自分にとって癒やしになるというなら、外部がどんなにそれを揶揄しようが存分それに浸かっちゃえばいい。でも、そこで「駄サイクル」にはまれない「自分」というのもあるかもしれない。そういう自分を見つけたときこそ、駄サイクルを卒業するタイミングなわけで、他人の揶揄云々より、まず自分の内なる声を第一に信じようと、とりあえず今の僕が言えるのは、それだけですかね。

*1:具体的にいえば、御伽原江良なんだけど