あままこのブログ

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キズナアイの騒動に寄せて―アンビバレンツな態度をいかに保つか

なんかものすごく久しぶりに記事を書く気がします。あままこです。 今ネット上では、NHKのニュースサイトにキズナアイが登場し、その登場の仕方が問題あるのではないかとか、そうやって社会学者が「ポリコレ」を盾にいちゃもんをつけるのこそ問題だ、という感じで、論争が巻き起こっていますね。

で、まずこの論争に対する僕の意見はというと、まあ、荻上チキという評論家の人*1TBSラジオの番組で述べていた意見 www.tbsradio.jp と大体同じ感じで、「キズナアイの記事にはジェンダー的な問題があるから、それに対して議論をすることはいいことで、『騒ぐ方がおかしい』と一蹴するのはおかしい。」というものです。

さらに言えば、ジェンダー的な問題とは更に別に、「こういう解説記事で、聞き役にバカを演じることが強いられる」ということも問題だと思っています。これに関しては、twitterで意見を連投したのでそれを転載しておきます。

僕の、今回の論争の発端となった記事への意見は、だいたいこんな感じです。

論争の議題より、それに言及する人々の態度が気になる

もちろん、これはあくまで僕の意見であって、これに反対する人はまた別の意見を持っているでしょう。それ自体は至極健全なことだし、どんどん論争をして、意見を戦わせればいい。

ただ、今回の論争を見てて思ったのは、そういう「議論」を行うこと自体が、実は人々に嫌悪されていうるのではないかということです。

実際、今回の論争では、明らかに揶揄するために、相手の主張を曲解して、「マスメディアに女性が登場するときはヒジャブでもかぶらないと駄目ってことですかー」みたいなことを言ったり、最初に議論を提起した弁護士の太田啓子氏とか、社会学者の千田有紀氏とかの個人攻撃・人格攻撃に走ったりする人が、あまりに多かったです。まあ、ネットは広大ですから、そういう汚いことをする人が一部に居るのは仕方ないと思えますが、しかしそれが万単位でRT・ふぁぼされたりするのは、やはりおかしいように思えてなりません。

さらに言えば、そういう揶揄・誹謗中傷は、ごく普通の人によって行われてるんですよね。もしこれが自分と全く関係ないネトウヨ連中とかが行っていたんなら、そんなにショックではなかったですが、普通に同じアニメやゲームを楽しんでいて、「あ、この人と趣味合うんだな」と思っていてフォローしていた人や、実際にオフ会で会って趣味の話題を楽しくしたような人が、この話題になるととたんに豹変して、先程のような揶揄・個人攻撃をRT・ブクマしたり、自らそういう揶揄・個人攻撃をおこなったりする。そういう光景には、とてもショックを受けました。

ただ、ショックを受けてるだけではどうにもならないので、色々考えをめぐらしていると、そもそもこういうふうに「議論を提起する」、「異議申し立て」をすること自体が、ごく普通の一般の人にはとても不快で、自分たちの周りから撃退すべき侵襲者として認識されるのかもしれないなと、思うようになったのです。

「当たり前を疑う」ことの苦痛

僕は昔、社会学という学問を勉強し、大学院の修士課程まで行きました。将来は研究者を目指していたんですが、精神の不調とか色々ありまして、ドロップアウトした人間です。

で、社会学―というかこれは人文・社会科学全体で言えることだと思うんですが―という学問に入門して、まずはじめに叩き込まれることは、「当たり前を疑う」ということです。例えば学部1年生が受けるような社会学の入門講座では、まず「世間ではこういうことが常識になっているけど、それは実は違うんだよ」ということをとにかく教えまくります。少年犯罪や外国人犯罪が増加。凶悪化してるって言われてるけど、それは統計のトリックだというものや、専業主婦というのは保守すべき伝統でも何でもなくて近代に構築されたものだとか、ニートやパラサイトシングル・引きこもりは個人の甘えが原因ではなく社会構造の変化が原因だというものまで、とにかく、世間一般で言われている常識・通説が、本当は「当たり前」のものではなく、社会的に捏造されたものであり、そうではない事実・考えもあるということが徹底的に教え込まれるわけです。

もちろん、それはあくまで入門段階のことで、実際にどんどん勉強していくと、「当たり前のものじゃないんだけど、それを当たり前として扱うことによって今の社会は回ってるよね」というような話も出てくるわけですが、ただそれにしても基本は「当たり前のことは当たり前でない。常に、『それって本当なの?』と疑問に思うことが大事」というのは、あらゆる社会学者のマインドセットの基底にあるものなわけです。 (なぜ、そうなったかといえば、それは1960年代の異議申し立て運動があり……というような話をしようと思ったが、そんな社会学史の初歩は、社会学研究者ならとうに知っていることだろうし、そうでない人にとっては興味ないだろうから割愛)。

ただ、当時の僕も含め、多くの研究者が忘れがちなんですが、そうやって「当たり前を疑う」ことって、多くの人にとっては、とても苦痛を伴うものなわけです。

研究者はいいんですよ、そもそも、これだけ人文系研究が厳しいって言われてる中で、それでも研究の道に進もうなんて考えるような人は、最初っから「この社会、なんか違和感がある」と思っているから、敢えてそれを探求するようにその道を選んだような人ばっかりですから。そういう人にとっては、「当たり前を疑う」ことってむしろ楽しいことです。

でも、多くの人はそうではない、当たり前のことは、当たり前として受け取り、そしてその中で、日々の日常に楽しみを見つけ、生きているわけです。そんな中で、突然「それは当たり前ではない、常識を疑いなさい」と言われることは、苦痛以外の何物でもない。

僕がそれに気づいたのは、研究者への道をドロップアウトして、働き始めてからでした。毎日毎日、朝から夜遅くまでずっとパソコンに向かってコード書いて、で家に帰ったらご飯食べて寝る、そして合間に、短時間で済むような娯楽を楽しむ。そんな生活をずっと送っていると、もうできる限り余計なこと考えたくなくなるわけです。アニメとかゲームとか動画とか見るんだったら、いちいちそこに、隠された差別構造があるのではとか考えるより、ただぼーっと笑ってみていたい。可愛い女の子とか見たら余計なこと考えずただ可愛いと言っていたいと、そんなふうに思うようになるわけです。

もちろん、それが堕落だっていうことは分かっています。ていうか、僕がそうやって当たり前のことを当たり前として受け取って、それでなんの疑問も持たずに楽しく生きて行けているのは、結局僕が、多少心根がひねくれていたとしても、日本国籍を持ちエスニシティも、いわゆる「日本人」、有職者で貧困にあえいでもおらず、ジェンダーも、生物学的性;男性・性自認:男性・性的指向異性愛というマジョリティかつ強者の側であるからなわけです。そういう人たちが「当たり前」を社会に押し付けることによって、マイノリティを抑圧することによって利益を受け取っている。まあ、実際はもっと複雑だとしても、基本的な構図としてはそういうふうに、他者を踏みつけた上で「当たり前の日常の幸せ」を受け取っているわけです。

ただ、そういうふうにその幸せが他者を踏み台にし、抑圧した上で得られるものだったとしても、それが「幸せ」であることに変わりはありません。「当たり前のことを当たり前に受け取れる」ことが幸せである以上、それに対して「当たり前を疑え!」と言ってくる社会学者は、結局どう言い繕っても、幸せな日常を壊す、破壊者・侵襲者でしかなく、多くの人にとっては、そんな存在とは議論の価値すらない(議論に乗れば、その時点で「当たり前を当たり前として受け取る」幸せは崩れてしまうのですから)、ひたすら自分の周りから排除すべき対象となるわけです。

だから、千田有紀氏が現在ひどいバッシングを受けていることも、決しておかしなことではなく、むしろ社会の当然の反応なわけです。

(ただ、もしそうであるならば、今のネット上での千田由紀氏に対するバッシングは、社会学、というか人文社会科学全体へのバッシングとも言って良い訳で、別に千田氏を擁護しろとまでは言いませんが、一部の(特に計量系の)社会学者や人文社会学者が、そのバッシングの波に乗って千田氏を攻撃してネットの歓心を集めているのを見ると、「その刃が将来自分に向かってくるとなんで気づかないんだろうな」とは思いますけどね。ま、僕はドロップアウトした人間ですので、どーでもいいですが。)

アンビバレンツな態度をいかに保つか

では、一体どーすればいいのか。

社会の側が反省し、「今まで『これが当たり前だから』という理由で、色々な異議申し立てから目をそむけてたのは間違いでした。改めます」という風になるのが一番正しいです、が、先程述べたように、そんなの実際は実現不可能でしょう。

では、もはや社会学は社会に対する異議申し立て・提言から撤退し、象牙の塔にこもって内輪で議論をしてればいいのか。おそらく、今のネットの大多数が望んでるのはそれで、社会学者の多くも、本音を言えばそれでしょう。実際、社会学者の中には「一般向けの本なんかを書いたりメディアに露出している暇があったら学術雑誌に論文を出したり学会で発表しろ」という風潮があり、それは年々強くなっています(だから古市氏なんかもう、社会学業界の内輪ではパブリック・エネミー扱いだったり)。

ただ、例え社会学が社会に対する提言・異議申し立てから撤退したとしても、それで、現在の社会に対する異議申し立てがなくなるとは思えません。一旦「当たり前のことが当たり前でないこと」がばれた以上、例え社会学がやらなくても、より一層過激な形で、それを担う運動は出てきます。しかも、それはもはや「学問」ではありませんから、手段を選ばない運動となるでしょう。

そして訪れるのが、終わりなき闘争が行われる「公共圏」です。「棲み分けが行われるようになるから、やがて今のような対立は終焉する」と楽観視している人もいるみたいですが。だったらなんでキズナアイは棲み分けされた「Youtube」から出てきて、公共の代名詞のような「NHK」に出てきたのか?

結局、僕らは「自分の当たり前の世界を壊してくる他者」から逃げることはできない。なぜなら自分たちがそうだから。僕らみんな、被害者であると同時に、加害者なんです。

大事なのは、そこで居直らないこと、一方で、過度に深刻に受け止めないこと、また、訴える側も、そのようなアンビバレンツを許容することなのでは、ないでしょうか。

例えば、今、昔の映画やドラマ、バラエティを見ると、その当時は当たり前だった、差別的な描写に嫌な気分になることは、誰しも経験があるでしょう。

でも、だからといってそのような作品が今見たら全く見るべきないところがないつまらない作品かといえば、そうではないわけです。「当時の時代の限界はあってそこは嫌だけれど、一方でこの作品が面白いのもまた事実」というような評価が、昔の作品にはできるはずです。

だったらそれを今現在の時代に適用することも、可能なはずでしょう。今の時代の作品だから、昔の作品と比べて距離を保つのが難しいというのも理解できます。しかし、そもそもオタクの人々は、「この作品にだめな部分はあるし、それをパロディにしおたりするが、それでも自分はこの作品が好きだ」という作品の両義的な楽しみ方を心得ていた人々だったはずなんですね。いつしかそれが盲目的に作品を信仰・全肯定する人々になってしまいましたが、そうではない楽しみ方っていうのもあったはずなんです。

キズナアイを擁護して、今回の問題を提起した、太田啓子氏や千田有紀氏、少年ブレンダ氏を攻撃している人に問いたい。今回の発端となった記事、本当に「全肯定」しなきゃならないような、そこにキズナアイの魅力を全て詰めたような、そんあ記事ですか?僕はキズナアイちゃんの動画も見ましたが、どうしてもそうは思えないんです。むしろあの記事は、明らかにキズナアイちゃんの魅力を伝えるのに失敗していませんか?あれじゃあ、キズナアイちゃんじゃなくて、そこらの女性アイドル捕まえたって似たような記事ができあがっちゃうんじゃないですか?

そして、次に、今回の論争でヒートアップして、キズナアイ自身を攻撃してるようなネトフェミの人たちはこう言いたい。例えそれがどんなに差別的に見えたとしても、世の中にはそれを楽しみにし、それを人生の糧にしているような人がいる。そういう人たちをあなたたちはこの社会から排除したいんですか?だとしたら、排除されることになるのはむしろあなたたちですよと。

「問題はある。しかし一方で、人々を楽しませている」。そのアンビバレンツさを認め、攻撃ではなく、対話を始める。まずはそこから始めるべきなんじゃないでしょうか。でなければ、終わりなき殲滅戦が続くだけでしょう。

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

この言葉を、論争に参加している人たち、そして、キズナアイちゃん自身にも思い出してほしい*2と、そう、思います。

*1:もうid:chikiみたいに気安くIDコールできる感じではないのかしら

*2:https://twitter.com/Sadndeath/status/1049046295078268928参照