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この四元壯という方は僕が書いた
amamako.hateblo.jp
という記事にたいそう腹を立てているみたいで
それにしても、もっとひどい批評を読んでしまって、小山田圭吾のいじめ内容を知った時より胸糞が悪くなりました。
ということだそうです。
そうかー、小学生の頃に障害を持った児童をいじめるような、そんなひどいことより僕の文章は胸くそ悪い物なんですねー。そこまで不快にさせてしまったなら、その点はまずお詫びしたいなと思います。
ただ、僕は僕なりにあのブログ記事を、「この思いを書いてみんなに伝えたいな」と思って書いているので、その点はまず分かって欲しいですね。
というわけで、今回は四元壯さんの記事に応答する形で、なぜあの記事を僕が書いたか、その真意*1を解説したいと思います。
なんでSNSに自由な感想を書いちゃいけないんだろ?
この四元さんは僕や、他にも「ルックバック」というマンガに対しネガティブな感想を、ブログやSNSに書く人にたいそう腹が立っているみたいで
例えば、
「ルックバック、何も響かず・・・」
というツイートだったり。(流行りの三点リーダー症候群の方のようです)
これを見た僕は「別に響かなかったなら、自分の中で、”自分には合わなかったな”で終わらせて、黙っておけばいいのに、なんでわざわざSNSでつぶやくんだろう?中学生の男子かな?」と思いました。
で、この人の普段のツイートを見たら小山田圭吾のモンタージュ写真とかをリツイートしていて「あ、響かないだろうな」と納得しました。
つまり、そういう人間には響かないんですよ。響かないんです。と思いましたよ、僕は。(強めの口調)
と書いています。
(「中学生の男子かな?」という揶揄は、真面目に意味が分かりませんが。ついでに言うと「小山田圭吾のモンタージュ写真をリツイートしている人」というのがどういう人間なのかも、いまいちピンとこない)。
ですが、「ルックバック、何も響かず・・・」というツイートの何がそこまで逆鱗に触れるのでしょうか?その人にとっては響かなかったんだから、「自分は響かなかったよ」とつぶやくのは、むしろSNSの普通の使い方だと思うんですがね。そこで「ルックバック響いたー!」という人に「こんな作品が響くなんてお前は劣っている!」とかクソリプ送ってるなら別ですが、そうでなく自分のアカウントでただ「ルックバック、何も響かず・・・」と呟くことのなにがそんなに気に食わないのでしょうか。
四元さんは
別に響かなかったなら、自分の中で、”自分には合わなかったな”で終わらせて、黙っておけばいいのに、なんでわざわざSNSでつぶやくんだろう?
といいますが、黙るも呟くも、その人がしたいようにすればいいわけです。わざわざSNSでつぶやく理由は、ただ単に「そうやって考えを文章に起こすことで自分の中の考えを整理したい」だったり、「その時自分がどんなことを思っていたかを、後から振り返られるようにメモしておきたい」だったり、あるいは「TLに『自分にはルックバックは響かなかった』という意見を書いて、それに対する閲覧者の反応を聞きたい」だったりするかもしれません。しかしいずれにせよ、別にSNSの使い方としては何ら咎められることはしてないわけです。
僕は、他の人がやまゆり園の事件とかを悼んでくれないのは悲しいよ
そして、四元さんは僕の記事を批判していきます。
まず、四元さんは僕の記事の
京アニ事件についての追悼はたくさんされるのに、同じ様に多くの罪のない人が殺された他の事件には特段注目されないことに苛立ったりして
という文に対し
なぜ、他人が悼むか悼まないかで、あなたが苛立つのでしょうか?
まずはその”他人を基準とした生き方”をやめたらどうでしょうか?
あなたが「京アニの事件は特別視されるべき事件ではない」「やまゆり園の事件のことは、一生忘れない」と思って、自分の道を進めばいいのではないでしょうか?
と思うのです。
と批判します。
ですが、僕はやっぱり、他の人が「京アニの事件だけが特別な事件である」「やまゆり園の事件のことなんか忘れて良い」と思っていることは、率直に悲しいですし、その考えは改めてもらいたいと思っています。
そういう考えを、四元さんは「他人を基準とした生き方であるからやめた方が良い」と言いますが、僕はそうは思いません。
自分が「京アニの事件は特別視されるべき事件ではない」「やまゆり園の事件のことは、一生忘れない」と思うことは当然です。しかし、自分だけがそう思っても、社会全体がそう思ってくれなきゃ、結局「特別な才能を持った人だけが尊ばれて当然で、才能が無かったり、通常の人より能力が劣っている人は貶められてもかまわない」という社会の固定観念は変わらないでしょう。そしてそういう固定観念こそが、「能力が劣っている人間は積極的に間引くべき」という、やまゆり園の事件の犯人のような考え方を持っている人を生み出すのだと思っているのです。
四元さんは「他人を基準とした生き方」を否定します。しかし私たちは誰もが単独で、誰の助けもなく生きているわけではなく、相互が相互に支え合い、一つの「社会」を構成して生きているわけです。とするなら、「他人がどういうことを考えているか」ということを気にするのは、社会的動物である人間として至極当然のことでしょう。
あらゆる物語は、その物語が「描く物」の影に「描かれない物」がある
次に四元さんは僕の
しかし、京アニ事件を物語化して描くなら、その描き方はそれに限定されるものではないはずなんですね。
という文章に対し
何より、この批評は「ルックバックが京アニのことを描いている」と断定した前提で話がずっと続くのですが、そもそもそれが大間違いだと思います。
しかし、京アニ事件を物語化して描くなら、その描き方はそれに限定されるものではないはずなんですね。
とか言ってますけど、”京アニ事件”という具体的なものを描こうとしたわけではないでしょう。
京アニ事件というものや、その他たくさんの事件や日々のできごとを通して、作者が抱いた抽象的な何かを描きたかっただけでしょう。
と批判します。
なるほど、確かに「ルックバック」というマンガは京アニ事件を舞台としたドキュメンタリーマンガではないですし、京アニ事件というものや、その他たくさんの事件や日々のできごとを通して、作者が抱いた抽象的な何かを描きたかったという見解は最もだと思います。もし、僕がそのような見解ではない見解を記事内で示していたように見えたとしたら、それは僕の文章が誤解を招く文章だったということですので、お詫びいたします。
僕が言いたかったのは、「京アニ事件を通して何かを描くのだったら、そこで作者の藤本氏が伝えたかった抽象的な何かではない、別のものも描けるし、また、その『別のもの』こそ必要な人もいるよね」ということです。
このマンガが「物語」である以上、そこで描かれないものがあることは、しょうがないことなのです。
先鋭化する褒めと批判では、先に述べたような「描かれなかったもの」を掬うことはできないんですね。
これを書いてる人は、一体何を求めているのでしょうか?なぜ、自分の描きたかったものを描いた人に対して「描かれないものがあるのは”しょうがない”」とか「掬うことはできない」とか偉そうなんでしょうか?
描かれないものがあるべきでないと思うなら、自分で描けばいい。
掬うべきものを掬いたいなら、自分で描けばいいでしょう。
と四方氏は書きますが、「しょうがない」とか「救うことはできない」というのは、ただ単に「できるかできないか」という事実を述べているだけなので、何が「偉そう」なんでしょう?
描かれないものがあるべきでないと思うなら、自分で描けばいい。
と言いますが、僕は「描かれないものがあるべきでない」なんてことは一言も言ってないです。むしろあらゆる物語は、その物語が「描く物」の影に「描かれない物」があると、言っています。また、
掬うべきものを掬いたいなら、自分で描けばいいでしょう。
と言いますが、僕はまさしくそういう目的でブログに記事を書いているわけです。詳しくはその次の記事である
amamako.hateblo.jp
で書きましたが、僕は、そういう「物語の中で掬われないもの」を掬う手段として、批評は存在すると考えています。
そしてさらに言えば、自分がそうやって「掬われない物を掬う」と同時に、他の人がそういった「掬われない物を掬う」批評や作品を生み出す手助けを行いたいとも考えています。別にその二つは排他的なものでなく、一緒に行えることですから。
「共感が得られない物語」は書きにくくなっているか問題
「ルックバック」という物語への批判に対し、「そういう批判をするなら、自分がその批判する立場から物語を描けばいいじゃん」という反論がSNS上ではよく見られます、しかし、そもそも現在の物語を取り巻く環境って「みんなから単純に共感されない物語」は描きにくくなっているというのも、また事実なわけです。
「みんなから共感されない物語」は描きにくくなっている。
とか書いてますが、そんなことないでしょう。
描きたいものがあるなら、共感されるかは置いといて、まずは描けばいい。
と言っています。
さて、「みんなから共感されない物語」は描きにくくなっている。とか書いてますが、そんなことないでしょうと四方さんは述べますが、本当に「そんなことない」のでしょうか?
確かに、インターネットを用いれば、自分の作品を世界に公開するのはとても簡単にできる時代です。昔は、小説やマンガを世間に発表したいのなら、それこそ出版社の編集者のお眼鏡にかない、そして雑誌や書籍に掲載されなければならなかった。しかし今は、個人で自由にインターネット上で作品を発表できるわけです。
しかしその一方で、そうやってたくさんのアマチュア作品が世に出回る一方で、多くの作品は発表されても、目に触れて共感される前に、そもそも人々の目に触れることすらないという現実があるわけです。例えば、小説投稿サイトである「小説になろう」というサイトでは、約60万件の作品が投稿されているが、その内半数以上の作品の週間PV数は0です*2。
つまり、ただ投稿しただけではそもそも誰にも読まれないんですね。
ではどうしたら読まれるかといえば、それこそキャッチーなタイトル付けて、多くの人に読んでもらうことによってランキングに載ったり、あるいは今までのように出版社などに持ち込みに行ってそこの雑誌やサイトに載せてもらうということが必要になるわけです。
「ルックバック」もまさしくそうです。「ルックバック」が多くの人の心をつかむ作品なのはもちろん認めます。認めますが、しかしそれが多くの人に読まれたのは、やはり集英社の「少年ジャンプ+」というサイトに、藤本タツキが描いたというネームバリューを付けて掲載されたからなわけです。仮に全く同じ作品が、それこそPixivかどこかで、無名のアカウントに投稿されたら、おそらく無視されていたでしょう。
では、そうやってランキングに上がったり、出版社に認められる作品はどんな作品なのか。そこで問題となるのが「共感」なわけです。つまり、より多くの人々に「この作品を読んだら共感できて気持ち良かった」と思われることが重要になっているのです。
そして近年は、この「共感できるか」というものが、物語の価値を計る唯一の尺度となっているわけです。昔だったら、マンガはともかく、文学においては「この作品は共感できないけどとても価値がある」というものが多くあり、そしてそういう作品を評価する文学賞として芥川賞・直木賞といったものがあったりしました。しかし昨今は、文学賞の選考でさえ
mainichi.jp
「文学とは人に希望と喜びを与えるものではないのか」
というように、物語は人々に共感され、ポジティブな影響がなければならないとされるわけです。
(ただ僕自身は、少なくとも文学に関しては、「人に共感され、ポジティブな影響を与える」ことの価値があまりに軽視されてきたと考えるので、むしろ旧来の文学観に反抗し、敢えて上記のようなことを言うことを、パンクとして割と評価していたりするのだけれどね)。
以上のようなことから、僕は「みんなから共感されない物語」は描きにくくなっていると考えるわけです。より正確に言うならば
- 共感されない物語を描くことはできるけど、そんな物語に誰も価値を見い出さず、誰も読んでくれない
と考えるわけです。ここは、議論の分かれるところではあるでしょうが、少なくとも僕の見解は以上に述べたとおりです。
エネルギーも時間もかける覚悟もない人間は、批判も言い訳もしてはいけないのか?
それに、物語自体に共感される/されない、なんてない。あくまでも”ルックバック”が共感されたのは、共感されるように作者が、力を振り絞って描いたからだ。
それと同じだけの、エネルギーも時間もかける覚悟もない人間が「共感されない物語は描きにくい」なんて批判と言い訳をしないでほしい。
どうやらこの人は僕が漫画家であると勘違いしているみたいなんですが、僕は一応「自称批評家」という肩書きで文章を書くことを行っている人間です。お見知りおきを。
それはさておき、四方さんは、「エネルギーも時間もかける覚悟もない人間が批判や言い訳をするな」と言います。ですが、僕からすると「『エネルギーも時間もかける覚悟がある』ことと『批判や言い訳をする資格』に何の関係があるの?」とです。
まず最初に言っておきたいのが、僕が「共感されない物語は描きにくい」と言っているのは、ただ単に現状の分析です。批判ではありません。
その上で、仮に僕が「共感されない物語が描きやすいようになるべきなのに、現状はそうなってない」という現状批判をしたとしましょう(実際は、僕の文章を読めば分かりますが、そんなことは言っていません)。そういう批判をするのに、なんで「エネルギーも時間もかける覚悟」が必要なんでしょうか?
というかそもそも、他人がどんな覚悟を持っているかなんて、テレパシー能力のない人間にはわからないはずなんです。私たちが見えるのは、あくまで結果だけなわけです。
四方氏は
あくまでも”ルックバック”が共感されたのは、共感されるように作者が、力を振り絞って描いたからだ
と言いますが、作者が力を振り絞って描いたかなんか、誰にもわからないわけです。もしかしたら、鼻歌交じりにチョチョイのチョイで描いたのかもしれません。
しかし、例え力を振り絞って描いたものであろうが、鼻歌交じりにチョチョイのチョイで描いたものであろうが、その作品の価値には何の影響もありません。幾ら努力して描いたものであっても駄作は駄作であり、例えどんな楽して描いても傑作は傑作なのです。これは、物語に限らず、すべての表現に言えます。
表現そのものの価値と、「力を振り絞ったかどうか」に何の関係もない以上、「表現をする資格」にも、「力を振り絞ったかどうか」はなんの関係もありません。例えどんな怠け者にも、批判や言い訳をする資格はあるし、そしてその批判や言い訳の妥当性は、その批判や言い訳の内容によって決まることで、「それを主張していた人が力を振り絞っていたか」は何の関係もないことなのです。
5ちゃんねるについて
「この物語のここが自分には合わない」ということが発露できないモヤモヤが、なんか今のインターネットには溢れている気がします。
これもそんなことない。5ちゃんねるに行きなさい。同じようにいじけてる人たちが沢山いるよ。どうしてツイッターにいるの?ツイッターは北朝鮮じゃないんだから、好きな時に来て、好きな時に出ていけるんだよ?自分に合わない場所に、自ら選んで残っているくせに「居場所がない」なんて言わない方がいいんじゃないかな?
もしかして、「この会社は俺には合わない!」って酒飲みながら愚痴ってるタイプの人間かな?
と四方氏は言います。ただ、少なくとも僕がみていたころの2ちゃんねるは、「この物語のここが自分には合わない」ということをスレッドの流れを無視して自由に言える環境ではありませんでした。
ただ、僕は最近の5ちゃんねるを知らないので、もしかしたら最近は雰囲気も変わって、「この物語のここが自分には合わない」ということを伸び伸びといえる場所になっているのかもしれませんね。ただ、そうであっても「顕名で文章を書けない」という時点で、移住する候補にはなりえないんですが。
ついでにいうと、僕はインターネット全般の話をしているのに、なぜか「ツイッター」とかに限定されて、「ツイッターが嫌ならツイッターから出てけ」という話になるのかわかりませんね。もしかして、インターネットは「5ちゃんねる」と「ツイッター」しかないと考えてる人なのかな?
「言葉を紡ぐこと」と「手を動かすこと」に優劣なんてない
このブログの方もそうですが、「全然面白くなかった」とか「これは、この部分についての説明が不十分だ」とかいう人たちは、まず、
- 自分にその作品が合わなかったなら、見なければいいだけ。批評はいらない。
という姿勢をまずオススメしたいし、
- 「もっとこうするべき」と思うなら、自分で作ればいい。ダラダラと言葉を並べて批評する暇があるなら、手を動かして理想の作品を作るべき。
ということもぜひやってくれと思う。
えーと、それはあなたの美意識でしょうか?だとしたら、その美意識になぜ他の人が従う必要があるのでしょうか?
僕は、作品が合わなかったら「合わなかったー」と表現することに、何の罪悪感も感じません。というか、そういった楽しみがあるからこそ、作品を観ることって楽しいんだよなと考えています。面白い作品を見て「面白かったなー」と思い、人々とその面白さを語り合うのと同じぐらい、つまらない作品を見て「つまらなかったねー」と思い、人々とそのつまらなさを語り合うのは楽しいですから。
逆に、作品を見た時に絶賛以外禁止!つまらない作品を見ても「つまらない」と言ってはいけないとなるなら、僕は作品鑑賞自体をやめます。
「ダラダラと言葉を並べて批評をする暇があるなら、手を動かして理想の作品を作るべき」というべき論にも賛同しません。僕は、優れた批評は、優れた作品と同じぐらい人に感銘を与えると考えていますし、そもそも、「言葉を紡ぐこと」と「手を動かすこと」に優劣があるとも思っていません。人間は、言葉によって様々な抽象概念を発見し、それによって文明を進歩させてきたのですから。「言葉を並べるより手を動かせ」という人ばかりだったら、人類は未だ原始時代のままだったでしょう。
以上のことから、僕はあなたの美意識は間違っていると考えますので、あなたの望みも間違っていると考えます。
四方さんの文章全般に見えるナルシシズムについて
まとめとして四方さんの文章全般に対する、僕の感想を述べさせていただきます。
四方さんは「自分のネット上での暮らし方が正しい!自分のネット上の暮らし方と異なる暮らし方をしているあいつらは間違っている!」という信念を強固に持っていると見受けられます。それ自体は別に構いません。
しかし、そのような信念を元に他者を批判するなら、「自分のこのやり方は○○という理由で正しいんだ」とか「相手のやり方は☓☓という悪影響を社会に与えるから間違っている」というように、その他者にも分かるように、自分が正しく、他人が間違っている根拠を提示すべきと考えます。
しかし四方さんの文章は、「こうやるのが正しい!なぜなら、俺はこうやっているからだ」というように、トートロジーによってしか自分の主張の根拠を示しません。それでは、四方さんと、四方さんに個人的信頼がすでにある近しい人にしか、文章の説得力はないでしょう。
失礼なことを言うなら、四方さんはナルシシズムがあまりに強いがゆえに、自分や、自分の書く文章を客観視できていないように見受けられます。自分の正しさを自分で信じるのは大いに結構。しかし、他者に見られる文章を書くのならば、自分の正しさを信じていない他者に対して、どうやって自分の正しさを認めさせるか、客観的に考え、説得力ある文章を書かなければ、他人に見られる場所で文章を書く意味はないと、少なくとも僕は思います。
もちろん、これはあくまで、僕が「他人に見られる場所では、できる限り他人に理解される文章を書くべきだ」という美意識を持ってるからそう思うことで、もし四方さんが「そんな美意識知ったこっちゃない」と思うなら、全く無視して良いことです。見知らぬ他人を無視し、自分と、自分に個人的信頼を抱いている近しい人物のみに向けて文章を書く自由もあるのが、まさしくインターネットのいいところですから。
しかしだとしたら、そうやって四方さんが思うのと同じ様に、「他人に理解されなくてもいいから『ルックバック』合わないと書きたい」と思って、そのようなことを書く他者の自由も認めないと、矛盾が生まれるのではないでしょうか?
あ、あと最後にもう一つだけ。
先日のnoteで紹介した”ルックバック”という作品。
僕が午前中に見た限りでは、漫画家さんやテレビプロデューサーなど、クリエイター的な人たちを中心に話題になっていました。喜び、素直な嫉妬といったポジティブなものがほとんどでした。
なんかこれ、「漫画家やテレビプロデューサーなどのクリエイターたちも、自分と同じ様にポジティブな感想を書いている」というように、漫画家やテレビプロデューサーの権威を傘に着て自分の正しさを主張しているように見えて、個人的にはとてもかっこ悪く見えました。
*1:というとなんか大げさですね