あままこのブログ

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克服の物語と、まつろわぬ者たち―『すすめの戸締まり』批評(ネタバレあり)

というわけで、早速『すすめの戸締まり』を、公開日(2022/11/11)の9時10分からの回で見てきました。前作の『天気の子』が僕的にはかなりぶっ刺さり映画だった
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ので、今回の映画も非常に楽しみにしていたわけです。

で、鑑賞した感想なんですが、一言で言うと次の2つになります。

「すごい映画だったというのは肌で感じるし、これこそ現代の日本に求められている『物語』なのかもしれない。」

「でも、僕個人としては、『これでいいのか?』と思ってしまう」

なぜ僕がこう感じたのか。以下の文章で説明していきます。なお、説明上どうしてもストーリーのネタバレを避けることができないので、今回の記事ではネタバレありで感想を書きます。ので、視聴前の人はできれば視聴してから読んでいただけると幸いです。

明確に「東日本大震災というトラウマの克服」をテーマとして描かれた物語

まず、これは改めて僕が言わなくても物語で散々描かれていることですが、この映画は明確に「東日本大震災というトラウマの克服」をテーマにしています。主人公の鈴芽は、幼少期に東日本大震災で親を亡くしていて、自分の命なんてどうなったっていいと思っている。しかしそんな女の子が、新たな地震が起きないように扉を閉じる旅をする中で、さまざまな人と出会い、また、自分の愛する人も見つける中で、サバイバーズ・ギルトから抜け出し、自分が生きてきたことを受け入れられるようになっていくわけです。そして、映画のクライマックスにおいて、鈴芽は、親をなくした幼少期の自分に対し、「今はとてもつらいだろうけど、生きていく中でいいことがあるからね」と言って、過去の自分を救うわけですね。

僕的には、幼少期の自分を救ったのがてっきり母親かと思わせておきながら、実は未来の自分だったというのは、かなりぐっときました。というのも、ここでもし死んだ母親が鈴芽を救ってしまったら、それは実際はありえないご都合になってしまうし、何より結局「過去の呪縛」から抜け出せず、ただその呪縛の方向が変わるだけになってしまうからです。

そうでなく、(過去の)自分を救うのは、未来で幸せになった自分なんだと、描いたのは、極めて素晴らしいと僕は思いました。変えられないものを物語的ご都合主義で変えるのではないという点が、極めて誠実な態度だなと、思ったわけです。

過去への向き合い方が実に誠実である

この、過去というものへの誠実な態度は、物語の全般で徹底しています。

この映画において、地震を引き起こす神様は廃墟の扉から現れます。そして主人公たちはその廃墟に赴き、扉を閉めるわけですね。

ただ、そこで主人公たちは扉を閉めるときに、その廃墟にかつて居た人々の、過去の声に耳を傾けなければなりません。そこでは、かつて多くの人が生きていた、そのことを理解し、それを弔わなければ、扉は閉まらないという設定になっているわけです。

この設定にも、僕はぐっと来るわけですね。昨今、「廃墟写真」というものが人々の間で流行しているわけですが、それら写真の多くは、廃墟を単なる「映える」場所としてしか捉えておらず、かつてそこに人々が生活していながら、そこを追われてしまったという、過去の人々の悔しさ・悲しみといったものを捨象してしまています。

しかし、新海誠監督は、廃墟好きだからこそ、(これは僕の妄想かもしれませんが)廃墟を舞台にするにあたっては、その廃墟でかつて生きた人々の営みに敬意がなければいけないと考えているわけです。「映える」映像を作り出すクリエイターの代表であるような、新海誠監督が、廃墟に対しこのように真摯であるということは、素晴らしいと思うし、世間でサブカル的に廃墟を消費している人たちは見習わなきゃならないんじゃないのと、思うわけです。

描かれぬ悪意・敵意

今まで挙げた点以外にも、シリアスさとコミカルさの配分が実に絶妙だったり、市井の人々の生活描写が素晴らしかったり、と、褒める点は多々ある今作。

しかし、そのような映画でありながら、僕は映画を見ていて、どーしてもある違和感が拭い去れなかったんですね。それは

「登場人物たちが、みんなあまりにいい人すぎる」ということです。

旅先で出会う人達は、みんな心よく主人公たちのことを助けてくれるし、主人公たちもまた、災害を防ぐために自分の身を犠牲にしても構わないと考える人達である。唯一、鈴芽の叔母である環が、鈴芽に対して憎悪っぽいものを吐き出しますが、それもすぐ収まってしまう。「全員善人」なのです。

いやわかるんですよ、ここで悪意とか敵意を持ったキャラクターを出したら、むしろ物語の本筋がブレるということは。みんないい人たちだからこそ、そんなひとたちが犠牲になってしまう災害というものの辛さが浮き彫りになるわけで、ここでもし「こいつらは別に死んでもいいや」というようなキャラクターを出したら、「災害を防ぐために奮闘する」というストーリーの骨子そのものが揺らいでしまう。そうやって、グダグダになっていくディザスターものの映画・アニメとか、散々見てきましたし。

でも一方で、こうも思うわけです。「でも、現実の東日本大震災は、災害そのものより、それによって生じた人々の敵意・不和のほうがきつかったよな」と。

東日本大震災とは、分断の始まりだった

もちろん、実際に被災に遭われた人にとっては、自然災害それ自体が苦しかったのでしょう。ただ、東日本大震災が、被災していない人々を含めた、日本国民全体のトラウマになっている、最も大きな要因は、被災それ自体よりも、それによって生じた、人々の不和・敵意だったと思うんですよ。それこそ自粛警察や買い占め騒動、そして福島第一原発事故による放射能リスクや、原発そのものリスクなどによって、人々は分断し、そして双方が双方に敵意をぶつけ合ったわけです。

そしてその対立は、もちろん今も収まってない。3.11を期に、極端に敵意や憎悪をむき出す、「タタリ神」のようになってしまった人は、今もなおそのままなわけです。

東日本大震災というものが、被災していない人も含めた、国民全体のトラウマとなっているのは、まさしくあの3.11を契機に、人々の心のどす黒い部分がマグマのように吹き出したからではないか、少なくとも僕は、そう思うのです。

しかし今作においては、そういった東日本大震災が噴出させた、人間の醜さといったものは、一切描かれず、あたかも「全く善良な人々が、突如として災厄を被った」ものとして描かれるわけです。

これが、僕にはどうしても納得がいかないんですね。

「悪意を描かない」ことは、「悪意を断罪する」よりもひどいことなのではないか

ここで僕は、今作のように実在の出来事をアニメで描いた作品として、『輪るピングドラム』という作品を対比させたいと思います。

『すずめの戸締まり』という作品が、東日本大震災という出来事を描いたように、『輪るピングドラム』という作品も、地下鉄サリン事件という実際の出来事をモチーフに、物語を描いています。そして両者の作品はともに、その出来事によって親や大切な人をなくした子どもの物語なわけです。

しかし東日本大震災と違い、地下鉄サリン事件には明確に、その災厄を引き起こす悪人がいるわけです。『輪るピングドラム』では、それは主人公たちの親でした。そして更に言うならば、その災厄をもう一度起こそうとする悪役もいます。悪役は、争いにまみれ、弱いものが犠牲となる今の世界を憎み、世界そのものを壊そうとします。

もちろん、『すずめの戸締まり』において主人公たちが地震を防ぐように、『輪るピングドラム』の主人公たちも、その災厄を阻止します。そしてその過程で、悪役の憎しみは否定される。

ただ、『輪るピングドラム』においては、「こんな世界生きるに値しない」という悪役の思想は、断罪されますが、しかし少なくとも描かれてはいるわけです。

「こんな世界生きるに値しない」という思想が、そもそも存在しないで、「生きて、誰かを愛すのって素晴らしいことだ」とメッセージを伝える『すずめの戸締まり』と、「こんな世界生きるに値しない」という思想が描かれた上で、断罪され、「生きて、誰かを愛するのって素晴らしい」というメッセージを伝える、『輪るピングドラム』。

このような対比をしたとき、より心を打つのは、少なくとも僕にとっては、後者の方なのです。

『すずめの戸締まり』にまつろわぬ者たち

もちろん、世の中の多くの人は、こんな風にひねくれて今作を見ることなく、素直に、クライマックスのシーンにおいて鈴芽の言う言葉に感動し、「これから先生きてればきっと楽しいことがあるさ」と思うのでしょう。

ですが、言ってしまえばそういう人たちは、別にこの映画を見なくたって脳天気に「生きるのって楽しいなぁ」と思っているわけです。もちろん、その前向きさを更に助けてくれる映画ではある、あるのだけれど、「こんな世界生きてたってしょうがない」と思う人たちに届く作品であるとは、思えないのです。

更に言うなら、そういう影の部分を無視して、「東日本大震災を克服した国民の物語」を『すずめの戸締まり』が描くことになってしまうのではないかという、不安もあります。

それこそかつて「福島第一原発はアンダーコントロールされている」とのたまって、オリンピックを金で買った人々のように、『すずめの戸締まり』もまた、「東日本大震災はひどい災害だったけど、日本国民は一丸となって克服し前向きに生きています」という物語を、描いてしまうのではないかという危惧です。

しかし、そういった物語にまつろわぬ者たちも、世の中にはいるわけで、そして僕が共感するのも、どっちかといえばそちら側なのです