あままこのブログ

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「エンパワーメント」なる言葉のうさんくささ

このツイートに対し「いや受け手を不快にするものが全て『広告』として許されないなら、フェミニストたちがさんざん称賛してきたジレットの『男らしさ』広告なんてどうなるのよ」という批判をしたら、多くの人から「いや、ジレットの広告は男性をエンパワーメントするものだが、ロフトの広告には女性をエンパワーメントする気が見られない。だから駄目だ」という反論が多く寄せられました*1。 要するにこの人らの脳内では、「エンパワーメント」の要素こそが、ある表現が許されるか/許されないかを決める、決定的要素となっているみたいです。

しかしねぇ……僕は思うのです。

「エンパワーメント」,これほどうさんくさい言葉も、なかなかねぇぞ?と。

エンパワーメントとは結局、心地よい疑似現実に逃げ込む言い訳にすぎない

エンパワーメントという言葉は、どうやら最近の「意識高い系」の人々の間では流行語になっているようで、Googleニュースで検索してみると、「女性をエンパワーメント」とか、「クリエイターをエンパワーメント」なる言葉がずらずらっと出てきます。

www.google.com

では、「エンパワーメント」なる言葉は一体どういう意味なのか。Wikipediaを引いてみると、次のような定義が載っています。

ja.wikipedia.org

エンパワーメント(empowerment、エンパワメントとも)とは一般的には、個人や集団が自らの生活への統御感を獲得し、組織的、社会的、構造に外郭的な影響を与えるようになることであると定義される。日本では能力開化や権限付与とも言う。エンパワメントの考え方は昨今大きな広がりを見せ、保健医療福祉、教育、企業などでも用いられている。広義のエンパワメント(湧活)とは、人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させることと定義される。

「人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させること」ねぇ……

まあ、なんていうか……この文章を見て「うわきもっ」と反射的に思えない人とは、正直一生分かり合える気がしません。

大体、もし自分が本当に「それが正しい!」と思ってる信条なら、エンパワーメントなんてされなくてもそれを貫けるはずなのです。もし、「女性の絆は清く美しいもので、そこには打算とか抑圧なんてものはない」と本気で信じているのなら、それが他者の表現でどう描かれようが気にならないはずでしょう。

それが、エンパワーメントされなきゃ信じられないというのなら、それは所詮それまでのことなんですよ。心のどこかで「いやでも女性の絆にも足の引っ張り合いとか普通にあるんじゃないか?」という疑念が心のどこかにあって、それを打ち消したいから、「女性の絆は生来美しいものなのだ!」という表現を、「女性をエンパワーメントするものだ」といって称賛し、そうでない表現を「女性をエンパワーメントしない!」と言って過剰に貶める。そうやって自分の身の回りから、自分の心の奥底に眠る疑念を呼び起こすものを排除し、「やっぱ女性の絆は美しいねぇ」と仲間内で確認し合う。

はっきり言いましょう。「エンパワーメント」とは結局、同調圧力によって現実から目をそらし、心地の良い「疑似現実」に逃げ込む、体の良い言い訳に過ぎないのです。

凡人は、真に世界を変えうる稀人の邪魔をするな

まあ、そうやって心地よい疑似現実の中で一生を終えられれば、それはそれで幸せなのでしょう。しかし、世の中そういう鈍感な人ばかりでできているわけではありません。例えどんなに心地よい「エンパワーメント」で覆い隠そうとしても、その裏にある「見たくない現実」というものを見てしまう人も、世の中にはいるのです。そして、本当に素晴らしい、人の心を揺り動かし、後世まで残る表現を生み出す表現者というのは、まさにそういう感受性を持った人なのです。

そういう表現者の表現というのは、むしろ「エンパワーメント」なる美辞麗句とは程遠いものになります。その表現を受け取っても決して愉快な気持ちにならないし、元気づけられもしない。「夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させる」なんてもっての外です。

でも、「エンパワーメント」なる言葉を無邪気に称賛する輩には一生理解できないことかもしれませんが、こういう表現こそが、この社会で生きづらいと思っている人たちにとっては、この社会をサバイブする「武器」となるのです。そして更に言うなら、「エンパワーメント」的な表現によってしか自分の信条を本気で信じることができない人がいくら集まっても変えることができない現実を、打ち破る力を持つ人は、まさにそういう感受性を持った「稀人」なのです。

僕が言いたいことは唯一つ。「凡人はそういう稀人の邪魔をするな」ということです。凡人たちは自分たちの内輪で散々「エンパワーメント」なるものを称賛していればよろしい。清く正しい人たちが、悪を打ち破る勧善懲悪なポリコレ的物語でも読んで、「とーってもエンパワーメントされました!ポリコレサイコー!」と、目から出る体液の量でしか映画の良し悪しを測れない〇〇どものようにのたまっていればいい。ただ、自分たちの好む物語と違う、その鈍感さでは図りえない表現が出てきたとき、それを邪魔するのはやめてほしいと、そう思います。