あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

選挙というウンコの投げ合いについて

なんかもう、色々イヤになるよなーと。


一応自分は、これまで一度も選挙を棄権したことは無かったし、今回の選挙も鼻をつまみながら、自分の信条にあった政党・候補者に票を投じるつもりではある。


あるのだが、にしても年を経る毎に「選挙」というものへの感情がネガティブなものになり、関連の話題から目を逸らしたくなる自分に気づく。下手したら、選挙というものがなければ、みんなもっと政治というものについて理性を持って向き合えるのでは無いかとすら、思えるのだ。


多分、もっと若い頃は、「選挙」というものに幻想を持っていたと思う。選挙に際して各政党・候補者が、政治に対する自らの考え方を明らかにし、そしてそれを受けて人々が、それぞれのイデオロギーや政治思想、個々の政策に対して意見をぶつけ合う。そういう理想が実現できる機会であるように思っていたわけで。


ところが実際は、有権者の多くはそんなきちんと物を考えてなく、なんとなくの雰囲気やら、あるいは自分の属する組織のしがらみやら、普段の付き合いなどに流されて票を投じるわけだ。そして、そういう有権者のレベルに合わせるように、政治家も支持母体とか、あるいは政策を訴えるより単なる単純接触効果を稼いだりする行為に精を出すわけだ。


あるいは、そういうしょうもない汚れた現実世界とは別個にある場所として、サイバースペースで、新しい、理想的な選挙についての議論ができるのではないかと思っていた部分もある。しかしそれも実際は起きず、存在するのは対立候補への憎しみを煽る言葉であったり、あいつらが悪いことをたくらんでいるというような陰謀論であったり、理性では無く感情に訴えるような短文のプロパガンダの応酬なわけだ。


レイシズムや差別主義のような、前提から邪悪な思想・政策を除けば、どんな思想や政策も、一応人々を幸せにしようとして語られているものであるわけで、例えその思想や政策に反対する側からも、最低限の敬意を持たれるべき。ところが実際は、自分と異なる思想や政策であるというだけで、それが即憎しみを持って排除すべきとされてしまう。


例えば表現の自由ジェンダー平等なんかは、最近のネット空間では二項対立で語られる―本来はそもそもそのように語られるのが間違いであるが―が、たとえ二項対立であったとしても、双方ともに「いかに人々が幸福にいきられるか」を目指すものであるから、それらの反対する立場でも、一応の敬意を持って語られるべき。ところが実際は、双方の思想の支持者が、相手の思想をまるで悪魔のように語り、憎しみを煽ることによって、自らの勢力に動員しようとする。


結局、動員というものが選挙においては正解である以上、馬鹿のようにふるまうのが、選挙においては最適解となるのだ。


ただ、現行の政治体制というものは、結局そういうウンコの投げ合いで政治の方針の大勢が決まるものであるから、参加せざるをえないのだが、しかしそれでも、「自分はウンコの投げ合いに参加している」という自覚を持って、せめて選挙が終わった後は、きちんと手を拭きたいなと、そんなことを思ったりする。