あままこのブログ

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愛の物語であると同時に、喪失の物語だったー劇場版ピングドラム感想(ネタバレあり)


というわけで、『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM後編 僕は君を愛してる』、鑑賞してきました。
penguindrum-movie.jp

以下感想を書きます。ネタバレもあるっちゃあるけど、そもそもTV版とストーリー自体が大きく変わったわけではないので、「TV版のピンドラは見た」という人はそんなに気にすることはないかなと思います。ただ、もし「TV版をまだ見てなくて、劇場版から初めてピンドラを見る予定」という人が居たら、見た後に読んだほうが良いかもしれません(僕個人としては、そんなにネタバレを見たかによって感想の内容や、面白さが変わるタイプの映画ではないと思うので大丈夫だと思いますが)。

TV版ピングドラムの感想

ピングドラムについては、TV版も結構熱心に見てました。実際、始まった直後とかは、1話ごとに熱心に感想記事を書いてたりしましたし。
amamako.hateblo.jp
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ただ、正直TV版を見ていたときは、中盤ぐらいまでは興奮して見ていたんですが、終盤あたりになると、なんか良くわからなくなってしまったんですね。「愛の物語なんだよ、なんでわかんないかなー」というセリフに対しても、いや別に愛の物語なんて語られ尽くしたわけで、今更そんな話されてもなーと思った記憶があります。


そういう記憶があったから、正直劇場版が公開されると聞いたときも、一応見に行きはするけど、あまり期待はしてなかったんですね。一応新作カットはあるらしいけど、ストーリーの骨子はTV版とそんなに変わらないという話を聞いていたので。


ですが、実際見てみると……もうビックリするほど感動して、号泣しっぱなしでした。映画館でここまで泣いてしまったのは初めてです。もし劇場版ピングドラム後編を見ているときに、周りでボロボロ泣いているおっさんが居たなら、それは僕だったかもしれません。

変わったのは、作品ではなく、鑑賞側の方ではないのか

なぜそうなったか。他の人の感想記事やレビューでよく言われているのは、「編集によってかなり分かりやすくなっている」ということです。それは確かにそうで、TV版を見ているときに結構難解だった図書館のシーンはけっこうバッサリ整理されていて、理解しやすくなっているのは確かです。


ただ、そのように再編集によって分かりやすくなったという、作品側の変化もあるでしょうが、それより僕が重要だと考えるのが、鑑賞する私たちの方の変化です。


それは一言で言えば、「喪失したり、剥奪されたという思い」が、TV版が放映された頃より、強くなっているということです。

僕の、TV版を見た頃からの変化

自分の場合、TV版を見ているときは大学院生で、ストレートで大学院に入り、これから研究頑張るぞという気持ちに溢れていた時でした。挫折経験とかもあまりなく、本当にそれまで順風満帆に生きてきたという感じだったんですね。


ところが、それから1年ほど経った僕は、メンタルヘルスを病んでしまって、研究も断念せざるを得なくなりました。で、しょうがないから就職しようとしても不採用続き。やっとのことで職についても、またメンタルを病んで退職せざるを得なくなると言った、挫折が数多くあったわけですね。


更にいうと、この10年間には、仲が良かった人との別れも多く経験しました。喧嘩して別れちゃったというのもあるのですが、特にきついのが死別です。それまで普通に連絡を取り合ってた相手と音信が途絶え、どうしているかなーと思っていると訃報が届くというのは、10代の頃にはほぼなかった経験で、落ち込んでしまうことが多々ありました。


このように、「奪われること」「選ばれなかったこと」「なくしてしまうこと」を経験して思うことは、「世界ってなんて残酷で、自分とはなんて無力な存在なんだろう」ということです。順風満帆な人生を送っていたころには、なんだかんだ言って世界というのは優しいものと思っているわけです。もちろんニュースとかで悲しい事件を耳にすることは多々ありますが、実際に自分がそれを経験していないと身にしみて理解はできませんし、ともすれば「僕がこんな世界を正しく作り変えてやるぜ」という万能感すら抱くものなのです。


ところが年を経るに連れ、そのような万能感は打ち砕かれ、世界というものの残酷さを実感するわけです。

「あらかじめ失われた子どもたち」の物語としての、ピングドラム

で、そのような経験をした後にピングドラムを見ると、ピングドラムのキャラクターたちの感情が、より見につまされるものになってくるんですね。


なぜなら、ピングドラムに登場したキャラクターたちは、みな、喪失を経験したキャラクターだからです。物語の中の台詞で言うなら、キャラクターたちはみな「あらかじめ失われた子どもたち」なわけです。親から捨てられたり、愛情を与えられなかったり、愛する人をテロによって奪われたり、病気で失ったり……


そして、そのような喪失を認められなかったり、喪失に抗ったりするために、キャラクターたちは、自分たちから何かを奪った相手に復讐したり、また別のものから奪うことによって、喪失したものをとりかえそうとしたりするわけなんですね。ところが、そうやって、奪われた者が奪う者となることで、また別の奪われる者が出てくる……ピングドラムが描くのは、まずこのような「奪い合いの連鎖」という悲劇なわけです。


更にいうと、映画版では、この「奪い合いの連鎖」が、TVアニメと違い連続して鑑賞することにより、よりきついものとなっていました。僕が一番きつかったのは多蕗先生ですね。親から見捨てられ、子どもブロイラーで処分されそうになった自分を、必死で救い出してくれた桃果。しかしそんな桃果をテロで奪われたことにより、多蕗先生は復讐のモンスターと化し、そして高倉家から陽毬を奪おうとする、まさに「奪い合いの連鎖」なわけです。


そして、そうやって「奪い合いの連鎖」を散々見せられたところで、あの男がこう言うわけです。


こんな残酷な世界、壊してしまおうよ」と。


(更に劇場版では、上坂すみれ、通称すみぺも、似たようなことを言うわけです。革ブロ同士の僕としては、もうご褒美以外の何物でもなくて、すみぺの台詞だけ何度も繰り返して聞きたくてたまらないんですが、これはまあ余談。)

「奪われた」という思いを、誰もが持つようになっているのではないか

そして、このような「奪われた」という思いは、この10年間でより社会に蔓延するようになったのではないかと、僕は思うわけです。


それこそロスジェネ世代なんかはまさにそうです。就職氷河期真っ只中は、例え職に就けなくても、「周りのみんなも同じように職に就けてないし」と思うことにより、それほど剥奪感はありませんでした。しかし、就職氷河期が終わって新卒雇用が復活すると、自分たちの上の世代と下の世代は、正社員として普通に生きていけるのに、自分たちだけ、非正規雇用による貧困やブラック労働を強いられているという点で、「自分たちは上の世代と下の世代両方から奪われている」という相対的剥奪感が強くなっていったわけです。


さらに言えば、高齢者福祉を支えるために、消費税・所得税増税され、一方でこれからもらえる年金については、支給年齢がどんどん繰り上げられ、支給額も減少していくと、現役世代全体に「老年世代に、自分たちの富が奪われている」という思いが強くなっていきました。そんななかで、世代間闘争が盛んに叫ばれ、政治家や論客たちにも、「老年世代から現役世代に富を奪い返せ」という主張が強くなっているわけです。


また、インセル問題、はてな的に言うなら非モテ問題というものも、ここ十年で一気にメジャーなものとなりました。それまでははてなのごく一部で、若い人たちが軽い調子で論じていた問題が、年を経るごとにどんどん深刻化していき、男女間の対立を激化させているわけです。「非モテに国は女をあてがえ」みたいな主張が、ネタではなくベタに叫ばれるようになり、そしてそのような過激な主張が当然起こす反作用として、女性たちの一部にも過激なミサンドリーが生じているわけです。

眞悧先生とは、早すぎた反出生主義者だった

そして、そのような世界に絶望した人の中には、「もはや人類は生殖活動を停止し、絶滅へと向かうべきだ」という主張をする人が現れるようにもなりました。いわゆる反出生主義という思想です。


要するに、彼らは「この奪い合う世界は不幸しか産まないのだから、壊してしまったほうがいい」という、眞悧先生の思想を、ベタに現実で実行しようとしているわけですね。


実を言うと、TV版を見ているときは、眞悧先生はどうも類型的な悪役にしか見えませんでした。まあ確かにフィクションの中ではこういうこと言う悪役よくいるけど、逆にベタな悪役すぎて、物語の都合上出てきただけに思えるなー、と。


しかし10年経ち、逆に現実がフィクションに追いついてしまったわけです。幾原監督のすごさを改めて思い知りましたね。

「捧げる」のではなく、「分け合う」ということが、劇場版ではより明確になっている

しかし「こんな醜い世界壊してしまおう」という眞悧先生に、ギリギリまで視聴者を共感させる一方で、幾原監督は、そうやって世界を壊そうとすることもまた、「奪い合いの連鎖」の一つでしかないと描くわけです。


そして、「世界を壊す」のではなく、「世界を書き換える」呪文として唱えられるのが、「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉なわけです。つまり、「奪う/奪われる関係」に対抗するのは、「分け合う関係」であるということこそが、ピングドラムという作品のメッセージなのです。これは、TV版でも劇場版でも変わりません。


ただその一方で、TV版ではそれが、自分の身を犠牲にして愛する人を救う、「自己犠牲」として解釈されることもありました。劇場版では、その点は大きく改善されていたように思えます。


例えば、劇場版で新規に追加された、図書館の冠葉と晶馬が、プリンチュペンギンの言葉に反駁するシーン。あそこで、冠葉と晶馬を実に晴れやかに描くことにより、彼らは自らの身を犠牲にしたわけではないことがより明確になったように思えます。


「自己犠牲」とは、端的に言うなら「捧げる」ということです。それは、たしかに捧げる本人にとっては、「奪われたのではない、自ら差し出したのだ」と思えるでしょうが、捧げられた身からすれば結局「奪った」ことと同じになってしまい、結局捧げられた自分自身を否定してしまうことにつながります。だから、冠葉と晶馬は自己犠牲によって、陽毬に命を「捧げる」のではなく、命を「分け合う」存在でなくてはならないのです。

愛を分け合う言葉としての「僕は君を愛してる」

ただ、TV版では、この「運命の果実を一緒に食べよう」というのは、抽象度が高すぎていまいち理解されなかった点もありました。


それを改善するために、重要な台詞として、より注目されるようになったのが、まさしく、劇場版後編のサブタイトルにもなった、「僕は君を愛してる」という台詞です。


作品の最後において、キャラクターたちが浜辺に集合し、「愛してる」というシーン。あのシーンは、正直直接的過ぎて賛否が分かれるとは思うのですが、しかしあのシーンによって、視聴者ははっきりと、「愛してる」と言い合うことこそが、分け合う関係なんだと理解するわけで、僕は必要なシーンだったと考えるわけです。


記事の冒頭において、僕はTV版を見たときに「愛の物語なんて語られ尽くしたんじゃないか」と思ったことを書きました。しかし、今回の映画をみて思ったのは、例え語られ尽くしたメッセージでも、今そのメッセージを世の中に伝えるべきと考えるなら、はっきりと伝えるべきなんだなということです。


まず「愛してる」ということを伝え、愛を分け合うことこそ、どんなに陳腐に見えたとしても、今必要なことなのだと、僕はこの映画を見て感じました。