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前回の記事を書き上げた後、
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上記の記事で批判されている西井開氏の『「非モテ」からはじめる男性学」という本を読みました。
「あれ?なんか思ってた感じと全然違う本だぞ」
というものでした。
ベンジャミン氏の男性学に関する批判を読んでいると、この本もてっきり「男性がモテようとするのは『有害な男らしさ』だ!反省しなさい!」と主張し、非モテに苦しんでいる男性をただ説教するだけで具体的な方法を何も示さないような本に思えます。
ところが、実際は別に「モテようとする気持ち」そのものを「有害な男らしさ」と切り捨てたりせず、「そういう気持ちが起こるのは当然だ」ということを臨床社会学の技法を用いて分析し、そしてその上で、ではその「モテようとする気持ち」が苦しみにつながらないためにはどうすればいいか、その方法を提示する本でした。
僕からすると、「既存の男性学を疑え」と言いながら、結局「女をあてがえ」という非現実的な弱者男性論の代替を示せていないベンジャミン氏の論より、よっぽど真摯に「非モテ」に向き合っているように見えたわけです。
「なぜモテないか」ではなく「なぜモテないことを苦痛に感じるか」が問題と、西井氏は主張している
ベンジャミン氏は以下の様に延べ、「非モテの苦しみ」は、女性にモテないことが原因なのに、この本はその原因を明らかにすることをしないから、役に立たないと主張します。
たとえば、臨床心理士であり研究者でもある西井開の著書『「非モテ」からはじめる男性学』では、女性と付き合ったことがない「非モテ」の人たちが感じる苦悩の原因は、恋人がいないことや女性から好意を向けられないことではなく、男性集団からからかわれて排除されることにある、と論じられている。また、社会学者の平山亮は、インタビューのなかで男性が自殺することの原因は「男性が支配の志向にこだわりつづけてしまう」ことであると主張した[17]。
まず、西井の主張については「非モテ」の当事者たちのなかにも共感できる人はいるようだが、非モテの苦悩の原因について「恋人がいないこと」よりも「男性集団からからかわれて排除されること」のほうを強調するのは、かなり不自然で無理があるように感じられる。それは非モテの苦悩の一因となるかもしれないが、主因になるようには思えない。
ですが、実際に西井氏の本を読んだ身からすると、このような形の理解は妥当とは言えません。
そもそも西井氏は本の中で
この会はいわゆるモテ講座ではありません。「非モテ意識はなぜ生まれるのか」「どうしたら非モテの苦悩から抜け出すことができるのか」などをテーマに自分を研究対象にし、あわよくば生きやすくなる方法を見つけることを目指します。
という風に「この研究は『なぜモテないか』といったような、原因を明らかにするものではない」と明確に述べています。なぜ西井氏がそのようなことを目指さないかと言えば、なぜモテないかということの原因を突き詰めると、結局「自分がモテない性質を持っているから」という風に、自分を責めるようになるか、「俺を愛さない女が悪い」みたいに、女や社会を責めるようになる。しかし自分を責めても女や社会を責めても、自分も他人も容易に変わらないのだから、それが即座に何か効果をもたらすことはない、だったら「なぜ『モテないこと』が苦痛なのか」というように、問題そのものを客観的に考えられるようにしたほうが良いと、考えるからなわけです。
ちなみに、「自分を責める」「他人を責める」「問題を客観的に考える」ということを、西井氏はそれぞれ
- 原因の内在化
- 原因の外在化
- 問題の内在化
という概念で説明しています。
だから、そもそも西井氏の本は、「『非モテ』の感じる苦悩の原因」と呼ばれるような、非モテが生じる因果関係を明らかにするものではないわけです。そうでなく、非モテの自分を省みながら、その「『非モテである』ことを苦痛に感じる構造とはなにか」を客観視しようと述べているわけです。
そして、「男性集団からからかわれて排除されること」というのは、「『非モテ』を苦しいと思うようになった契機」として提示されるわけですね、つまり、女性の交際相手がいないときに、男性の友人などからそのことを馬鹿にされることにより、非モテを苦しいと思うようになったというわけです。「原因」と「契機」は似ているようで異なります。ただ西井氏は、「非モテを馬鹿にされたこと」が、非モテが苦悩を感じる契機になったと述べているだけで、それが「原因」だと言っている訳では無いわけです。
なぜ「苦悩の原因」をなんとかしようとするのではなく、「苦悩に思うこと」をなんとかしようとするか
僕は、西井氏のこのような手法は、苦悩をカウンセリングする立場からしたら至極当然であるように思えます。
例えば僕は、大学院で研究をしていたときに、うつ病で本や論文が全く読めなくなり、研究が進まなくなりました。そのとき僕は、「研究が進まない」という苦悩をカウンセラーに訴えたわけですが、そのときカウンセラーは別に「うつ病でも本や論文を読んで研究を進めろ」とか言わなかったし、僕も別にそんなアドバイスは求めていませんでした。
確かに、僕が抱く苦悩の原因自体は「研究が進まない」からです。しかし、うつ病になれば研究なんて高度な知的作業ができないのは当たり前であって、別にそこでむりやり「研究が進まない」という原因をなんとかしようと思ってもどうにもならなかったでしょう。
その代わりにカウンセラーが提案したのは、「『研究が進まない』ことをそんなに苦痛に思うのはなぜか?」ということだったわけです。そこで僕は、自分が、自分が思っている以上に「研究できる自分」を自分の唯一無二のプライドにしていたか、逆に、そのこと以外に自分を肯定する術を持っていないか気づいたりし、研究以外に自分を肯定するために、アニメやゲームなどをひたすらやってそのことで満足したりして、そのときはうつをやり過ごした訳です(ただまあ、うつ病との突き合いは今も続いていますが)。
西井氏が非モテの苦悩をなんとかするために取った手法も、基本はこれと同じで、それこそニーバーの祈りで
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
ja.wikipedia.org
と述べているように、「変えられないものは受け入れ、変えられるものを変える。そして両者を峻別する」ものだったわけです。
西井氏は「『非モテ』を苦痛に思わない方法」を、具体的に指し示している
そして、そのように「なぜ『非モテ』を苦痛に感じるか」ということを考えていく中で、西井氏は「『非モテ』を苦痛に思わない方法」として
- 仲間との共有体験
- 打ち込む喜び
の2点を挙げています。
「仲間との共有体験」とは、具体的な目的や、好きな対象を共有するグループに入ることで、「打ち込む喜び」は、一人で何かに没頭することですが、これらがなぜ「『非モテ』を苦痛に思わない方法」だったかというと、どちらも「自分が『まなざし』の対象にならないから」なわけです。つまり、「『非モテ』が苦痛になる構造」とは、他者と自分の間で、どっちがモテるかを比べるからで、そういう比べ合いが存在しない状況なら非モテは苦痛にならないというわけです。
もちろんこういう処方箋が効かない人もいるでしょう。ベンジャミン氏もその一人だったのかも知れません。しかし西井氏の研究会での実践を見れば、効く人も結構居ることが分かるわけです。
万人の苦痛をなくす銀の弾丸がない以上、「効かない人も居れば効く人も居る処方箋を示す」というのは、精一杯の誠実な態度だと思うわけです。
とはいえ、西井氏のやり方が迂遠に見えるという気持ちも分かる
以上のことから、僕は西井氏の「『モテない』ことが苦しく感じることが問題だ」という主張の方が、ベンジャミン氏の「モテないことこそが問題なんだからで、その原因を見つけ出せ」という主張より、有用だし誠実だと感じます。
一方で、そう僕が考えられるのは、あくまで僕が「非モテ」の当事者ではなく、部外の第三者だからというのも、また事実でしょう。
僕は、モテることはなく、34年の生涯で誰とも交際をしたことがなく、性交渉もしたことがない人間ですが、別にそのことを苦痛に感じない*1人間なので、「非モテ(を苦痛に感じる人間)」ではない。ないからこそ、客観的に「西井氏の論の方が好ましいんじゃない?」と思えてしまう。
しかし、当事者からすると、「非モテであることが苦しいのだから、とにかくモテる方法を教えてくれよ」というのが率直な気持ちであるわけで、そこで「『非モテ』を苦痛に感じるのはなぜか考えましょう」と言われても、果てしなく迂遠で、実効性のないものに感じるのは当然です。
だから、そのような当事者の叫びとしてなら、ベンジャミン氏のいうことも、賛成は出来ませんが、理解は出来ます。
研究会という積み重ねが「本」になってしまうことによって生じる齟齬
ここで西井氏を擁護しておくと、西井氏は決して当事者の気持ちに真摯に向き合ってないわけではないと、僕は思います。
というか、西井氏が本で書いたことというのは、まさしく西井氏と当事者の真剣で長期にわたる当事者研究から生まれたものなわけで、その点でいえば、西井氏の本の内容全部、当事者と真摯に向き合ったからこそできあがったものなわけです。
ただ問題は、西井氏は非モテ当事者たちと語り合いと言うことを長期間行ってきましたが、それがそっくりそのまま本に掲載されてるわけではなく、本に掲載されているのはその語り合いの上澄みであるという点です。
これは、本にするなら仕方が無いことです。「非モテ研究会」での会話ログを全部本に入れるなんて不可能ですから、結局本に載せられるのは、最低限の証言と、そこから論証される結論だけです。
しかしそうやって上澄みだけ本に掲載されることによって、本来「非モテ研究会」で得ていたような信頼関係が、読者と結べなくて、上から説教をしているように取られてしまうわけです。
これは、結局「本」という一方通行のマスメディアにおける、構造上の限界と言えるでしょう。これを乗り越えるには、それこそ本で学ぶのはなく、自分たちで実際に「当事者研究」をするしかないと思います。
ただそれでも僕は「『モテない』ことが苦しく感じる」ことを問題視した方が良いと思う
ただ、そのような問題を考慮に入れた上でも、僕はベンジャミン氏の「モテない原因を明らかにしよう」という論の進め方より、西井氏の「『モテない』ことが苦しく感じることを問題視する」という論の進め方の方が、より好ましい論の進め方だと思うわけです。
確かにベンジャミン氏の言うように、「生物学的に言って『モテたい』というのは男性の本能」なのかもしれません。しかし、本能だとしたらなおさら、男性全員が「モテ」になるのは不可能であり、「非モテ」である男性がどうしても生まれる以上、本能によって生じる苦痛が、社会の構造によって増幅されるのを防ぐ必要があるのです。
そして、そのためには「『非モテ』であることの苦痛を増幅する社会構造」そのものを理解し、そして理解することによってそれを解体もしくは緩和する方策を編み出すしかないのではないかと、僕は考える訳です。
それこそニーバーの祈りで言えば、「モテたいのにモテたいということ」は「変えることのできないもの」であり、「『モテないこと』を苦痛に思うこと」が「変えるべきもの」なのだと、僕は思うのです