あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「かわいい」という眼差しの先にあるパーソナリティ消費

amamako.hateblo.jp
前回の記事を書き上げた後、再度アクシア・クローネ本人の動画を見た。
www.youtube.com
見ていて改めて思ったのが、「これ、自分がアクシアのファンだったら大分ショックだろうな」ということだ。特に、もし自分がアクシアを「かわいい」と思って推しているファンだったとしたら、まさしく自分が全否定されたと思うわけで、正直他のライバーを推している自分にとっても、他人事とは片付けられない。

今回の動画に対するネットでの論考

このアクシア氏の告白については、他の人も論考を書かれている。例えばはてな匿名ダイアリーでは「「かわいい」という言葉に潜む棘」という記事が書かれ、
anond.hatelabo.jp
その記事では

当たり前の前提を話すと、活動者に対して「かわいい」と声をかけることが間違ったことには絶対になり得ない。

と書かれつつも、しかし一方で

でも全く問題がないのか問われれば俺は「NO」と言う。そして多くの人は「全く問題がない」と考えて日々生活している。そこのギャップ/認識のズレが今回の問題として表出してきたように感じた。

と書かれ、そしてそこで「かわいい」という言葉が、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定として取られるということが述べられている。

「かわいい」という言葉に内包されているニュアンスとして、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定ということがある。「かわいい」=「ダサい」ではなく、「かわいい」という言葉の一部分に「ダサい」というニュアンスがあることを否定できない、というレベルのことだ。問題は、その部分の割合が男性個々によって違うということだ。だから、ある男性は嬉しく感じ、ある男性は「ダサい」というようなことを暗に言われたと感じるということになる。

一方で、ペシミ氏は「我々は「VTuber」を愛しているのか? ─アクシア・クローネについて」という記事を書き、アクシア氏の発言が一人歩きをすることに懸念を示し、「場の規範」を尊重することの重要性を説いている。
note.com

 今回の件で、「ガチ恋やめろ」とか、「母親ヅラは良くない」という言説だけ一人歩きしてしまうのは良くない傾向だと思う。実際、ガチ恋や母親・恋人ムーブを許容するVTuberは多くいる。最も強調すべきは、「郷にいれば郷に従え」だろう。「概要欄読んどけ」と換言しても良い。

「かわいい」という言葉の裏にあるパーソナリティ消費

これらの論考は、どちらも正論だと思う。しかし、そう思う一方で、何かが足りないような気がする。

「「かわいい」という言葉に潜む棘」において、匿名ダイアリーを書いた人は、「かわいい」という言葉が、「ダサい」「上手くやっていない」という意味を内包することが示され、それは褒め言葉ではないということが言われている。

しかし、そもそもゲームが上手いことだけを求めるのならば、それこそeスポーツの配信でも見ていればいいのであって、そこでわざわざバーチャルYouTuberの配信を見るというのは、「ゲームが上手い」ということとは違う価値を求めているのでは、ないだろうか。

それは、一言で言えば、「ライバーの成長、そしてそれにつきまとう失敗を楽しむ」という側面だ。そして、その側面は、ストリーマーというよりはむしろアイドルに近い。

アイドルとファンの関係について様々な論考が載せられている『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』という本

の第9章「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」において松本友也氏は、アイドルとファンの関係について次のように書いている。

特に、ステージにせよバラエティーにせよ、アイドルが何らかのチャレンジをおこなうときには不確実性が期待される。そしてそれを乗り越えんとする能動性のなかに、あるいはその結果生じる技術的な綻びのなかにパーソナリティがにじみ出す。言い換えれば、「パフォーマンス=演技」の失敗による「素」の漏れ出し(のように見えるもの)が、そこでは期待されている。

(略)

「できなさを愛でる」「成長を応援する」といった言い回しが悪趣味さを感じさせるとしたら、その背後に失敗によるパーソナリティのにじみ出しを期待する心性が潜んでいるからではないだろうか。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(p.201).株式会社青弓社.Kindle版.

つまり、アイドルとしてライバーを見ているファンにとっては、ライバーに期待されるのは「華麗にパフォーマンスすること」ではなく、「一生懸命パフォーマンスすることによって出現するパーソナリティ」であり、そして「かわいい」という言葉は、まさにそのパーソナリティを消費する言葉なのだ。

パーソナリティーを消費するよう人々を仕向ける情報環境

もちろん、アクシア氏はそのようなパーソナリティを消費するファンの欲望について知っている。そして知った上で、「そのような消費はやめてくれ」と言っているのだ。

しかし、そもそもアクシア氏が身を置いている、現代のメディア環境は、個人の「パーソナリティ」を売り物にすることで成り立っているのもまた事実な訳だ。『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』第1章「絶えざるまなざしのなかで」において、香月孝史氏は、現代のアイドルを取り巻くメディア環境について、次のように述べている。

先に述べたSNSの浸透を前提としたメディア環境とは、一面ではアイドル自身がなにがしかの成果物や自身のパーソナリティ、近況などの発信に絶えず駆り立てられることを意味する。だがその反対側では、それを享受する受け手たちによるによる消費のありようもまた、絶えずアウトプットされるということでもある。そうした相互の関係性は、アイドルが自己の承認や表現の場を求めようとする際の重要なよりどころになっていることは間違いない。しかし同時にこの環境は、受け手が投影する様々な欲求が肥大した先に、それら受け手による誹謗中傷や流言飛語が公的空間に向けて発信され続ける場を用意してもいる。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(p.29).株式会社青弓社.Kindle版.

そして、そのような受け手側がアイドルに求める欲求として、戸田真琴氏の論考
fika.cinra.net
を引きながら、次のように述べている。

受け手側の消費行動に関して、さらに戸田が目を向けるのは、アイドルが一人の人格としてよりも、わかりやすく「キャラクター」として消費されていくような事態である。戸田は昨今のアイドル表象に関して、固定的なジェンダー観が解きほぐされてきている実相について慎重にふれたうえで、しかしながら「「男らしい」も「女らしい」も「(男性なのに)繊細」も「(女性なのに)強くて個性的」も、はじめは個々の持っていた性質であったにもかかわらず、「そういうキャラクター」として単純化され認識されてしまう」ことを指し示す。そして、アイドルが人格としてでなく「キャラクター」として扱われていく先にあるのは、「消費者が他者の容姿や性格や性質に対し、一方的に評価を下すことが当たり前になっている環境」である。ここで問題にされているのは、対象を称揚しているかくさしているいるかといった、表面上の意味内容そのものではない。一人の人格であるはずのアイドルを、本人あるいは公に向けて際限なくジャッジすること自体のいびつさ、そしてそうした行動に消費者が慣れきってしまうことへの警鐘である。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(pp.30-31).株式会社青弓社.Kindle版.

アイドル自身がSNSや配信で自分のパーソナリティなどをあらわにすれば、受け手のファン側もSNS上でそのパーソナリティを「キャラクター」として消費していく。それは、アイドルに限らず、インターネットを利用して活動する全ての人にあてはまることなのだ。

もちろん、そのような環境そのものから撤退する自由はある。しかしそれは結局、「メディア上で収入を得ること」の断念につながる。戸田真琴氏は上記の論考で次のように述べている。

本来、アイドルとして公式に受けている仕事で見せる姿以外の、プライベートな振る舞いにおいてまで、「求められる姿」を演じることをファンが要求するのは業務外の過度な要求で、それ自体がアイドルとファンという関係性を超えた越権行為に違いありません。アイドル文化の経済圏がファンの「好意」を主軸として成り立つ以上、ファンの要求はある種命令に近い強制力をはらんでおり、実際には無視し切ることは難しいのだということは容易に想像できます。

アクシア氏は「初配信でかわいいと言われることが嫌だった」理由として、「その配信を見た人が去って行ってしまう」ということを挙げている。もしここで、ただ「他人が自分のパーソナリティを消費するのが嫌だ」とだけ思うのなら、単純にコメント欄を閉鎖してしまえば良いだろう。しかし実際問題として、コメント欄を閉鎖したまま新人ライバーが人気を得ると言うことは不可能に近い。自分の意に沿わないパーソナリティ消費を苦痛に思うけれど、しかしインターネット上で活動するためには、そのような意に沿わないパーソナリティ消費が行われるコミュニケーションの場に頼らざるを得ないというのが、ライバーに限らず、イメディア上で活躍し、その経済で生計を立てる全ての人が追いやられている、袋小路なのだ。

パーソナリティを消費するファンの側が、何が出来るか

上記の論考において戸田真琴氏は、このような資本主義社会が駆動するメディア環境にアイドル側が抵抗するのはほぼ不可能だとし、ファンの側にこそ、世界を変えるためにできることがあると説く。

約5年余りアダルト業界に身を置いてきて痛いほど解るのは、資本主義が人間の尊厳を食いつぶそうと牙を剝くとき、なにかを売る側ができることはとても少なく、主体としての買う側の意識が変わらないと世界を大きく変えることは難しいということです。

消費者が刺激に鈍くなり、より過激なものを求めるほど、つくる側はそれを売ります。その過激なグラビアや映像コンテンツをつくるとき、それを見る人のために、とぐっとこらえるのはいつも、勇気を出して人に見られる仕事をしにやってきた人たちでした。それは私のいる業界ももちろん、今回お話ししたエンタメ業界にも、グラビア業界にも、物書きの人にもクリエイターにも、誰かに消費されることが経済の約束で決まっている人たち皆に訪れるやるせなさです。

世界を変えるのは劇的な力を持ったスターではなく、そのスターを眼差すあなたです。誰を応援しようか、なににお金を払おうか、どんなことに文句を言って、どんなことを賞賛しようか、わけのわからない映画が嫌いだからわかるようにつくれと言うのか、それともわからないなりに楽しむのか、わかるように勉強してみるのか、それを選ぶあなたの手に、ここからの世界がどうなっていくのかの最も重要なハンドルが握られているのです。

では、ファンの側に出来ることとは、一体何なのか。

ここで再び、アクシア氏の動画に立ち戻ります。*1

僕は今まで、アクシア氏の動画を「『かわいい』という言葉で自分のパーソナリティを消費するのはやめてくれ」というメッセージとして読み解いてきました。ですがその一方で、そのメッセージを雄弁に語るアクシア氏に対し、ある種の「かっこよさ」もまた、感じるわけです。

その「かっこよさ」は、上記の動画をアップロードした後に投稿された、次のラップ動画を見るとより強く感じるようになります。
www.youtube.com
正直、この動画にはある種の滑稽さがあります。これは、僕がヒップホップ文化に疎いから感じることなのかもしれません。言いたいことをラップにして語っちゃうという行為に、どうも青臭さを感じてしまうわけですね。

しかし一方で、その青臭さを恥じずに言いたいことを正面から言う姿勢は、まさしく「かわいい」ではなく「かっこいい」ものなわけですね。

つまり、ここでアクシア氏が行おうとしているのは、ただ客体として「かわいい」と言われる存在でいるのではなく、主体として「かっこいい」と見られようとする所作なわけです。パーソナリティ消費が避けられないのだとしたら、自分の意に反する形で消費されるのではなく、自分の見られたい姿を提示しようという試みが、まさにこのラップ動画なわけですね。

僕は、これこそまさに、資本主義に駆動されるメディア環境の中で、ライバー側が出来る抵抗なのだと考えます。

では、このような試みを、ファンはどう受け止めるのか?「自分の理想としていたアクシアじゃない」と拒否するのか、「アクシアって実はこういうキャラだったんだね。それはそれで面白いじゃん」と受け入れるのか。

ボールがあるのは、ファン側の方なのです。

*1:ここから敢えて「だ・である」調から「です・ます調」に変える