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走り疲れたアンタと改めて話がしたい―『NEEDY GIRL OVERDOSE』感想文

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というわけで、早速やってみました『NEEDY GIRL OVERDOSE』、といっても当然この短時間で全クリなんてできるわけもなく、せいぜい見たエンドは自分でクリアしたものが、3個ぐらいと、YouTubeVTuberが配信している中でたどり着いた数個のエンドぐらいなんですが。

で、感想なんですが……やっぱ何というか、心に来るものがありますね。僕も精神的に不安定な思春期をインターネットで過ごしてきましたから、一歩間違えばこのゲームの女の子みたいになってしまう可能性も多々あったわけで、そこで僕が(ここまで)病むこと無く生きていけたのは、インターネットが今よりほんのちょっと優しかった時代になんとか間に合ったのと、あとはもう運でしかないわけです。

実際、僕よりほんのちょっとインターネットに来た時期が遅かったり、あるいは運がなかった子どもたちが、病んでいってしまったのは、ほんと多く見てきましたから。

逆に言うと、そういう点で、僕はどうしても単純にこのゲームを「うわー悪趣味だなー(笑)」と無邪気に楽しむことはできなかったりして。

なぜ1990年代の電波ゲーフォロワーが、今の時代により意味を持つのか。

このゲームの作り手であるにゃるら氏は、1990年代のエロゲー、それも鬱ゲーや電波ゲ―が大好きらしく、そのようなゲームの雰囲気を模してこのゲームを作ったと、インタビューで述べています。
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しかしじゃあ、このゲームは今流行の1990年代回顧のようなものなのかというと、そんなことはないわけです。むしろ、そのような1990年代の電波ゲーを参照点としているからこそ、このゲームは今の時代により意味を持っていると言えるのです。

なぜそうなっているか。それを考えるには、そもそもその1990年代当時の鬱ゲ―や電波ゲ―といったものがどういう時代背景のもとに作られたか、遡る必要があります。

多分これはもう今の若い人には歴史の授業の様な話になってしまうと思うのですが、1990年代というのは、とにかくあらゆるものが「壊れていった」時代なわけです。世界情勢を見れば、ソ連の崩壊や中国の天安門事件によって、「みんなで仲良くより良い社会を目指す」という社会主義の理想が崩れ去り、弱肉強食の資本主義やジェノサイドを起こすような民族主義が世界を覆い、国内でも正社員による終身雇用制度が終わりを告げ、「真面目に働いていれば報われる」というのが幻想に過ぎないことが露呈していく。そして更に高度情報化社会における差異化競争によって、「一体私達は何を望むのか」という価値観すらもばらばらになっていったのです。

要するに、人々がそれまで共有していたはずの「理想」や「正しさ」といったものが、どんどん崩れ去っていったのです。

そして、それに呼応するように、埼玉幼女連続誘拐殺人事件や神戸連続児童殺傷事件、またオウム真理教の一連のテロのように、「はたから見ると狂っているとしか思えないような動機で起きる凶悪犯罪」が、世間で大きく取り上げられるようになります。

そのような社会を、社会学者の大澤真幸氏は「『第三者の審級』が失効してしまっている」と述べています。

これがどういうことかというと、要するに、同じ神を信仰していたり、神は信じていなくても、同じ理想を共有していたりといった、「その行為は一体どのような意味・価値を持つのか」という基準を示す、第三者が、社会からいなくなってしまったということなわけです。

そして、その「正しさの不在」に耐えられなかった人たちが、神戸連続児童殺傷事件で犯人が、自らが信仰していると言った「バイオモドキ神」や、あるいはオウム真理教の信者が信仰した麻原彰晃のような、自分たちの中だけで「正しさを保証するもの」を作り上げてしまった、そういうわけなのです。

そして、1990年代の電波ゲームや、それらに多大な影響を与えた大槻ケンヂ氏といった当時のサブカルチャーも、まさしくその「正しさが存在しない日々をどう生き抜いていくか」ということが、そのテーマの根本にあったわけです。事実、オウム真理教は「コスモクリーナー」や「光の戦士」など、アニメに出てくるイメージを、自らの信仰体系に利用していたり、あるいは大槻ケンヂ氏は神戸連続児童殺傷事件について「自分も一歩間違えば少年Aになっていたかもしれない」と言ったりと、当時の事件とサブカルチャーはかなり近い場所にあったのです。

(より当時の雰囲気を詳しく知りたい人には、竹熊健太郎氏の『私とハルマゲドン』という本を勧めます。

ただ、そうはいっても当時はまだ、理念的に「社会全体で『正しさ』とか『理想』みたいなものが失われている」という段階で、それに不安を抱くのは、正直頭でっかちな「純真まっすぐ君」ぐらいでした。むしろ多くの若者は、そんな正しさなんてどうでもいい。ただ今を楽しく生きていればそれでいいじゃんと思って暮らしていたわけです。宮台氏はむしろそういう若者たちこそ希望だと考え、「終わりなき日常を生きろ」

なんていっていたわけです。

ところが、2000年代になっていくと、そうやって終わりなき日常を華麗にサバイブしていたかのような女子高生たちもどんどん心を病み、「メンヘラ化」していったわけです。


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 まず宮台はこのような戦略をとった。「(生きる)意味」を求めるからこそ、このような惨事が起こる。ならば「意味」を放棄し、「(生きているという実感の)強度」を求める生き方をすればいいのではないか。

 そのような「意味から強度へ」戦略のベンチマークとして宮台は、「ブルセラ少女」を紹介する。彼女らは、「生きる意味」なんて大層なものは求めないし、「未知なる未来」なんて必要ない。彼女らにとって大切なのは「今を楽しく生きること」である。

 その「強度」を高めることを価値とすれば、オウムのような事件は回避できるのではないか。

 しかしこの「意味から強度へ」戦略は、10年も立たない内に崩壊する。宮台が紹介した「ブルセラ少女」が、次々と「メンヘラ女性」に変貌し、自殺を図ったからだ。

 結局、「(生きる)意味」なしで人は生きていけない。それを回避しようとすると、「終わりなき日常」の「あいまい化」した世界に耐え切れず、精神を病んでしまう。

この時間差が一体何故だったのか。それはまた別の問題なので置いておきます。一つ言えるのは、1990年代は頭でっかちの「純真まっすぐ君」の問題だった、「理想や正しさが存在しない社会でどう生きるか」という問題は、2000年代以降、消え去ったのではなく、むしろあらゆる人々に普遍的な問題として現れるようになったということです。

フォロワー数という、神なき時代の「バイオモドキ神」

そして、そんな「正しさが存在しない社会で何を信じるか」、つまり、ゲームに出てくるキャラクターにとっての「(バイオモドキ)神」として現れるのが、まさしく「配信のフォロワー数」なのです。

もし、ゲームに出てくるキャラクターたちが「ただ楽しければどーだっていい」と思うなら、それこそただ薬物に頼ったり、あるいは性行為による快楽に身を委ねていればいいでしょう。実際、このゲームではそういった選択をとり、そのようなエンドを目指すこともできます。しかし、多くのプレイヤーは最初から望んでそのようなエンドに行こうとは思わないでしょう。現実の私たちがそうであるように、ゲームをプレイするプレイヤーにとっても、そのような行為はあまりに「無意味」だからです。

このゲームにおいて、「一体どの選択肢を取るべきなのか」ということを指し示す意味あるものは唯一つ、「配信のフォロワー数」です。だから、他のパラメーターを制御しながらも、以下にしてそのフォロワー数を増やすかということが、キャラクターがゲームの中で配信をする意味であり、プレイヤーがゲームをプレイする意味なのです。

そして、実はこれこそ、まさしく現代における「正しさ」の在り様なのです。これは、配信やSNSでのフォロワー数といったことも含みますが、それだけではありません。例えインターネット外でも仕事の場でも常にKPI(重要業績評価指標、Key Performance Indicator)という形で定量化された成果を出すことを求められ、プライベートでもQOLを向上することこそがやるべきこととされるわけです。

とにかく、「成果」を出すことが重要であり、そしてその成果は数値化されるものであることが、人々のライフスタイルにおいて重要になっているのです。

ですが、ここで問題になるのが、そのような「数値化された成果目標」は、事後的に「自分が行った行為が正しかったか」を判定し、そしてその判定によって「だからこれから先こうしたほうが良いかもしれない」という予測の材料にはなっても、「その時点でそう行動することが正しい」ということを保証するものではないということです。

実際、このゲームをやっていると「この前はこういう選択肢を選んだら良い反応帰ってきたから、次も似たような選択肢を選ぼう」と思っても、それがフォロワーすを増やすのに正しい選択肢ではない、ということが多々あります。ちょっとエッチな配信を行ったらいい反応が帰ってきたからといって、より過激な方向に舵を切っても、逆に引かれてしまったりというような感じで、「配信のフォロワー」という神は常に不確実性を含み、予測と反する行動をするリスクを持つ存在なのです。

そしてそうであるがゆえに、「正しさ」を求めてフォロワー数という神を信じる行為が、むしろその神に振り回され、「自分がどうあればいいのかわからない」という不安を生み出し、そしてその不安を解消するためにさらにフォロワー数という神にすがるという、負のスパイラルが生まれるのです。

つまり、構造的に「フォロワー数」というバイオモドキ神は、その神にすがる限り、メンタルを悪化させ、「メンヘラ化」を促進してしまうわけです。

このゲームで、例えハッピーエンドにたどり着いたとしても、それを信じられない根本原因はそこにあります。例えプレイした30日間がたまたまうまく行ったとしても、「フォロワー数を意味あるものとする」というシステムがある以上、それは必ずやがて破滅へといきついてしまうのです。

「フォロワー数という神」から抜け出しても、そこで待つのは「僕のカルト宗教」

このように書くと、読者の中には

「では、「フォロワー数」なんて気まぐれな神ではない、もっときちんとした「正しさ」を信じれば良いのではないか?」

と思う人がいるかもしれません。しかし、そこで問題となるのが

「ではその『正しさ』は一体誰が保証してくれるの?」

という問題です。
このゲームのエンドの一つに「陰謀論エンド」というのがあります。最初フォロワー数を増やすためにネタとして陰謀論を取り上げていたはずが、取り上げているうちに本人がその陰謀論を信じ込んでしまうというエンドです。このエンドでは、フォロワー数は関係ありません。

このエンドは、一見荒唐無稽に思えるかもしれません。しかし僕は、実は一番このエンドに、自分と近いものを感じたんですね。具体的に言うなら、1990年代に小林よしのりとかにのめり込み、『戦争論

とかを読んでいた自分に。

前回の記事
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の後半でも述べましたが、「社会の中での正しさの不在」に対し、先駆的に警鐘を鳴らしたのは、小林よしのりや、そのブレーンである呉智英浅羽通明大月隆寛(さらに言えばそれら人々を取り上げた町山智浩)といった人たちでした。彼らは、ある時点では「まったり生きればいいじゃん」と言っていた宮台氏とかよりは、「正しさの不在」という問題が人々の実存に与える悪影響を、より深刻に捉えていました。
しかし、そこで深刻に捉えていたが故に、彼らは歴史修正主義ナショナリズムにのめり込んでいき、そしてその延長線上に、ネット右翼や、Qアノンといったカルトを生み出してしまったわけです。

社会の中でもうすでに「正しさ」が失われてしまっている以上、そこで観念的に「正しさ」を生み出そうとしても、それは自分たちの共有する偽史の上にしか生み出せないわけです。そしてさらに言えば、そのように生まれた「正しさ」は、その正しさに同意できない他者の、存在そのものを排除することでしか成り立ちません。

しかし、そうやって作られた「正しさ」は、たとえどんなにうまく言い繕おうとも、結局オウム真理教や、あるいはナチスのようなカルト的なものにしかなりえないわけです。

張り巡らされた絶望から抜け出すためにー「顔のある多様性」をいかに取り戻すか

このように、このゲームをプレイしているとひたすら、いかに今の社会が「病まずにいられない」空間であるか、ということを痛感してしまうわけです。

ですが、そうやって絶望しているなかで、このゲームをプレイしたあるVTuberが、こんな感想を言っているのを目にしました。

「なんでこのあめちゃんは、彼ピの方ばっか向いて、視聴者と向き合わないの?」と。

最初何言ってるんだと思いました。あめちゃんはむしろ彼ピよりフォロワー数ばっか気にしてるじゃんと。

でも、そこでふと気づくわけです。あめちゃん、フォロワー数はほんと気にするけど、「フォロワーがどんな人間で、どんな気持ちでコメントしたりリプしたりしているか」については、類型的に「オタク」とかいうカテゴリーに押し込めるだけで、全然見ようとしてはいないということを。

これは、実はゲームシステムがそう仕向けていたりもします。コメントやリプライは、確かに見えることは見えるんですが、見えるのは発言単体だけで、その人にプロフィールとかはシステム上見ることができないんですね。あくまで有象無象の「発言」だけが見え、それが一体どういうバックグラウンドのもとでされているかは、全然見えてこないんです。

そして見えないからこそ、それを「数値」としか捉えられなくなるわけです。そして、数値としてしか見えないからこそ、その上下に不安になってしまう。

このゲームのキャラクターは「承認欲求」ということを盛んに口にし、承認欲求を満たすために大量のフォロワーが必要なんだといいます。ですが、本当に承認欲求を満たすために必要なのは、「大量のフォロワー」なのでしょうか?

「彼ピがいればそれでいいじゃん」というのは確かに間違っています。それはただの共依存だし、そこに根拠がない以上、結局「常に相手の愛を確認してしまう」という不安定な関係にしかなりえません。

ですが、そこに彼ピとは違う第三者が、お互いに気持ちを察することができるような「顔の見える場所」にいれば、また異なってくるでしょう。そしてその第三者が複数であり、かつ価値観に多様性を持っていれば、さらに安定性は増すでしょう。

実は、本当に必要な承認とは、そのような「顔が見え、多様性がある複数の第三者による共同体」における、「そこにいてもいいよ」という安心感なのではないか。

実は、このようなことは、社会学の引きこもりについての研究でよく言われることだったりします。

「承認欲求」を求める状態とは、社会学的に言えば「存在論的不安」を抱いている状態だと、イギリスの社会学アンソニー・ギデンズは述べています。つまり、「じぶんはここにいてもいい」という安心感が得られないから、「ここにいていいって言って」と他者に求めるわけです。

そして、「ひきこもり」とはまさにそのような存在論的不安を抱えた存在なわけです。よって多くの精神科医は、「まず家族の人たちが『いてもいいんだよ』と認めてあげることが重要です」と述べたりします。

ところが実際は、そうやって家族内で問題を解決しようとしても、ひきこもりはまず良くならないんですね。なぜならそこで家族と引きこもり当事者の間には、先に述べたような病的な共依存関係が生まれてしまうからです。

そこで困った家族は、「引き出し屋」と呼ばれる人たちに、無理やりひきこもりを外に引き出して、鍛え直してもらおうとします。しかしそんなショック療法をしても、「存在論的不安」は強まる一方ですから、結局当人のメンタルヘルスを破滅させる結果にしか繋がらないわけです。

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重要なのは、「ひきこもっててもいいから、家族以外と関わりを持つ」ということです。それは、例えば好きなアニメのファン同士のチャットルームに入り浸るとか、あるいはゲームの仲間のオフ会にでかけてみるとかでも良いです。そういう「家族とは異なる第三者」と付き合うことが、実は引きこもりから抜け出す、一番の治療法なんですね。

配信者でもそれは同じことです。最近、とくにVTuberでは、ホロライブやにじさんじ、774incのように、企業に属したり、あるいは個人VTuberでも、ゆるやかなネットワークを作る動きが盛んです。このような動きを批判する人もいますが、しかしそのように、「顔の見える仲間」を作ることっていうのは、配信においてメンタルヘルスを保つために、実はすごい重要なんじゃないでしょうか。例えどんなに配信で顔の見えないリスナーに叩かれて炎上しても、「おかえり」と言ってくれる場所を持つこと、それこそがこの誰もが病んでしまう現代インターネットをサバイブするの重要なことなんじゃないかと、思うわけです。

VTuberがこのゲームをプレイするときに、口を揃えて言う言葉があります。

「フォロワー数少ないってあまちゃんは言うけど、十分すごい数だよ」と。

なぜ彼・彼女らがそう言うかといえば、例え数十人のフォロワーでも、その数十人を「顔のある人達」として思えば十分すごいことだとわかっているからなわけです。百万人という数字を目指すより、まずは今見てる数十人と向き合おうよと、そう言うわけですね。

もちろん、そんなのあめちゃんや、あめちゃんに共感する多くのフォロワー数に飢えた若者からしたら「満ち足りた大人のお説教」なのでしょう。ですが、数だけを追い求めていたっていつか病んで、ヘトヘトになってしまうわけで、そんなヘトヘトになったときには、このお説教を思い出してくれればいいんじゃないかと、そう思うわけです。

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