あままこのブログ

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経済成長論争ってなんでこう、レッテル貼り対決になるのか

なんか中日新聞上野千鶴子氏が寄稿した文章を元に、またインターネット上では「経済成長は善か悪か」論争が盛り上がっているそうです。
synodos.jp
この論争を読んでいて、ちょっと古参のブロガーなら即、「ああ、またこの論争か」と思うことでしょう。経済成長論争っていうのはそれぐらい、ブロゴスフィアで何度も何度も繰り返し論争の対象になってきた話題だからです。
d.hatena.ne.jp
anond.hatelabo.jp
eulabourlaw.cocolog-nifty.com
大体四年おきぐらいに議論がぶり返していますな。オリンピックか。
しかしそれだけ議論が何回も何回も行われていても、いまだブロゴスフィア内ですら合意形成ができていないのが、この「経済成長論争」というものなわけです。
僕が思うにその原因っていうのは、結局経済成長肯定派も否定派も、相手の議論こそがすべての人々を不幸にする悪魔的政策であるとレッテル貼りするばかりで、経済成長することのメリットとデメリットは何かがわからない。経済成長を推し進める、またはやめるという政策を取ると、どういうタイプの人が幸福になって、そのかわりにどういう人が不幸になるか、それが客観的に示されないからであるように、思えてならないんですね。
それこそ一番最初に示した北田暁大氏の論考でも、「脱成長論は新自由主義だ!」とレッテル貼りをして、脱成長論のデメリットばかり掲げられるけど、それらの反論が脱成長論肯定派の議論とかみ合っているかといえば、正直かみ合ってないと言わざるをえないでしょう。北田氏は新自由主義「小さな国家(緊縮財政)/個人主義的な競争主義/流動性の上昇/貧富の格差の肯定」と定義するけど、それってまさに脱成長論者が「経済成長の弊害」として指摘するものじゃないですか。

結局、経済成長とは私たちの「生活」とどう関係するのか

なぜ経済成長論争がこんな風にレッテル貼り対決にしかならないか。それは、結局経済成長肯定派も否定派も、経済成長それ自体や、その経済成長を人々に強いる、または脱成長を人々に強いるということが、人々のミクロな生活(労働だったり余暇だったり)をどう方向づけるのか、価値表明の前の事実認定の段階での合意形成が取れていないし、取る気もないからではないでしょうか。
いや、マクロな面で言えばそりゃ経済成長の定義っていうのは明白なんでしょう。国内総生産が前年と比べて増加すれば経済成長?とかそんな感じなんでしょう。
しかし、そうやってマクロな現象である経済成長が、人々の一体どういうミクロな営みによって形成されているのか、経済成長が人々を幸福にするか不幸にするか問うなら、まさにそういうミクロな視点から見た経済成長論こそが重要なはずなのに、経済成長肯定派も否定派も、そういうミクロの営みについてはほとんど語らないわけです。
そんな中で、唯一と言ってもいいぐらい、経済成長というもののミクロな意味について語っている文章があります。山形浩生氏の下記の文章です。
cruel.hatenablog.com

 人はGDPとか経済成長とかいうことばだけ覚えて、なんかわかったつもりでいるけれど、それを実感として理解している人はおどろくほど少ない。でも、それは抽象的な数字なんかじゃない。明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。そうした各種の無数の努力が積み重なっていく様子を想像してみなきゃいけない。

僕は、ぶっちゃけ山形浩生氏というのは大嫌いなんだけど、この簡潔な説明にはやはり敬服せざるをえないと思うわけだ。経済成長とは「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。そうした各種の無数の努力が積み重なっていく」ということだという認識。
もちろん、この認識が本当に正しいのかどうかまでは、僕は判断できない。山形浩生氏は経済成長肯定論者だから、経済成長否定論者からするとまた別の認識の仕方があるのだとは思う。ただここで重要なのは、こうやって、「そもそも私たちが生活の中で何をしたり、強いられたりすることで経済成長が起きるのか」という、経済成長というもののミクロな意味を確定させようとしていることでしょう。なぜならこれがまず最初にこれがなされない限り、結局経済成長論は空疎な議論にしかならず、結局レッテル貼りにしかならないのですから。

自分の生活との関連が分かって初めて、その政策について評価できる

なぜこういう風にミクロな観点から経済成長というものが生活に占める位置を確定させることが重要なのかと言えば、こうやってミクロな意味をはっきりすることで初めて、「では人々は経済成長を選択すべきか否か」がわかるからです。
例えば上記の定義に従って言うならば、経済成長を肯定し、経済成長を推し進める政策とはつまり「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことを奨励し、人々にこのように振る舞うよう条件付ける政策ということになります。そして逆に言えば、経済成長を批判し、脱成長を推し進める政策とはつまり、「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことをむしろ悪いことだと考え、人々にこのようにしないよう条件付ける政策ということになります。
このように具体的に、人々の生活をどう条件付けるかが分かって初めて、そのどちらを選ぶか判断ができるわけです。例えば僕なんかは、常に改善を考えなきゃいけない生活とか大嫌いで、出来る限り何も考えないで日々を過ごしたいから、後者の政策のほうが良いと思うわけですが、しかし世の中にはそうではなく、常に改善を考えるのが大好きな人間も居て、そういう人間は前者の経済成長を推し進める政策を支持するでしょう。そして、共通の事実に基づいて、それぞれ独自の価値観を持った個人がある政策について価値表明を行い、そしてどちらの価値を国是とするか、国民が議論を行うことにより、国家として選択をする。
政策論議とはこのようになされるべきだと思うのです。
しかし現状のインターネット上での経済成長論争はこのような場面にいくことはほとんどありません。経済成長肯定論者は経済成長がメリットしかないかのように語り、経済成長否定論者は経済成長がデメリットしかないかのように語る。実際は、経済成長というものが一つの現象であり、それが人々の生活の中から発生する出来事である以上、かならずそれに適合する人もいれば不適合を起こす人もいるはずなのに。
一体なんなんだろうかこれは。議論に参加している人たちは、僕なんかよりずっと頭のいい人ばかりなはずなのに。