あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

この平坦な戦場で生き延びること

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230324/1679624302

現代社会において尊重される「多様性」が。あくまで一定の規格の範囲内のものでしか受け入れられないというのは、確かにそうだと僕も思う。

結局、今の社会が多様性を尊重している理由って、多様性それ自体が目的として尊いのではない。

多様性を尊重し、その多様性同士が生存競争しあうことによって、生産性向上とか、あるいは経済成長とかといった目的が達成されるから、多様性は尊重されるべきという「手段としての多様性尊重」なのだ。

だからこそ、生産性向上とか経済成長とかに寄与しない、「役に立たない多様性」は、適当な理由を付けて社会から排除される。

そしてその社会で人々は、自分がいかにこの社会に役立つ存在かを誇示し、自分以外の他者がいかに役立たない無駄な存在かを示すために、「多様性」を利用する。

確かに現代の社会は、一昔前の社会と比べれば、文化も価値観も多様化している。しかしそうやって文化・価値観が多様化すればするほど、それぞれの異なる文化の衝突も増えている。

一昔前のような「画一な『普通』」が確固として存在していた社会においては、たしかにそういう「普通」側からの抑圧も存在していたけれど、現代のような文化間の激しい衝突は起きなかった。なぜなら、例えどんなに普通でない文化を支持する人・集団があったとしても、結局それらは社会の少数派であり、多数派は「普通」であり続けられると、信じられていたからだ。

ところが、現代の多様な社会においては、確固たる多数派が存在しないが故に、それぞれの文化が、ヘゲモニーを奪取するために絶えず戦うことを強いられる。そしてその戦いに敗北した文化は、存在すら許されなくなっていく。なぜなら、存在を許せば、逆にその異文化が自らの文化を排除しかねないからだ。

本当だったら、この社会を生きる大人として、きちんとこの狂った社会を治す責任があるのかもしれない。

でも、正直それはもう無理なんじゃないかと、最近思ったりする。というか世の中の人々は、むしろそうやって「生産性」とか「経済成長」とかのために、嬉々として人を叩き、殺し合うことが幸福に感じてるように、思えてならないのだ。

せいぜい僕に出来るのは、そのような残酷な社会と人々からいかに遠ざかりながら、せめて自分と、自分の手が届く人は、誰も死なず、誰も殺さない、方法を模索することなのかもしれない。