yoppymodel.hatenablog.com
orangestar.hatenadiary.jp
anond.hatelabo.jp
我 地に平和を与えん為に来たと思うなかれ
我汝らに告ぐ
しからず、むしろ争いなり
今からのち一家に五人あらば
三人は二人に、二人は三人に別れて争わん
父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に
ルカによる福音書、第十二章五十一節
マクルーハン:そのとおりですよ。部族的世界の人間は、互いに殺しあうのです。部族的社会は、危険の絶えない社会です。
インタビュアー:我々がグローバルで、部族的になれば、我々は…
マクルーハン:我々がもっと緊密になれば、互いにもっと友好的になるとでも?
インタビュアー:ええ。
マクルーハン:そんなことはありえませんね。人間同士近づけば近づくほど不寛容になるのです。
インタビュアー:それが人間の本質なのでしょうか?
マクルーハン:狭い環境では、人の寛容度に大きな負荷がかけられるのです。村落共同体の人々は、さほど互いを愛していないのです。グローバル・ヴィレッジとは、強迫的なインターフェイスであり、非常に神経をすり減らす環境なのです。
はてなブックマーク、通称はてブのネガティブコメントを巡る議論が、なんかまたネットで盛んなようで。
僕も昔ははてブのヘビーユーザーだったんですが、正直最近は、トンチンカンなコメントにうんざりしてあんまはてブ見てないのは事実です。だからそれを持って、「今のはてブはひどい。もっと人を傷つけないものに生まれ変わってほしい」と思う気持ちはよーく分かる、わかるんですが……
でも多分、そういう風に変わったはてブは、もはや当初の理念にあった「万人が自由にコメントできるWebサービス」というものではなくなってしまうわけで、そうやってまではてブというサービスを生き長らえるべきなのか、僕は懐疑的になってしまうのです。
今のはてブが不快な空間になってしまう背景にある、感覚のズレ
かつて梅田望夫氏が「はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてブのコメントにはバカなものが本当に多すぎる」と書いた通り、ブログとかニュースサイトとかで文章やコンテンツを発表する人間からすると、はてブのコメントって本当にトンチンカンな、「この人本当に文章読んでコメントしてるのかな?」と思うようなコメントが多々あります。
ただその一方で、はてブでコメントする側からすれば、「別に自分はただ自分が思ったことをはてなブックマークでコメントしただけで、そのことを文章の著者にどうこう言われる筋合いはない」となるわけですね。
実はここに感覚のズレがあるわけです。
コメントされる文章の著者からすれば、はてブにおけるコメントというのは、公開の場で行われる批評として捉えられているわけです。
しかし、コメントをする側の立場からすると、はてブでのコメントは、いわば「本への書き込みメモ」なんですね。本を読んでるときに、多くの人は三色ボールペンとかで重要だと思う場所に線を引きながら、その文にたいして思ったことを書き込んだりする。その書き込みをするときに一々「この書き込みは著者の意見への批評だ」なんて気持ちで書き込みませんよね?
このコメントされる側・する側の感覚のズレこそが、はてブの不快さの根本原因なのです。
つまり、はてなブックマーク、というかソーシャルブックマークというサービスは、そのサービスの利用者にとっては「文章への書き込みメモ」を共有するための場なのに、そこでコメントされる側にとっては「批評」の場として捉えられてしまう、このズレこそが問題なのです。
ソーシャルブックマークの背景にある「データベースの共有」という理念
「文章への書き込み」を共有する、ソーシャルブックマークというサービスがなぜ生まれたか。その背景には、「知識・データはより広く共有されればされるほど、よりよい結果を生む」という、WWWの根本理念があります。
文章への書き込みというような些末な情報でも、それを書き込んだ人の中でだけ抱え込むのではなく、万人がアクセスできる場所に公開すれば、それを見た他人が、その書き込みに触発されてまた新しい発想・思考を生み出すことができるのではないか。そしてそのようにどんどん新しい発想・思考を生み出すことによって、この世界はより良いものになっていくだろう。ソーシャルブックマークというサービスは、このような理念のもと生まれたわけです。
思考の共有によって生まれる「グローバル・ヴィレッジ」
このように、個々人が頭の中にある知識やデータ、さらにそこから生み出される思考が、公開の場で共有され、人々がより緊密に繋がり合いながら暮らしていくことを、マーシャル・マクルーハンという学者は「グローバル・ヴィレッジ」と呼びました。
ja.wikipedia.org
ただ、冒頭に発言を引用したとおり、マクルーハンはグローバル・ヴィレッジというものを、むしろ否定的に捉えていました。人々が思考を共有しながらより緊密に生きていく空間は、むしろ人々の間に緊張を生み、人々を不寛容にさせると述べているわけです。
これと同じことが、はてなブックマークにも言えるわけです
グローバル・ヴィレッジ(地球村)の縮小系としての「はてな村」
「はてな村」というスラングがあります。はてなブックマークや、今はなきはてなダイアリーといったサービスの利用者の閉鎖性を揶揄して使われる言葉ですが、僕は、その言葉を思いついた背景には、マクルーハンのいうグローバル・ヴィレッジ、直訳すると「地球村」となる言葉があったんじゃないかなーと推測したりします。
そして、マクルーハンがグローバル・ヴィレッジについて述べた問題は、実はそのままはてな村にも当てはまるんですね。はてなブックマークにおいては、個々人が行われるコメントは、一緒のブックマークページにおいて並列的に表示されます。そういう場所では、むしろ各々の持つ価値観や思考過程の違いがより気になってしまうのです。そして「なんでこいつはこんなトンチンカンなことを言うんだろう」「なんでこいつはこんなに一々神経質なんだ」という不快な思いがより増幅され、緊張感あふれる場所となってしまうのです。
価値観やバックグラウンドが共有されれば不快な緊張感は解消されるが……
このような不快な緊張感をなくすには一体どうすればいいか。一つ方法としてあるのは、「万人に開かれたサービスを目指すではなく、同じような価値観・背景を共有する人たちによる閉じた場を目指す」というものです。
例えば、はてなブックマークにおいても、IT技術などの専門知に関わるページにおいては、それほど不快な緊張感はありません。それが一体なぜかといえば、そもそもそういう話題に興味を持ちコメントできる人たちは、一定のIT技術を持ち、多くが職業としてそれを生業としているエンジニアに限られるからです。エンジニア同士においては、IT技術についてある程度共通の価値観や解釈を持っていますから、それほどコンフリクトは生まれません。
そして、これをサービス全体に応用し「サービスの利用者に共通の価値観を持ってもらう」ということによって、はてブと同じようなサービスでありながら、むしろはてブより成長しているWebサービスが、NewsPicksなわけです。
newspicks.com
僕のようなはてブ民からすると、NewsPicksなんて、ひろゆきとかホリエモンとかそういう人らに憧れるような人たちが、予定調和なことを言い合って慰撫しあってる、しょーもないサービスに思えてならないわけですが、しかしだからこそはてブみたいなコンフリクトはそれほど生まれず、成長しているわけなんですね。