あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

ネットの汽水域では生きられない「厄介な人」について

p-shirokuma.hatenadiary.com
シロクマ氏の記事、基本的な部分としては同意しかありません。というか、まあ同じような話は、それこそ何回もしてきたわけで。
amamako.hateblo.jp
上記の記事で述べられてる「はてな村(的などこか)」というのは、要するに上記の記事で言う「駄サイクル」で、そして多くの人にとっては、「駄サイクル」的な場所でこそ、自らのインスピレーションを滋養する場所になるというのは、至極まっとうな話だと思うわけです。

ただ、そのように思う一方で、自分個人の経験に沿って言うならば、こうも思う訳です。

いや、はてな村ってそんなやさしい場所じゃ無かったよ」と。

そりゃまあ、シロクマ氏とか、あるいは下記のブコメで挙がってるような

帰ろう、はてな村(的などこか)へ。 - シロクマの屑籠

kanose、otsune、はしごたん、Hagex。レイプレイ事件ではオタクは犯罪者予備軍なんてな議論がなされ、飛び交う手斧(idコール)でブクマタワーが天井まで行くことも、承認欲求が一世を風靡する中、綴られたはてな村奇譚。

2022/11/25 13:31
b.hatena.ne.jp
はてな村民の代表格と言えるような人たちかすれば、はてなダイアリーのような場は、「自由に、ゲコゲコと、かえるのうたを歌」える場所だったのかも知れませんが、

はてな村」や当時のツイッターは、まさに井の中の蛙の空間でした。あるいは湾や入り江や汽水域のようなものでしょうか。グローバルな大海に一応繋がってはいるけれども、意識としても実装としても現実としてもたかが知れていて、身内的で、だからといってFacebookとも違っているインターネットの数ある小さな井戸、または水たまりでした。そこで私たちは自由に、ゲコゲコと、かえるのうたを歌っていたわけですね。

当時はてな村の片隅で記事を書いていた僕からすれば、そんな安心感を感じたことはほぼなくて、むしろ「ここは戦場。やらなきゃやられるんだ!」みたいなプレッシャーを常に感じていたわけです。

ていうか、はてな村に限らず、自分の考えを世に出して発表するとき、僕は常に「これで誰かから叩かれるかも知れない。ていうか絶対叩かれるんだろうな。」という恐怖を抱いてきました。自分が、割と他人を叩くことに躊躇がない人間だからこそ、他人も、自分がちょっと隙を見せたら即叩いてくるだろうなと、そう思っているわけです。

「そんな考えで常に居たら疲れない?」と思う人も居るかも知れません。そんなの、疲れるにきまっています。「叩かれる心配がなく、自由に意見を発表できる場所」というのは、僕の憧れだったし、そして、そういうネットコミュニティと関わりを持とうとしたこともありました。

でも、なぜか僕は、そういう安心できる場所に行くと、途端に筆が止まってしまうんですね。そして、なぜか「この優しさの欺瞞を暴きたい」と考え、みんながぬるーく思いを吐露している場所で、いきなり他人を攻撃する長文をあげたりしてしまう。で、そこのコミュニティの人たちと喧嘩して、コミュニティから追い出されてしまうわけです。

多分、あまりに考えを叩かれることが日常だったがために、逆にそういう場所に適応した形でしか、自分の文章を書けなくなっているのだと思うのです。

もちろんこれは、ネットリテラシー的にも、精神衛生的にもよくないことなのでしょう。大多数の人、特にこれからネットの海に飛び込んでくような若い人たちには、絶対こんな立ち振る舞いしかできない大人にはなってほしくありません。

その一方で、僕が思うのは、「でも結局自分は、これまでこういう生き方しか出来てこなかった以上、これからもこういう生き方しか出来ないんだろうな」という、ある種諦念にも似た感情です。

世の中の多くの人は、いきなり叩かれることなく、心理的安全性をもってみずからの思いを吐露できる場所、まさにネットの汽水域みたいなものが必要なのでしょう。

しかし、中には、そういう汽水域ではむしろ息苦しくなってしまう、端的に言って「厄介な人」もいるわけです。

そういう人は、例え汽水域のような場所を見つけても。自分からそこを荒らしてしまう。そして、大海に追い出され、消耗していき、やがて、自らの身を亡ぼす。

でも、そういう生き方しか、できないんだよなあ。

そして更に言えば、そういう生き方に、ある種の「美しさ」を感じてる自分も、いるのです。