あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「聖」と「俗」が融合するレヴュー―劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトネタバレ感想(2本目)

www.youtube.com
というわけで、今日も今日とて少女☆歌劇レヴュースタァライトを見に劇場に通うあままこです。
鑑賞一度目の感想はすでに書きました
amamako.hateblo.jp
が、当然こんな一つの記事だけで語り尽くせる映画なんかじゃないわけで、何回も見れば見るほど「あ、このシーンはこういう見方もできるのか!」と、新しい気付きが得られるわけです。
で、そんな中で今回は「『聖』と『俗』の融合」という側面から、少女☆歌劇レヴュースタァライトを語ってみたいなと思います。

もともと、演劇とは「聖」と「俗」が触れ合う場所だったのが、はっきりと分離されるようになった

演劇の起源が一体どんなものなのかには諸説あるみたいですが、一番有力なのは「宗教儀式」から発展したという説だそうです。
そして実際、古代ギリシャなどで劇の題材となったのはまさしく神々の話、神話なわけで、神様とか宗教とかといった、「聖なるもの」を表現していたわけです。
しかしその一方で、古代・中世の劇においては、演劇が演じられる円形舞台と観客席は距離的に近く、また観客は野次などで盛んに舞台に茶々を入れたわけで、「俗なるもの」と「聖なるもの」が極めて近しいところにあったわけです。
ところが、ルネサンス以降になってくると、徐々に舞台と観客席は離され、舞台裏も見えにくい、いわゆる額縁舞台とよばれるような形になり、また私語をしてはいけないといったマナーも生まれ、「聖なるもの」を演じる舞台と、「俗なるもの」である観客席は離されるようになったわけです。

次々に分離し、分裂していくことが求められる現代社

そして、このように世の中を「聖なるもの/俗なるもの」という風に二分し、前者と後者を分離するやり方は、演劇に限らず、社会のあらゆる場面で行われるようになりました。「公私の区別」もその一つと言っていいでしょう。
さらに言えば、現代では、私的な空間でさえ、「このクラスタの付き合いにおいてはこういう『私』でいるけど、別のクラスタとの付き合いでは別の『私』でいる」というように、人格を分裂させることが要求されます。そこでは、うまくそれぞれ向けに「見せたい私」を分離しながら見せることが、より上手に世の中を生きるテクニックとなるわけです。

演劇だからこそ、「聖」と「俗」が融合される

ですが、この映画は、演劇をテーマとしながら、というか、演劇がテーマだからこそ、このような「聖/俗」「公/私」といった区別に反旗を翻すわけです。
この映画では、主に5つのレヴューが繰り広げられるわけですが、その全てに共通しているのは、「外面に隠された内面をさらけ出す」ということなわけです。社会生活をうまくやっていったり、うまく人間関係を保ったり、あるいは自分のプライドを守るために作り上げる「外向けの自分」、しかしそういった外向けの作った自分は舞台では通用せず、結局自分の真の姿をさらけ出さなければいけなくなる。演出は豪華絢爛で様々な意趣をこらしていても、骨格をなすのはそういったシンプルなメッセージなんですね。
「舞台の上で役柄を演じる」ことと「自分の内面をさらけ出す」ことは、普通は正反対のこととして捉えられます。しかし実はそうではないというのが一番良く分かるのが、天堂真矢と西條クロディーヌのレヴューでしょう。
このレヴューは、まず額縁舞台から始まります。天堂真矢が演じる舞台女優と西條クロディーヌが演じる悪魔は、ある契約を結びます。それは「最高の舞台を演じさせる代わりに、お前の魂をいただく」という契約です。
しかし、いくら舞台を演じても、天堂真矢の魂は見えてこない。そこで天堂真矢はこう言うわけです。「私はなにもない器であるがゆえに、あらゆる演技を演じることができる」と。
しかし、そこで一旦破れたかのように見えた西條クロディーヌがこう言うわけです。「器だって?あんたの中身は、怒りも嫉妬も傲慢もある人間だ」と。
そして、レヴューが再開し、舞台が額縁舞台から円形舞台へと変形していき、今度はクロディーヌが真矢を圧倒するわけです。聖なる崇高なものとして現れた天堂真矢と、俗なる卑近なものとして現れる西條クロディーヌ、しかし舞台の上ではそそれが反転し、最も俗なるものが聖なるものへ、卑近なるものが崇高なものへと描かれるわけです。
このように、日常や一般社会から離れた秩序のところで、聖と俗の融合を見せるというのは、まさしく演劇だからこそなしえることと、言えるでしょう。

そして「日常」と「舞台」の垣根もまた、取り払われる

そして更に言えば、この映画では、「日常」と「舞台」の垣根もまた、取り払われます。
一回目この映画を見たとき、僕がちょっと不満に思ったのは、「愛城華恋の過去シーンが多すぎない?」ということでした。正直言えば、そんな過去シーンをいっぱい見せられるよりは、もっとレヴューをいっぱい見たいと、そういう気持ちだったわけです。
しかし、2回目にこの映画を見ると、「そうやってレヴューと日常を分ける考え方を、この映画は否定しているのではないか」と思うようになったわけです。
レヴューシーンだけを見てれば、愛城華恋を含め舞台少女は全く自分たちと異なる「舞台の上の存在」として私たち観客には認知されます。つまりそこでは「舞台」と「観客席」に確固たる壁があり、そしてその壁は決して壊れないものとなるわけですね。まさしく、映画中で愛城華恋は、その壁によって、「舞台上に取り残されてしまう」わけです。
しかし実際は、舞台少女である彼女たちもまた、日常を生きる一人の人間なわけです。日常の中で友達と過ごしたりしながら、しかしその中で普通の学生なら味わえる楽しみを我慢して、舞台に向かっている。その点で、舞台と日常は、つながっているのです。
だから、愛城華恋が舞台少女として自らを再生産するには、日常シーンを描き、それを燃料とする必要があったのです。舞台と日常の壁を壊し、日常にも戻って、またそこから舞台を目指すために。
劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトを見る快楽の中には、日常や社会で生まれる様々なしがらみや垣根を取っ払い、人々を解放するという側面もあるのかなと、2回目の視聴では、思ったのです。
と言ったところで、僕はこれから3回目の視聴に行きますので、そろそろ失礼させていただきます……