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〈私たち〉から〈私〉に至る物語―劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトネタバレあり感想


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というわけで
amamako.hateblo.jp
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と書いてきた少女☆歌劇レヴュースタァライト感想文ですが、いよいよラスト、劇場版です。
みなさん、劇場版は見ましたね?この記事では見たことを前提としてネタバレ全開で感想を書くので、見てない人はいますぐページを閉じて、映画館へ直行してください!








再び生まれるためには、一旦死ななければならない

この映画、スクリーン上はほんと奇想天外豪華絢爛な映像描写で埋め尽くされていますが、しかしTV版と同様に、物語構造は単純です。「列車は次の駅へ、では舞台は?」という問いを投げ、そしてラストで「舞台もまた、次の舞台へ」と締める。言葉にすれば実に単純で、陳腐ですらあります。
しかし、映画を見た人ならわかるでしょう。「次の舞台」へ進むということが、実はいかに怖いことなのか。次の舞台へ進むということは、一旦自分たちの「死」を認めることでしか成し遂げられないのです。それは決して、穏便でなごやかなものではなく、激情迸り、そして、痛みを伴うものなのです。
しかしそれでも彼女らは「次の舞台」へ進もうとするのです。なぜなら、そこにしか次の「きらめき」はないから―。

「皆殺しのレビュー」の興奮

物語は、3年生となり卒業を控えた9人の日常描写から始まります。主人公の愛城華恋と神楽ひかりを除いた7人は進路も決め、まるであの舞台で戦った日々が嘘のような穏やかな日常を過ごしています。それはまるで思春期を過ぎ大人になったかのような、安堵と、退屈さに満ちた日々。
しかしそんな日々は突然、鮮血とともに切り裂かれます。切り裂くのは、我らが大場なな!そして彼女はこう言うわけです。「あなたたち、もう死んでるよ」と。
いやあ、この「皆殺しのレビュー」を見たときの興奮、そうそうこれこそが「少女☆歌劇レヴュースタァライト」のスピードだ!という感じですよね。通常、私達は舞台というものを虚構と捉え、舞台を降りたこの日常こそが現実だと捉えます。しかし、最初の日常描写を見れば分かる通り、結局日常っていうのは「うまくやり過ごす」ことができてしまうから、たとえそこで本当は死んでいるものでも、まるでゾンビのように「生きているふり」ができてしまう。しかし、舞台に立てばそのような嘘はかんたんに見破られ、「お前はもう死んでいる」という事実を突きつけられるのです。舞台の上では、決して「嘘」は通用しないから。

私にとっての「日常」は、誰かにとっての「舞台」

では、彼女たちにとって日常は、全く意味のない空間なのか?
そうではないと観客に教えてくれるのが、その後に挟まる決起集会の様子です。
そこで描かれるのは、これまでTVアニメでは描かれてこなかった「裏方」側の頑張りです。
演者が舞台の上でかがやくために努力し苦悩するように、裏方もまた、よりよい舞台を作るためにそれぞれの現場で努力し、身を引き裂かれるような苦悩を抱えながら、前に進もうとしている。自分にとっては単なる「日常」にすぎない空間も、別の誰かにとっては一世一代の「舞台」であり、そこで頑張っている誰かがいるのです。
そう、人は誰しも「舞台」から逃れることはできない。そのような気付きの効果が、このシーンにはあるのだと思います。

自らの死を受け入れ、そして再生する

そしてそのような気付きを得て、演者は再び舞台の上に戻り、そこで、「死んでいる自分」と、向かい合います。きらめきを諦め、ただ「生きているフリ」をすることによって日々をやり過ごそうとしていた自分。しかしそれは結局、どんなに生きているふりをしようが、「死体」でしかないのです。そこで再び自分を「再生産」し、彼女たちは再び舞台に舞い戻るのです。

〈私たち〉という観念から、〈私〉というエゴへ

では、その舞台で彼女たちが演じる演目とは一体何か?それは、端的に言えば「〈私たち〉から〈私〉に至る物語」です。通常、私たちは社会的生活を送る中で、自分という存在をある程度抑圧し、社会的に適合できる「私たち」という集団的アイデンティティを持って暮らしますが、しかしそのような社会性を解き放ったところに強烈な「エゴ」がなければ、人は舞台で輝くことができないのです。そして、そのエゴを獲得できる場所こそが、舞台なのです
まず香子と双葉のレビュー、このレビューは、言ってしまえばとてつもなく豪華な夫婦喧嘩と言っていいでしょう。本音を言わず建前ばっかり言う双葉と、その双葉を挑発して本音を引き出そうとする香子。そしてついに双葉は自らの本音をさらけ出す……そうやって喧嘩できる双方がエゴを手に入れたからこそ、多分この二人は未来永劫喧嘩しながら付き合っていくのでしょう。お幸せに。
続いてまひるとひかりのレヴュー、ここではまひるはTV版では示さなかったひかりへの本音をぶちまけます。TV版とは反対に、最初「あ、これコメディ調なのかな?」と思わせておきながら、急転直下訪れるホラー演出。この正反対の二面性こそ、まさしくまひるちゃんの個性なわけで、そしてその演技により、ひかりも、自らの「本当の気持ち」に気付く……これもまた、「私」という自己認識を獲得する物語といえます。
そして更に純那とななのレヴュー、僕はこれが一番好きかもしれません。とにかくななちゃんの純那ちゃんへの追い込みの苛烈さ!僕は、一番純那ちゃんに感情移入してしまうんですが、しかし実はこの映画で一番危うかったのって純那ちゃんで、他のキャラはなんだかんだ言って、自分が「死んでいる」ことに、今気づかなくてもこの先気付くと思うんですが、純那ちゃんみたいなタイプは下手に口が立つから、「いや別にこれが私の選びたかった私だし、死んでないし」と、自分を含めてごまかしちゃえるわけです。そして実際周囲からも「昔目指した目標とは違う場所にいるけど、本人は満足そうだしいいか」と思われてしまう。
でも、やっぱななちゃんはそこに気付けるわけです。そして圧倒的否定を純那ちゃんに突きつける。いやほんと、ななちゃんという化け物が、宗教とかの教祖にならなくて、演劇界に居てくれて良かったなぁ……と思いつつ、そこで純那ちゃんはとことんまで追い詰められ、自らの死というトラウマを直視させられることによって、再生を果たすわけです。
正直、この展開は、TV版エヴァの最終回が「自己啓発セミナーじゃん」と言われたように賛否あるだろうと思います。ただ、ななちゃんが、自らの演技によって純那ちゃんを覚醒させるためには、こういうやり方しかなかったと思うし、結局当人たちが納得しており、さらに言えば観客も、なんだかんだ言ってそれを楽しんでるわけですから、外部が口出すことではないでしょう。
そして、クロディーヌと真矢のレヴュー、これはもう……ただひたすらに美しいとしか言いようがないですね。特に、あの額縁の向こう側に真矢がクロディーヌを見るシーン、あそこの美しさに匹敵する美しさのシーンを、僕はアニメで見たことがない気がします。
そして、このクロディーヌと真矢のレヴューもまた、「自分は役柄を完璧に演じる器」なんて超然とした態度を取る真矢の、隠されたエゴを暴く、そんなレヴューとなっているのです。

観客もまた、舞台の上で自らを燃やす

そのようなレヴューが行われる仲、キリンがひかりの前に登場し、この舞台でのキラメキが、キリン自らを燃料として生み出されるということを告げ、自らを燃やします。
このシーンがなぜ重要か。TV版においてもキリンはまさしく観客の身代わりとして登場し、この「奪い合う物語」を望んでいたのは実はこのアニメを見ている観客だと気づかせたわけですが、しかしその観客もまた、その欲望のために、自らを燃やしさえしている。「演者/観客」は、どっちかがどっちを搾取するのではない、共犯関係なのだと、この映画は宣言するわけです。

「観客席って、こんなに近かったんだ」」

そしていよいよひかりと華恋のレヴューが始まります。そしてここでひかりは華恋にこう告白します。「あなたのファンになるのが怖かった」と。
TV版のラストは一言で言うなら「ひかりと華恋、二人の運命のレヴュー」でした。それはそれで良いのだけれど、でも本当に当人たちはそれで満足なのか?舞台少女なら、やっぱり自分一人こそがスタァになりたいのではないか?華恋はそれに気づいていないが、ひかりはそれに気づき、しかし華恋と一緒だと、華恋こそがスタァであると気付かされるから、逃げ出したわけです。
そして、このひかりの告白を受けて、華恋も気付きます。「自分こそがスタァになりたい」というエゴに。そして、二人のエゴがぶつかり合う。レヴューが、クライマックスを迎えるのです。
結果、スタァとなりレヴューを演じきる華恋。そこで華恋はスクリーンの向こう側の、私たち観客を眼差してこういうわけです。
「観客席って、こんなに近かったんだ」と。
今まであくまで〈私たち〉という舞台の仲間に向かって演技していた華恋が、ここでとうとう観客に向かって〈私〉を見せる、舞台少女となる。
そうやって舞台少女となった華恋。そんな華恋にとって、「列車は次の駅へ、では舞台は?」という問いへの答えは簡単ですね。

「次の舞台へ」と、なるわけです。

たとえ傲慢と言われようが、「私だけが輝きたい」という欲望は止められない

とかく悪目立ちすれば叩かれる現代において、人々は常に「自分が群れから外れてないか」「一人突出していないか」を気にします。
だから何かを主張するときも、自分ひとりがそう思ってるんじゃなくてみんながそう思ってることを確認し、そしてそれが叩かれたときはすぐにそれを切り離せるように、「私」が現れない場所で表現をしようとする。
しかし実は、そういう表現で満足できるうちに、「私」という存在は少しずつ死んでいくのです。もちろん、それでもかまわないと思うのは自由です。でも、そこで「でもやっぱり、私だけが輝きたい」と思う人間というのはいるのです。
この物語は、まさしくそういう、「私だけが輝きたい!」という願いが、決して否定できるものではないと、観ている人に伝えてくれる、そんな物語なのだと、僕は思いました。

最後にその他気になった小ネタ

  • 地下鉄を使ってるシーンでは、もちろん僕なんかは『輪るピングドラム』を連想したのだけれど、地下鉄の使い方という点ではこっちのほうがずっとうまいなぁと。駅と駅の間の何もなさや、目に見える地理とは関係ないところに独自のネットワークを持つ(東京とロンドンがつながっても不自然ではない)ことといった、地下鉄独自の特性をうまく物語に取り込んでいるわけで。
  • TV版を観ているときは、裏方とか顔を塗りつぶして黒子にすればいいじゃんとか思ってたけど、そういう表現を敢えて取らなかった理由が劇場版でよくわかった。それぞれが、それぞれの舞台を生きているんだねぇ。
  • デコトラってここまでかっこいいものだったのか……「トラック野郎」とか見るべきだろうか。
  • ななちゃんの軍服は反則だよ……ほんと、時代が違っていればとことん危険な女の子だ
  • TV版で架け橋になった東京タワーが、劇場版で崩壊する。この隠喩の快楽を浴びためにも、劇場版だけ観てる人は、ぜひTV版を観てほしい。