あままこのブログ

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「エヴァンゲリオン」という現代のサブカルチャーの原型(シン・エヴァ感想文)

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というわけで、だいぶ前にシン・エヴァは見終わってたんですが、やっと心の中で踏ん切りがついたので、エヴァの記事でも書きますか。

エヴァについての記事を書く」ということ自体が、何らかの立場表明だった時があった

といっても、おそらく若い読者にとっては「何をそんなに踏ん切りをつける必要があるのよ?」と思われるかもしれません。別に普段アニメ映画を見てあーだこーだ言うように、シン・エヴァについてもあーだこーだ書けばいいじゃないのと、そう思われることでしょう。
でもね、今はもう「オタクなんだからエヴァ見てるでしょ?」みたいなことが当たり前に語られる時代ですが、僕がオタク自意識を芽生えさせた90年代後半〜00年代は、「エヴァについて語るかどうか」自体が、ある種その人のオタクとしての立ち位置を規定する踏み絵だったわけです。そして、どっちかというと僕の周りのオタクは、「エヴァについて真面目に語っちゃうとか、ちょっと恥ずかしいよね」という空気が強い感じのオタク界隈だったんですね。
今でこそ、「アニメとかマンガとかが大好きな人」ぐらいまで意味が希釈されてしまった「オタク」という属性ですが、エヴァ放映前後の頃は当時はもっと色々めんどくさい存在だったわけです。その面倒臭さとは、「ある作品に対して、それは真正面から受け止めるのではなく、斜めに受け流す」ということです。
それこそエヴァで例えるなら、エヴァを見て真面目にシンジなりアスカなりレイの境遇にシンクロして、「これ私のことだ」なんて自己投影したり、庵野監督の演出を見て「かっけー」なんて思うのは、パンピーのやることなんだと。真のオタクはストーリーとかそんなものを真面目に読んだりはしないし、かっこいい演出とかみても、「これって結局実相寺昭雄のオマージュじゃん」とか「極太明朝がエヴァ発明とか思ってる素人うぜー、金田一みて出直してこい(笑)」とかいう風にちゃちゃ入れるのが、正しいオタクのありようだとされていた界隈があったわけです。
そして、当然そんな界隈から見れば、エヴァを見て「この描き方は現代社会の反映で〜」とか言ってる学者とかは鼻で笑われる存在だったわけです。
ただ、当然オタクの中にはそういう茶々を入れる見方に反抗して「いや、エヴァは真面目に考察しなきゃならない」と思うオタクもいました。その2つのオタク界隈の対立は、当時本当に激しくて、中には裁判沙汰にまでなったケースもあったわけです*1

で、そんな風にオタクが2つに分裂して、対立が起きている中、僕は「いや確かに真面目にアニメについて語っちゃうとかかっこ悪いし、でもやっぱ本気で真面目に共感しちゃう部分とかもあるし……」と、アンビバレンツな態度をとりながらオタクとして成長していったわけです*2。だから、そういう対立が過去のものとなった今でも、エヴァについて語るときは「一体どっちの立場に基づいて言葉を紡げばいいんだろう」と、悩んでしまうわけです。
しかし、そもそもそういう対立構図に囚われているという事自体を、卒業すべきなんじゃないか。今回のシン・エヴァを見て、僕はそう思ったので、この記事を書きます。

僕個人は、もはやシン・エヴァに対しての執着はなかった

ただ、ぶっちゃけて言うと、僕個人の執着という点では、シン・エヴァについては、もう「破」の時点で、「あ、これは別に見るべきものではないな」と思っていました。当時はこんな記事を書いていますね。
amamako.hateblo.jp
なんでそんな風に思ったかといえば、僕にとってのエヴァとは結局「旧劇のシンジとアスカの物語」であり、シンジが泣きながらアスカの首を絞め、アスカが「気持ち悪い」とつぶやく、そのシーンがすべてだったからです。もしシン・エヴァについて見るべきものがあるとすれば、それはあそこで首を絞めた惣流アスカにシンジがどう向き合うか、その一点だけだと思っていました。ところが結局、破で惣流アスカは死んじゃったわけで、それ以降形だけ似た式波とかいう奴が出てきても「はいはい、キャラクターを一から作るの面倒くさいから使いまわしただけでしょ」としか思えなかったわけですね。
ですから、僕個人の執着は「破」で終わっています。このあと、庵野監督が何作ろうがもう、僕個人の執着とは関係ない。僕は僕個人で、あの旧劇ラストの「気持ち悪い」を抱えて生きていくしかないんだなと。そしてその気持ちは、エン・エヴァを見終わった今もって変わっていません。

エヴァのキャラクターのどうしようもない「古さ」

ただ、そういう僕個人の執着を抜きにして、ただのアニメ作品としてシン・エヴァを見ると、また別の感想があるんですね。
まず感じたことは、「映像表現はものすごく進歩してるんだけど、キャラクターはすっかり古びてしまったな」ということです。
シンジにしろアスカにしろレイにしろ、なんかこう、古いおっさんらが「若者ってこういう感じに悩むものだよね」と想像した通りの悩み方の範疇を超えてこないというか、それを「健全さ」として褒めるのはたやすいことなんだけど、じゃあ今実際に思春期を生きてる悩める子どもたちに、この物語が伝わるかといえば、それは全く伝わらないだろうなと思うわけです。それこそ旧エヴァ放映当時なら、レイの真似して腕に包帯巻いたりしていたであろう女の子が、じゃあこの映画見て「そっか、私も田植えとかして汗水たらして働けばいいのね!」とか思うかといえば、そんなこと全く思わないだろうと、思うわけです。
さらに言えば、旧エヴァ当時には立派な問題としてあった「どうやって大人になればいいんだ」という問題自体が、もはや今の時代は古ぼけたものになったしまっているわけです。それこそ今どきの若者の目指す像を体現しているであろうアイドルやYouTuberや起業家とかに求められるのは、「いかに大人にならないか」ということだったりするわけです。固定概念とかを持たず、常に新しいことに関心を持ち、成熟なんかせず絶えず変化をする「子ども」であり続けることが、むしろ社会的にも奨励される、そんな時代がこの20年代なわけで、そんな時代に「地に足つけて働く村の大人は素晴らしいね」「それに比べていまだに過去に囚われ続けてるゲンドウはだめだね」みたいに描かれても、ピンぼけにも程があるわけです。
で、そういう土台の思想がどうにも古びたものであるにも関わらず、映像表現は最先端であるがゆえに、物語と映像がどうにもマッチしないわけです。それこそこれでジブリ映画みたいな映像だったらまだ「あ、古き時代を描きたかったのね」で一つの完成度高い作品になるとは思うんですけど、古き時代のイデオロギーと最先端の映像表現がセットなもんだから、どうにも噛み合わなくて、ただ映像が遊離して「すごい映像だね」で終わってしまう。
その遊離が端的に現れてるのが、ラストのあの実写のシーンです。あれを褒めてる人がインターネットでは多くいますけど、僕は正直あれ見て、ちょうど名探偵コナンの劇場版みた後だったから「コナンのパクリじゃん」としか思えなかったんですね。なぜなら、あそこでドローンで街を写す意味が、少なくとも僕には全くわからなかったからです。
旧劇の実写シーンは、それを「実写」で撮ることにはっきりとして意味がありました。映画館での実写、声優さんたちのコスプレ、あれはまさしく「庵野監督の私的体験」であるという必然性と、アニメに唐突に実写が挟まることによる異化作用が相まって、ビンビンに「あれ、自分やべーもの見てるな」と思わせる表現だったわけです。
ところが、シン・エヴァのラストも、じゃあそういう風に庵野監督のライフヒストリーに結びつけるのかなと思えば、ドローンで空飛んじゃうわけですよ、庵野監督は空飛べますか?飛べないですよね?じゃああの視点は何の視点なのか、少なくとも僕にはわかりませんでした。
だから、最初に思ったのは「こんなの見るんだったら、普通に名探偵コナン二回見とけばよかったな」です。

楽しんで見れる歴史的資料としての「シン・エヴァ

ただ、それから家に帰ってYouTubeで好きなバーチャルYoutuberの配信とかを見て思ったのが、「でも確かにあれが当時のエヴァであり、あそこからすべてが始まったんだよな」ということです。
例えば今、地雷系とか量産系とか病み系とかいう感じで、ちょっとメンタルヘルスに難を抱えた女の子が、「かわいい」ものとしてポピュラーカルチャーに現れてきているわけですが、そういう「元気で快活だったり、模範となるような女の子でない女の子キャラ」が大きく日の目を浴びたのは、やっぱり綾波レイであったり惣流アスカラングレーだったりするわけです。エヴァが社会現象になったからこそ、「あ、ちょっとメンタル病んじゃっても、それも萌えポイントのひとつなんだね」みたいな風に思えるようになったわけです。そしてそういう土台の上で、「でも本当にメンタル病んでる子ってもうちょっとこうだよね」と、それにリアルな肉付けがされていったり、あるいは「そういうのってでもみんなが真似すると逆に没個性だよね」みたいな自己言及性を持ったりしていき、今の最先端の病み系キャラクターが生まれてきたわけです。
※例:
amamako.hateblo.jp
また、それこそTV版の最終回で「理想の学園生活」をパロディとして描いたことにより「今まではアニメとかでは仲のいい学校生活みたいなのばっか描かれたけど、そんなの嘘くさいよね」ということで、リアルなスクールカースト描写みたいなものが生まれたりもしたわけで、やっぱり今のサブカルチャーの表現の多くは、どんなに否定しようともエヴァがその祖先にあるわけです。
だから本当はTV版・旧劇こそを「こういう過去の礎の上に、現在のサブカルチャーはあるんだよ」という歴史的資料として見てもらいたいんだけど、でもやっぱり「昔の作品」ってだけで若い人には食いつき悪いから、最新の映像技術で惹きつけながら、今のサブカルチャーの原型となるキャラクターを学んでもらう、そういう良質なお勉強の作品として、「シン・エヴァ」があってもいいのかなと、そんなことを思うわけです。

……でもやっぱ、見るならTV版・旧劇だよなぁ。
特に「シン・エヴァ」だけを見て、「エヴァってこういうものなのか」と思ってる若い人にこそ、TV版終盤・旧劇を見て、このアバンギャルドさこそ本当の「エヴァ」なんだと体感してもらいたい、と思うのは、老害の戯言、なんでしょうか。

*1:ここら辺について詳しく知りたい人は、「伊藤剛 唐沢俊一」とかでネット検索すれば当時の資料が見つかるんじゃないでしょうか

*2:ここらへんのアンビバレントさは、おそらく僕の思想の根幹に根付いてしまったのだと思う