あままこのブログ

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ヒープリ終盤の「女性ヒーローと正義」論争についてまとめてみた

物語は終盤となり、来週最終回を迎える「ヒーリングっどプリキュア」ですが、ネット上では終盤の展開を巡って大激論が交わされているみたいです。
残念ながら僕は日曜日朝に起きれない体質なので、アニメ自体は見てないのですが、そのネット上で交わされる議論は大変興味深いものに感じたので、ちょっと論争の経緯についてまとめてみました。
アニメをきちんと見ている方は「全然そのまとめ方間違っている!」という感想を持つかもしれません。そういう方はぜひブログなどでツッコミ記事を書いていただければと思います。

42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」の放映―「敵を救わなかったプリキュア」への賛否

2021年1月31日、ヒーリングっどプリキュア42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」が放映され、その物語での主人公のどかの選択が大きな物議を醸します。
どういう選択だったか、id:rna氏のブログに詳しく書かれているのでそれを一部引用すると

第42話は主人公である花寺のどか(= キュアグレース)が、元敵組織の幹部で組織に命を狙われてのどかに助けを求めてきたダルイゼンを拒絶し、倒すという話でした。

ダルイゼンとのどかは因縁の深い関係で、幼い頃のどかを苦しめた原因不明の病気の本体はダルイゼンでした。敵組織ビョーゲンズの王キングビョーゲンの力で自我が芽生えたダルイゼンはのどかの体から出てきて人間の姿になり、ビョーゲンズの一員として地球を蝕む活動を始めます。

プリキュアとなってビョーゲンズと戦う(地球をお手当する)のどかは、やがてこの事実を知り、ダルイゼンを産み出してしまった自分に責任を感じ、自らの手でダルイゼンを倒すことを決意していたのですが、そこにダルイゼンが助けを求めてきます。

第41話でキングビョーゲンに同化されそうになったダルイゼンは脱走します。同化されれば自我を失い自分が自分でなくなるからです。追撃で傷つきボロボロになったダルイゼンはのどかの前に現れます。

ダルイゼン: みつけた… いいからよこせよその体!
のどか(キュアグレース): もしかして、キングビョーゲンにやられたの?グアイワルを取り込んだみたいに、また仲間を…
ダルイゼン: 助けて…くれ… このままじゃ、俺は俺じゃなくなる… 消えてなくなる… たのむ、キュアグレース、お前の中に俺を匿ってくれ…
ラビリン: 何言ってるラビ!
ダルイゼン: お前は俺を育てた宿主だ。お前の中ならきっとこの傷は癒える。キングビョーゲンに見つからず回復できる。たのむ、助けてくれ、キュアグレース…

(略)

笑顔を取り戻すのどかですが、ダルイゼンとの決戦では怪物化した彼にもう一歩踏み出した自分の気持を突きつけます(以下、ダルイゼンとラビリンとのどか(キュアグレース)のやりとりのみ抜粋)。
rna.hatenadiary.jp

ダルイゼン: 助けてくれ… こんな、こんなのは俺じゃない!
ラビリン: ダルイゼン!グレースのやさしさにつけいるのはやめるラビ!
ダルイゼン: キュアグレース、お前だけが頼りなんだ。お前の中に!
のどか(キュアグレース): そしたら私はどうなるの!?いつまで!?あなたが元気になったらどうするの?あなたはわたしたちを、地球を、二度と苦しめないの!?わたしはやっぱり、あなたを助ける気にはなれない!
ダルイゼン: ウワーッ!
のどか(キュアグレース): ダルイゼン、あなたのせいでわたしがどれだけ苦しかったか、あなたは全然わかってない!わかってたら地球を、たくさんの命を蝕んで笑ったりしない!都合のいい時だけ私を利用しないで!わたしはあなたの道具じゃない!私の体も!心も!全部、わたしのものなんだから!

そして浄化技プリキュア・ファイナル・ヒーリングっどシャワーでとどめを刺します。

ダルイゼン: 俺だって、俺の体も、心だって… うわーっ!!

簡単に言うと、助けるために体の中にかくまってくれと頼む敵に対し、「私の心と体は私のもの」と言ってその頼みを断りとどめを刺すという選択です。

これに対して大きく2つの意見がネット上では出ました。一つは「悪い敵に惑わされず自分の心と体を守ったまどかちゃん偉い!」という肯定的な意見。そしてもう一つは「命乞いをしてきた敵を見捨てるなんてそれでもプリキュアか!」という否定的な意見です。

肯定的な意見―「ダルイゼンの言い分って典型的なDV男の言い訳じゃん!」

まどかの選択に対し、「これこそ時代の潮流に沿ったプリキュアのありようだ」という意見が多くTwitterで書き込まれました。


また、「私の心と体は私のもの」という言葉から、女性に長い間認められてこなかった「身体の自己決定権」
note.com
を重視する、ジェンダー的観点を取り込んだ展開として称賛する声も数多くありました。
note.com
先程引用したid:rna氏の意見もこのような立場となります。

多くの人がこれを見て連想するのは「復縁を迫るクズ男を振り切る元カノ」ですよね。ダルイゼンが体が目当てだったところも… プリキュアは主に幼児から小学校低学年までの女児をターゲットにした作品ですが、将来クズ男に苦しめられた時に思い出して欲しい、という思いを込めたストーリーなのでしょうか。

僕はこれを見て2019年にプリキュアファン界隈で起こった性暴力事件のことを思い出しました。プリキュアファンの少女にプリキュアファン仲間の成人男性が交際を迫り性的な接触を強行し、耐えきれなくなった少女が別れ話を切り出すと「別れるなら死ぬ」と脅してきた、というものです。*1

警察の介入で縁は切ったものの、自分のせいで彼を死なせてしまったと思い込み、長い間罪悪感に苛まれていた被害者ですが、「のどかの選択」はこのような人にこそ届けたいメッセージだったのではないかと思います。

「わたしはあなたの道具じゃない」「私の体も心も全部わたしのもの」という言葉は、フェミニズム理論の概念の一つ「性的モノ化(sexual objectification)」を連想させる言葉です。女性は「モノ」ではない、すなわち、誰かの欲望を満たすための道具ではなく自律した存在であり体も心も自分自身のもので他人がそれを侵す権利はない、という主張です。

否定的な意見―「命乞いする悪役を見捨てたプリキュア

一方で、特に近年のプリキュアでは悪役との和解が多く描かれてきた中で、若いどころか助けを求めてきた敵を倒すという展開には、否定的な意見も多く出ました。
例えばTwitterでは以下のように、「悪役も助けてほしかった」という声が挙げられています。


特に否定側が多く引っかかっているのが、「ダルイゼンは生きるためにはのどかの体に匿ってもらうしかなかったのに、それを拒否するのはヒーローとしてやっていいことなのか」という点です。
また、プリキュアが助ける相手を選別しているのではないかという疑義も多く寄せられます。
そんな中で、ダルイゼンを「弱者男性」に見立て、フェミニズムが弱者男性を切り捨てる論理が今回ののどかの選択にはあるのではないかと指摘する論者も出てきました。
はてな匿名ダイアリーでも以下のような批判記事が書き込まれ、大きな話題を集めました。
anond.hatelabo.jp
anond.hatelabo.jp
anond.hatelabo.jp
anond.hatelabo.jp

スタッフの証言……「ダルイゼンの発言はDV男の典型的な言いよう」

そしてそんななか、ヒーリングっどプリキュアのスタッフが以下のような記事を投稿します。
kakudou.en-grey.com

衝撃的な展開をした前回はプロデューサー、シリーズディレクター(監督)、シリーズ構成脚本、担当演出まで女性で固めたからこそではなかったかと思います。たまたまアフレコに居合わせることができて、それはよかったのだけど、ダルイゼンのあるセリフの演技に意見求められて見回すと録音さん記録さんキャスティングさんまで女性ばかり。あれはDV男の典型的な言いようではと申し出てみたらその線でいくことになりました。

ここで、やはりダルイゼンは「DV男」のような存在として作り手側も描いていることが明らかになりました。
一方でこのような発言を受けて以下のような否定派の意見も出てきます。

43話「キングの進化…!蝕まれたすこやか市」の放映―「自分が決めた自己犠牲なら良いの?」

そして2月6日、43話「キングの進化…!蝕まれたすこやか市」が放映され、これもまた物議を醸します。というのも、43話におけるアスミというキャラクターが、敵の親玉を倒すために、危険を冒して敵キャラを自分の体に取り込むというストーリーだったため、「42話で『私の心と体は私のもの!』と自己犠牲を否定したのは何だったの!」という意見が出てきたからです。

アニメージュ3月号―

そんな中2月10日に雑誌アニメージュにて、ヒープリのシリーズ構成へのインタビュー記事が載り、プリキュア界隈の人々は大きな衝撃を受けます。


具体的にどういう内容だったかは、ぜひ雑誌を読んでほしいと思うのですが内容を自分なりに要約すると

  • ダルイゼンを主人公が拒絶するのはコロナとか関係なく最初から決まっていた
  • のどかが自分の手を汚す覚悟を決めたことを描きたかった
  • 「生きることは闘いだ」というテーマが今作の根底にはある
  • ヒープリは女の子の「何でも受け止めて何でも許してくれる女神」というジェンダーロールの呪縛からの解放を意識していた

というようなものでした。
この記事に対して、Twitterでは次のように様々な意見が噴出しました。

44話「みんなでお手当て!!すこやかな未来のために」―「生きるということは戦うこと」

そして2月14日、44話「みんなでお手当て!!すこやかな未来のために」が放映されます。
tver.jp
敵キャラとの最終対決において、敵の親玉は「生きるということは戦うことだ」と言い、主人公側はそれを肯定しながら、「だから私は戦い続ける。人々のすこやかな未来のために」と言って、敵を倒しました。まさしく、先程示したアニメージュのインタビュー通りの最終回となったわけです。
これに対し、twitterでは様々な意見が出ています。

ハフポスト「「わきまえる」ヒーローの時代は終わった プリキュアと「鬼滅の刃」煉獄さんの共通点」の公開

そしてそのように44話を巡って大激論が交わされている中、更にハフポストに42話を取り上げた以下のような記事が掲載されます。
www.huffingtonpost.jp
これに対して、Twitterでは主に

  • アニメ作品を政治利用するな
  • 「自己犠牲を肯定するか否定するかで、むしろ煉獄とのどかは正反対では?」

という2つの反論が寄せられています。
実際、42話放映時はむしろ以下のように、煉獄の自己犠牲とのどかの選択を対称的なものとしてとりあげるツイートが多くありました。


ただその一方で、鬼滅もヒープリも、「生きることは戦うこと」というシビアな価値観を持っているという点では同じなのかなとも、思ったりしました。

以上を受けて、僕の感想

で、上記のように論争をまとめた上での、僕の感想なんですが。
なんか、「生きるということは戦うこと」という言葉を目にして、僕は『ゼロ年代の想像力』という本を思い出したんですね。

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

この本の著者である宇野氏は、90年代の主人公は「誰かを傷つけるぐらいなら引きこもる」という引きこもり的主人公が多かったが、ゼロ年代になると今度は「戦わなければ生き残れない」@仮面ライダー龍騎、というセリフに代表されるような、バトロワ的環境で誰かを傷つけてもいいからとにかく自分とその仲間を守る決断主義的主人公が現れてきたと、『コードギアス反逆のルルーシュ』のルルーシュや、『デスノート』の夜神月を例に出しながら論じています。
そのような議論を目にしてきた僕は、「プリキュアも20年経ち、とうとうそっちの方向行くのかー」という感想をまず抱くんですね。
ゼロ年代の想像力』が刊行された当時、この本は様々な議論を起こしました。その中で一番多かった反論が、「戦うって誰かを殺すしか生き残る選択肢がない、その社会状況こそを疑うべきではないか」というものだったわけです。それぞれの個人が自己責任で生き残ろうとするだけじゃだめなんだと、それぞれ奪い合うんじゃなくて、団結して分かち合うことによりみんなで生き残る方法を探すべきなんじゃないかという論です。
でも結局そういう方向で社会を変えることは出来ず、とうとう子ども向けの番組におけるメッセージでも「生きるために戦って奪い合うこと」が正当化される時代が来てしまった。それが現代という時代なのかなぁと、思ったりするわけです。
そしてそういう社会では結局、フェミニズムとかリベラルとかも含んだあらゆる政治的立ち位置が、「自陣営に権益を呼び込む」ための闘争を求めるようになり、そしてプリキュアのようなアニメもまた、そういう闘争の尖兵となるように強いられるのかと。
なんか、つらい世の中ですねぇ……