あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

マンネリだー

今ブログのトップ画面見たら「この広告は、90日以上更新していないブログに表示しています。」という広告が出てしまっているし。

いや、別に書きたいことが枯渇したわけではないのだ。日々の様々な話題を見て「自分はこう思うのになー」と思うことは多々あるし、「世の中では注目されてないけどこれ面白いよな」と思うこともある。

だが、それについて書こうとし、ブログの編集画面を開いたときにこう思うのだ。「いやでも、こんなこと書かなくても既にわかり切ったことだしなぁ」と。

人の思想や主義主張、関心事項というのはそんなに短期間に変化はしない。僕だってそれは同じだから、世間の様々な話題に対する意見というのも、大体は似たり寄ったりになる。「自分はこういう原理原則を支持しているから、その原理原則を当てはめると、この話題にはこういう意見を持つ」というように。

つまり、話題が変わっても、自分がブログに書くことは殆ど同じなのである。そして、何度も違う話題に対して同じような主張をしていると、まあぶっちゃけ、飽きてくるのだ。

もしこれで僕が何か国会議員とか著名な知識人なら、世間の様々な意見に対し、「私の立場からはこう考える」と意見を表明することには、意味があるだろう。しかし別に僕にはそのような影響力はない。そうなってくると、いよいよ「なんで自分は同じようなことをひたすら繰り返しブログに書いているんだろう」と、むなしくなってくるのだ。

「#ペドフィリア差別に反対します」について思うこと

なんか一部のSNS上で最近「#ペドフィリア差別に反対します」というハッシュタグが肯定・否定両方の意味で話題になっているそうで。
note.com

ペドフィリア、チャイルド・マレスターと性的指向
sykality.wordpress.com
これについて僕が思ったことをまとめると以下の通りになります。

  • ハッシュタグのきっかけとなった発言が「ペドフィリア差別」であるとは、僕は思えない
  • 欲望自体はもちろんだれも否定できないが、それを公に表現することは当然批判の対象となりうる
  • 「○○を好きという感情は誰にも否定できない」みたいな安易な共感は、思想としての反差別とは関係ない
続きを読む

自分は「表現者になりたかった」のか「表現をしたかった」のか

p-shirokuma.hatenadiary.com
なんか似たようなことは、前に僕も記事で書いたことあったな
amamako.hateblo.jp
と思いながら読んだ。

上記の記事に対するフロムダ氏の言及記事も読んだ。
fromdusktildawn.hatenablog.com
表現者になりたい」のではなく「表現をしたい」という人、どちらが世の中で多いか少ないかという問題は、まあある。

世の中の多数派がどうなのかという話はあまり興味が無いので、自分のことを考える。

自分は「表現者になりたかった」のか「表現をしたかった」のか。

ところが、自分の問題に限って考えてみても、これがなかなか割り切れない。「表現者」になるために「人より知識を得て、知的優位を保たなければ」という思いは、かつてはあったし、それが自分の勉強の原動力だったりもした。

ただその一方で、「自分の表現がきっかけとなって何かが起こる」ことも、期待していた節はあるのだ。祭り、もめ事、炎上……そういう類いに盛んに首を突っ込んだのは、要するにそういう場ならば自分の表現によって、戦況が変化し、場合によっては戦況をくつがえしたり、あるいは勝利/敗北の決定打となったりするからだ。

しかし時に、この二つの欲望が相克するときもある。例えば論争の場では「自分の評判がダメージを負う代わりに、相手の評判もダメージを負う」表現というものがある。こういうとき「表現者」としての評判のみを気にするのなら、そのような自爆技はすべきではないだろう。ところが僕は、むしろそういう自爆技を好んで使ってきた。

しかしその一方で、自分は「自分の名を明かさず匿名の場から攻撃する」という戦術が、例えどんなにそれが効果的な場でも、取ることが出来なかった。はてな界隈ではID持ちの人でも「はてな匿名ダイアリー」で記事を書くということがよく行われるそうだが、僕はそういうことができない人間だったのだ。

だから、考えれば考えるほど、自分が「表現者になりたかった」のか「表現によって何かを変えたかった」のか、分からなくなってしまうのである。

で、更に最近困るのが、現代のネットでは「表現者になりたい」というのと「表現をしたい」というのがほぼ両立不可能になりつつある(ように見える)ということだ。

フロムダ氏は

表現者に、俺はなる!」なんて気張らずに、
思い付いちゃったことを、気軽にネットに書き込めばいいんじゃないでしょうか。
それは、昔より今の方が、ずっとやりやすくなったのではないでしょうか。

という風に書く。そして、そういう風に「表現者たれ」というくびきを外し、誰もが気軽に表現できるようになったのが、Twitterやらを始めとする、SNS空間と言うことが出来るだろう。

そして、SNSが証明したのは、個々人が独立した「個」として存在するより、まとまった「群衆」として存在する方が、よっぽど簡単に社会を動かすことが出来るということだ。

誰か一人が、一生懸命何かについて考えて、ブログなりnoteなりに数千文字の記事を書くより、多数の群衆が、数十字程度のつぶやきを大量につぶやいてトレンドに載せる方が、よっぽど影響力があるのである。

しかしその一方で、そうやって顔のない群衆の一人となって社会を変えるうねりに参加しても、そこで「表現者」としてあなたを見てくれる人はどこにもいない。

それに気づいた「表現者になりたい」人たちは、そういう群衆の場からは撤退し、少人数の顔が見える場に移行しようとしているわけだ。あたかも、竹林にひきこもった古代中国の賢者のように。

しかし僕はそのどちらも選べず、どこにもいけないまま取り残されている。

どうしたものやら。

素朴なフクシマ・ナショナリズムについて

最初に、僕の処理水についての考えは「特に気にしない」ではあるということを明記しておく。放射能汚染についても、別に子どもを作る予定もないし、自分の健康にそんな注意をはらってもいないので、気にはしていない。
しかし逆に、別に特段「福島を応援しよう!」とか「日本の水産業を応援しよう!」という気も無い。農産物・水産物を買うかどうかは、これまで通り「安くておいしいものを買う」であり、そこに「震災復興のため」とか「愛国のため」とかいう気持ちはほぼない。福島産や日本産の需要が減って価格が安くなるなら、その分消費者は安く買えてお得であり、神の見えざる手で需給調整ができるなら結構なことじゃんとすら、思ったりする。

ただ、世の中はそう冷酷にものを考えられない人も多いみたいで、そういう人はどうやら怒っているらしい。「福島の人や日本の漁師さんたちはあんなに困難にも負けず頑張ってるのに、中国とかはひどい!」と。

まあ、そういう義憤を持つこと自体も、僕は否定しない。要するにそういう人たちにとっては福島や日本の水産業が「推し」であり、推しを困らせる敵は許せないということなのだろう。

しかし、そういう素朴な推しを思う感情、「素朴なフクシマ・ナショナリズム」も、処理水を忌避する人たちからしたら、「母なる海」や「我が身や、子どもの健康」という、自らの推しを害する敵として見られることは、自覚しておいた方が良いだろうなと思う。

向こう側の言い分からしたら、勝手に海の近くの原発で事故を起こし、放射能を垂れ流し始めたのはそっちではないかと。別にこっちに何の非もないのになんで被爆を受忍しなきゃならないのという気持ちだろう。

そして更に言えば、いろいろな場所で取れる水産物の内、どこで取れるものを買うかも、完全に消費者であるこちら側に決める権利があることで、日本に文句を言われる筋合いはないと、そういう話になる。

もちろん、そういった批判に対してこちらから反論するのも可能だ。放射能云々言うのなら、そっちが核実験やらで垂れ流した放射能はどうなんだとか。

ただ、おそらくそういった言い争いをやっても議論は平行線だろう。

要するに、双方自分の「推し」を愛するという、プリミティブな感情に基づいて自らの主張をしているのであって、それ故に妥協は出来ないし、相手への憎しみも抑えられなくなる。それはきっと、止めようとしても止まらないのだろう。

ただせめて、自分が、自分の愛するものを守るため、相手を否定するのと同じように、相手も、相手にとっての愛する者を守るために、否定しようとしてきていることは、自覚しておいた方が、良いと思う。

不健康でも、生きていく―『推し、燃ゆ』感想文

『推し、燃ゆ』書影

というわけで、本屋で文庫本が平積みになっていたので、やっと『推し、燃ゆ』読みました。いや本当は芥川賞を取った当時に電子書籍で買ってたんですが、そのまま積んでいまして……

続きを読む

いわゆる「MBTI性格診断」はなぜ流行っているのか

「MBTI性格診断」という、人間の性格のタイプを16個に分類するタイプの性格診断が、最近インターネット上で主に若年層に流行しています。

実際SNS上で「MBTI」と検索すると、多くの人が自分や、自分が好きなアイドル・配信者(いわゆる「推し」)のMBTIを書いていたり、また「自分の推しはMBTIだとこの分類じゃないかな」と予想していたりします。
search.yahoo.co.jp
このMBTI診断、元々は韓国で流行したものらしく、K-POPのアイドルたちがよく自分の診断結果を発表したことから、日本のK-POP好きに広がり、そこから日本でも流行するようになりました。
2022年12月には、「SHIBUYA109 lab.トレンド大賞2022」の体験部門銀賞にもなっています。
xtrend.nikkei.com
ただ、僕がこの診断を知るきっかけになったのは、僕が好きな「にじさんじ」というVTuberグループの人々が、配信でMBTI診断をやるようになったからだったりします。
www.moguravr.com
kai-you.net
実際、にじさんじについての情報を多くまとめている非公式wikiには、配信者たちのMBTI診断結果が数多くまとめられていますし、*1
wikiwiki.jp
配信者の中でもとりわけ有名な月ノ美兎さんが、MBTI診断のまとめや、それに関する企画動画を挙げていたりします。
youtu.be

*1:というか、最初にまとめたの僕だったりするけど。

続きを読む

おたくは「おたくの時代」を求めていたのか?―『「週刊SPA!」黄金伝説』感想文

こんな本を読みました。

この本は、『週刊SPA!』の創刊時からの編集者であり、三代目編集長となったツルシカズヒコ氏の、1988年~1995年のSPA編集部の様子を描いた回顧録です。

そして、その内容は大きく分けて

  • 月刊OUT』の編集者からSPAの編集者となり、「おたく」と「ニューアカデミズム」の二枚看板で雑誌のカラーを決めていった88~92年
  • 3代目編集長となり、部数が増えていく中で起こるトラブル(主に広告と小林よしのり絡み)への対応に忙殺され、やがて編集長を解任される93年~95年

の二つの時期に分かれるわけです。

このうち、後半の時期に対しては、正直急成長したメディアでよく起きるゴシップだよなという感じで、スキャンダルに興味があって、『噂の真相』とか『創』とかを読んでいる人なら面白いんでしょうが、僕的にはそんなに面白くありませんでした。
というか、おそらくツルシ氏もこのころの編集長としての仕事はそんなに面白くなかったみたいで、筆致もとにかく淡々と、起きた事件を時系列に沿って書いているだけという感じなわけです。

ですがそれに対し、前半の、一編集者としてさまざまな特集記事をSPAで編集していたころの記述はなかなか面白いんですね。前身である『週刊サンケイ』をバッサリと切り捨て、一から「どんな方向性で行こうか」と模索していく時期は、ツルシ氏も筆が乗っているのか、なかなか面白いわけです。

ポスト団塊の世代をターゲットにしたSPA

当時既に数多く週刊誌があるなかで、まず当時のSPAは、既存の週刊誌ジャーナリズムは団塊の世代のものであり、それに対し自分たちはポスト団塊の世代をターゲットにするという、世代間闘争を掲げた雑誌でした。

続きを読む