あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

あのころは「ものすごく辛辣に社会批評をする童貞と処女の集まり」がいた

imidas.jp
「私が「冷笑系」だった頃〜「リトルひろゆき」たちとの楽しくも不毛で、だけど必要だった日々」という雨宮処凛氏のコラムを読んだ。この中で、まず自分が反応してしまったのが次の一節だ。

 最初の頃はそんな彼ら彼女らに反発を覚えた。だってリトルひろゆきたちは、当時の私にとっての神だった大槻ケンヂまでこき下ろすのだ。もちろん彼らも大槻ケンヂが大好きなのだが、「神」と崇めるようなスタンスは痛く、好きだからこそ批評してナンボということらしかった。またそうすることによって、自分の知識の深さを自慢したいという動機もあるようだった。とにかく彼ら彼女らはすべてを上から目線で語っていた。

「ものすごく辛辣に社会批評をする童貞と処女の集まり」

 本当に童貞・処女かは別にして、私は心の中で彼ら彼女らをそう呼んでいた。

この一節は、当時雨宮氏がリアルに(おそらくロフトプラスワンとかで)付き合っていた人らのことを指している。
しかしこの文章を見たとき僕が連想したのは、中高生だった自分がネットに文章を書き始めたとき(2000年代)に、お手本にしていた人たちのことなのだ。

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『推しの子』が示す「推し活」のアポリアと、その解法

『推しの子』、現在アニメ放送中の作品ですが、とりあえず原作を1巻から11巻まで読みました。

読もうと思った理由は、単純に流行っているというのもありますが、↓の騒動が気になったからです。
www.cyzo.com
realsound.jp
この騒動における立場は主に3つに分かれると思います。

  • 『推しの子』は実際にあった恋愛リアリティーショーの問題を軽く取り扱っていて許せない
  • 『推しの子』はあくまでフィクションなんだから、現実の騒動とかとは関係ない
  • 『推しの子』は恋愛リアリティーショーの抱く問題を真摯に描いており、読者をそういう問題に向き合わせる効果を持っている(上記記事の立場)

しかし、僕がマンガを読んで思ったのは、上記3つの解釈のいずれも、合っている部分はあれど、しかし一面的な理解じゃないかということです。

僕が思ったのは、『推しの子』という作品の現実に対する立ち位置はもうちょっと重層的で複雑で、そしてその複雑さは、そのまま「私たちが『アイドル』というものに如何に相対すべきか」という問題の複雑さなんじゃないか、ということなのです。

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「キャンセルカルチャー」の問題を腑分けして考える

要約

  • ある表現に対する抗議(キャンセル)を評価するには、その表現の内容だけでなく、それが私的な場で行われているものか公共の場で行われるものかが重要になる
  • 公共における表現は、それが「万人に開かれた場」で行われる表現である以上、排除していいかどうかは丁寧に考えられなければならない
  • だが一方で、「万人に開かれた場」での表現である以上、そこで表現を行う者には、より高い応答責任が課されることも、忘れてはならない

この記事の問題意識

キャンセル・カルチャーについての議論が盛んに行われています。
mainichi.jp
davitrice.hatenadiary.jp
hokke-ookami.hatenablog.com
なぜこの様な議論が盛んになるかといえば、それこそ僕も行ったあいちトリエンナーレの件
「表現の不自由展・その後」を見てきました - あままこのブログ
「表現の不自由展・その後」展示中止について、僕の考え - あままこのブログ
やら、あるいは各種のアニメ・漫画的表現が性差別的だと批判を受けたりする事件
宇崎ちゃん献血ポスターに「間違った解釈」なんてあるのだろうか - あままこのブログ
ラブライブ!サンシャインのパネル騒動について―その輪の外へ、想像力を向けようよ - あままこのブログ
やら、最近では埼玉県のプールで水着撮影会に対する抗議によりイベントに中止要請が行われ、後ほどそれが撤回される事件
www3.nhk.or.jp
が起きる中で、それらがひとまとめに「キャンセルカルチャー」としてフレーミングされているからでしょう。


つまり「ある表現が、その表現を批判する人々によって撤回や規制を余儀なくされる」という共通点が、これらの事例にはあり、そして多くの人々はその共通点に注目して、「このような撤回や規制が横行すれば、表現の自由がなくなってしまうのではないか」と危惧したり、それに対して「キャンセルカルチャーは別に強制的に表現を規制しているのではない以上、表現の自由の侵害ではない」と反論がなされたりしているわけです。


ですが、そもそも「ある表現が、その表現を批判する人々によって撤回や規制を余儀なくされる」という共通点だけで、上記に挙げた問題をひとまとめに考えるのは、あまりに無理があるのでは、ないでしょうか?


ある表現に対して、撤回や規制を求める抗議をどう評価するべきかは

  1. 抗議されている表現がどのような表現か
  2. その抗議されている表現がどのような場において行われているか

の2点によって大きく変わってくると、僕は考えます。


そこで今回の記事では、まず上記の2点に基づき、キャンセルカルチャーとひとくくりにされるものの問題を腑分けしていき、そしてその上で、どのような場面においてキャンセルカルチャーが問題となるのか、考えていきたいと思います。

抗議されている表現がどのような表現か

ある表現が抗議者によって抗議されるのは、その抗議者における倫理・道徳と、その表現が反する場合が殆どです。
そして、人々が抱いている倫理・道徳にも、いろいろな水準のものがあり、大きく分けて

  1. ほぼ社会の成員全員が既に共有している倫理
  2. 今は社会で共有されていないけれど、社会全体で共有されるべきと考えている倫理
  3. 「私」が信じている倫理


の3種があります。

ほぼ社会の成員全員が既に共有している倫理に反する表現について

まず1番目についてですが、それこそ人々の行動は極力国家から自由であると考える自由至上主義リバタリアニズム)においても、「暴力、窃盗、詐欺に対する保護、契約の執行等」は権利として国家が保障すべきと考えるように、「社会の成員全員が同意している」規範は存在し、それに反する行為は認められません。極論を言えば人間を殺して「これは俺の表現だ」という人がいても、その人は粛々と裁かれますし、そのこと自体はどんなに極端な表現の自由を擁護するものでも、認めるでしょう。

ただその一方で、実際に直接危害を加えたり、それを教唆するものではないけど、抽象的に、社会の成員全員が既に共有している倫理に反する表現というものをどう考えるかは、議論が分かれています。例えば民族差別・人種差別を扇動する、いわゆる「ヘイトスピーチ」というものについては、民族差別・人種差別がいけないというのはもはや万人が共有する倫理ですが、しかしその倫理に基づいて表現を規制するのが許されるかについては、いまだ反論も多くあります。

ただ、そのようなヘイトスピーチを法律・条例によって規制するかは各論ありますが、今回のキャンセルカルチャーのような抗議活動の水準でいえば、ヘイトスピーチのような表現に対して抗議活動を起こすことは、まともな議論においては認められていると言えるでしょう。

今は社会で共有されていないけれど、社会全体で共有されるべきと考えている倫理に反する表現について

次に、「今は社会で共有されていないけれど、社会全体で共有されるべきと考えている倫理」について。キャンセルカルチャーが問題化されるのはこのような領域のものが多いです。例えば、「女性を性的な眼差しで見るのは良くない」とか「動物に対し人間が苦痛を与えたり、苦役を課してはいけない」というような規範は、社会の全ての成員に共有されているわけではないけど、それは妥当な規範であるから社会全体で共有してもらいたいと考える人は居るわけです。そして、そのような人々によって「女性を性的な眼差しで見る表現」や「動物に苦痛を与えるような表現」が抗議の対象になるわけです。なぜそのような抗議が行われるかといえば、それはそのような表現をやめさせようという意図以上に、そのような表現を認める社会に対する異議申し立てでもあるわけです。


一方で、そのような倫理をはなから身につけるつもりのない人や、「別に個々人や自分自身がそのような倫理を持つことはいいけど、そのような倫理と反する倫理観を持つ人も認めるべきだ」と考える人からすると、そのような異議申し立ては勝手な倫理の押しつけとして捉えられるため、反発され、そこにコンフリクトが生まれるわけです。


ただここで重要なのは、コンフリクトが生まれること自体は悪いことではないということです。上記に挙げた毎日新聞の記事で五野井氏が以下の様に述べている通り、公民権運動や反植民地運動といった、後年においては「それがあって良かった」とされる運動においても、運動当時はコンフリクトがあったわけです。

 五野井氏 力なき人々にとっての最後の手段としてボイコット運動があります。インド独立運動の英国商品不買や、米国公民権運動ではローザ・パークスの「バス・ボイコット」(※)がありました。

 情報発信の主体がユーチューバーのようなインターネット上のサービスに移るなかで、抗議の対象も国家や企業だけではなく、情報を発信する個人や現象、価値観へと変化しつつあります。

 キャンセルカルチャーそれ自体は伝統的なボイコット運動の延長線上にあります。

「私」が信じている倫理に反する表現について

ただその一方で、上記のように社会の成員によりよい倫理を浸透させ、社会を変えようとする抗議活動とはまた違う、「キャンセルカルチャー」も存在します。それは一言で言えば「私が見たくないものを見せないで」というキャンセルカルチャーです。
「『私』の信じている倫理に反する表現が許せない」という点では、上記のような抗議と同じです。ただ違うのは、上記のような抗議活動においては、少なくとも当人の中においては「私が抱いている倫理は、私だけでなく万人が抱くべきものだ」という信念と、その信念を支持する理路があるわけですが、「私が見たくないものを見せないで」という抗議にはそれがないということです。
このような抗議の背後にあるのは、他者というものは絶対に変わらないし、わかり合うことなんてできない。だったらせめて私の目の前からは居なくなれという、他者への圧倒的な不信感といえるでしょう。

その抗議されている表現がどのような場において行われているか

上記では表現への抗議活動を、抗議される表現の内実に基づいて3つの分類に分けました。

ただその一方で、表現への抗議をする者にとっては、その表現の内実と同様に、その表現がどのような場で行われるかも重要になります。そしてその表現の場は大きく分ければ以下の二つとなります。

  1. 私的領域
  2. 市場領域
  3. 公的領域
私的領域における表現について

まず私的領域について。私的領域の最たるものが、自分の家やマンションの中といった、完全にプライベート(≓私的)な空間です。そして、そのようなプライベートな空間においては、キャンセルカルチャーは原理上問題となり得ません。自分の自室でどんな表現をしようが、誰も文句を言うわけがないし、仮に赤の他人が「自分の部屋でそんな表現をするな!」とか抗議をしたとしても、そんな抗議は無視すれば良い、ほぼ無意味のものだからです。
そして、このことは自分一人だけでなく、限定された人々の間での表現活動においても同じです。いかに反社会的・反倫理的な表現であっても、そういった表現が好きな者同士の完全に閉じた空間で行われるならば、そのような表現への抗議はありえません。仮にそこで抗議があったとしたら、それは「完全に閉じた空間」ではなかったということなだけです。
故に私的領域においてはキャンセルカルチャーという問題自体がそもそも存在し得ないわけです。

市場領域における表現について

一方で、現代においては多くの表現が、商業メディアや、ある商品の宣伝・広告といった形で表現されます。そしてそのような表現は、上記のような私的領域における表現とは違い、不特定多数の目に入ります。


キャンセルカルチャーについて語る論者の多くは、このような市場領域における表現への抗議活動を問題視します。要するに、不買運動などの抗議活動をされることにより、ある種の表現や、その表現をしている表現者が商業メディアやプラットフォームに拒否されてしまう。そのことは実質的に、抗議を受けた表現・表現者表現の自由を奪っているのではないか、という主張です。


しかしそもそも商業メディアや、商品の広告・宣伝というのは、そのような抗議活動をされなければ何でも表現できる、「表現の自由」が存在する場所なのでしょうか?実際は違います。商業メディアというものは、あくまで貨幣を稼ぐ手段の一つであり、そのようなメディアにおける表現は通貨を稼ぐ手段となり得る限りにおいて存在を許されるものでしかないわけです。そしてそれ故に。スポンサーの批判をしない・表現を受け取る側に気に入られるといったさまざまな制約があるわけです。逆にいえば、「抗議活動を受けない」という制約はそのようなさまざまな制約の一つな訳で、さまざまな制約を差し置いてそれだけ問題視するというのは、筋が通らないのではないかと、僕は考えます。


ただその一方で、本来そういう市場に存在するプラットフォームが、実質「そこしか表現の場がない」公的な領域としての性格を帯びてしまっているというケースもあります。GAFAといった私企業がインターネットにおける表現の場を占有しているため、そのような私企業に嫌われるとインターネット上で表現ができなくなるという問題は確かにあります。しかしそこで問題視されるべきは、そこでいかに私企業に嫌われない様にするために、キャンセルカルチャーを押さえ込むかではなく、そのような私企業が表現の場を独占してしまっている状態なわけで、キャンセルカルチャーとはそもそも関係ない問題なのではないかと、僕は思うのです。

公的領域における表現について

そして最後に公的な領域について。
公的な領域に当てはまるか判断する3つの要素として

  1. 公的な担い手(国家・行政・NPO)によって営まれる(official
  2. 特定の誰かの者ではなく全ての人のもの(commom)
  3. 誰に対しても開かれている(open)

という要素があります。


そして、表現との関連において重要なのは、3番目に「誰に対しても開かれている」という点にあります。私的領域における表現のように、その表現をしたり、また表現を受け取ったりするものを限定することはありません。そして市場領域における表現のように、「貨幣を稼げるか」によって、表現が制約を受けることもありません。


なぜこういった「限定のないこと」「制約のないこと」が重要なのかといえば、そのような限定・制約がない故に、私的領域・市場領域においては自らの表現をしにくいマイノリティや社会的弱者に、表現の場が与えられるからです。


故に公的領域における表現については、私的領域・市場領域における表現への抗議とは違い、よりデリケートな扱いが必要になると言えるわけです。

公的領域における表現はどのように取り扱うべきか

では、公的領域における表現はどのように取り扱うべきなのでしょうか。


まず最初に挙げた3つの内

  • ほぼ社会の成員全員が既に共有している倫理に反する表現
  • 「私」が信じている倫理に反する表現

については、それほど悩まず取り扱い方が導けるでしょう。ヘイトスピーチのような表現は、公的な場だからこそ許すわけにはいかないし、そのような表現が為された場合には抗議して撤回させることがむしろ好ましい。一方で、「私」が信じている倫理に反しているだけなら、それは認められるべきであり、抗議によって撤回させるというのは、公的な領域を私的に占有することで、好ましくない。


問題となるのは

  • 今は社会で共有されていないけれど、社会全体で共有されるべきと考えている倫理に反する表現

です。


僕がこの段階におけるキャンセルカルチャーについて危惧するのが、マジョリティによるマイノリティへのモラル・パニックが、「表現への抗議活動」の形で現れることが往々にしてあるからです。マイノリティによる表現に対してマジョリティが「反道徳的だ」と抗議活動を起こし、結果行政が表現に介入したり、表現を中止させるということは多々あります。


一方で、異議申し立てとしての抗議活動は、社会全体の進歩のためにも、認めるべきでしょう。ところが、ある抗議活動があったとき、それが単なるモラル・パニックなのか、異議申し立て活動なのかはアプリオリに言うことは出来ないわけです。では一体どのように取り扱うべきなのか。


一つ言えるのは、抗議の中で、抗議する側とされる側に対話を模索する可能性を見いだそうとしているかが、重要になってくるのではないかという点です。つまり抗議をする側も、ただ表現を中止するよう言うのではなく、「そのような表現に対して私たちはこういう理由で悪いと思って抗議するが、何か反論はあるか」と、対話を求めるような抗議をすべきだし、抗議される側も、没交渉に抗議を無視したり、あるいは抗議を受けてすぐ表現を中止するのではなく、相手の言い分を聞いた上で、「でも私たちはこういう表現をしたいのです。この表現はこういう理由で肯定されるべきです」と応答すべきでは、ないでしょうか。


むしろ、昨今のキャンセルカルチャーの問題とは、表現への抗議活動それ自体ではなく、抗議活動の中にこういう対話への契機が一切見いだせないことなのかなと、僕は思うのです。

近況

最近全然ブログ記事書いてないんで、なんか記事書こうと色々インターネット見てたんだけど、もう疲れちゃって 全然動けなくてェ……

放送大学入学した

情報コースで計算機科学の基礎とかデータサイエンスとかを勉強する予定。とりあえず今取っている科目。

  • 初歩からの数学
  • 社会調査の基礎
  • データ構造とプログラミング
  • AIシステムと人・社会との関係
  • 情報セキュリティ概論
  • Rで学ぶ確率統計
  • 国際理解のために
  • ビートルズde英文法

一般教養科目は、一応学士号取りたかったんで取ってるけど、改めて入学案内見たら、そこら辺は既に卒業した大学の単位を流用できるのに気づいて、あちゃーという感じ。

数学、学んでるときは割と楽しいんだけど、テストになるとケアレスミスが多くて点数が取れなくて、「あーだから理系に行くの諦めたんだっけ」と思い出したりする。

他の教科については、きちんと勉強をしていれば、択一式の問いは大体正答できるんだけど、数学の場合公式とか定理とかの知識を頭に入れていても、単純に計算過程で四則演算間違えたりするだけで正答できなくなって、で、僕は注意力というものが人一倍かけている人間だから、一回のテストで大体5個ぐらいそういうミスが出るんだな。

だから数学は相変わらず苦手。一体どうしたらいいものか。

旅行行きまくった

コロナ空けのGoToトラベルをフルに活用して、今年の初めから旅行行きまくった。

  • 北海道
  • 秩父
  • 伊勢志摩
  • 台湾


(これは台湾の猫)

北海道は知床がなかなか面白く、帰ってきてからも、近くの山とか公園とかで野生動物の痕跡を探したりするのにはまっている。

元々動物は好きで、動物園・水族館とかは良く行っていたのだけれど、最近動物福祉の問題で、そういう施設に行くのにどうも躊躇するようになっている
www.huffingtonpost.jp
中で、知床行って「別に珍しい動物を見たいとかでなければ、野生の動物を観察するのもいいのでは」と思うようになった次第。

ゲームやりまくってる

ティアキン出るまではとにかくスプラトゥーン3をやり

ティアキン出てからはとにかくティアキンやっている。

色々APEXとかVALORANTとか、流行のゲームに手を出してみるのだけど、どーしてもやっぱ任天堂に戻ってしまうのよね。

別に洋ゲーアレルギーではなく、例えばFallout3・4とかDetroitとかも楽しくやれるんだけど、なぜかストリーマーに人気のFPSにはまれない。一体なぜなんだろうなぁ。

VTuber見まくってる

amamako.hateblo.jp
上記の記事のころから変わらずVTuber見続けている。

最近気になっているのは家長むぎさん。
wikiwiki.jp
なんかこの人を見ているとネットに毒される前の、読書が楽しかった気分を思い出して、いいんだよね。

新人さんだとやっぱ石神のぞみさんとかが注目枠かなぁ。
wikiwiki.jp
基本ネット、それも僕が見ていた方面のネットと親和性が高い子をまず好きになるもので。

Twitterそろそろ脱出したい

なんかおすすめない?Blueskyと招待してくれない?

以上、本当にただの近況報告でした。

この平坦な戦場で生き延びること

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230324/1679624302

現代社会において尊重される「多様性」が。あくまで一定の規格の範囲内のものでしか受け入れられないというのは、確かにそうだと僕も思う。

結局、今の社会が多様性を尊重している理由って、多様性それ自体が目的として尊いのではない。

多様性を尊重し、その多様性同士が生存競争しあうことによって、生産性向上とか、あるいは経済成長とかといった目的が達成されるから、多様性は尊重されるべきという「手段としての多様性尊重」なのだ。

だからこそ、生産性向上とか経済成長とかに寄与しない、「役に立たない多様性」は、適当な理由を付けて社会から排除される。

そしてその社会で人々は、自分がいかにこの社会に役立つ存在かを誇示し、自分以外の他者がいかに役立たない無駄な存在かを示すために、「多様性」を利用する。

確かに現代の社会は、一昔前の社会と比べれば、文化も価値観も多様化している。しかしそうやって文化・価値観が多様化すればするほど、それぞれの異なる文化の衝突も増えている。

一昔前のような「画一な『普通』」が確固として存在していた社会においては、たしかにそういう「普通」側からの抑圧も存在していたけれど、現代のような文化間の激しい衝突は起きなかった。なぜなら、例えどんなに普通でない文化を支持する人・集団があったとしても、結局それらは社会の少数派であり、多数派は「普通」であり続けられると、信じられていたからだ。

ところが、現代の多様な社会においては、確固たる多数派が存在しないが故に、それぞれの文化が、ヘゲモニーを奪取するために絶えず戦うことを強いられる。そしてその戦いに敗北した文化は、存在すら許されなくなっていく。なぜなら、存在を許せば、逆にその異文化が自らの文化を排除しかねないからだ。

本当だったら、この社会を生きる大人として、きちんとこの狂った社会を治す責任があるのかもしれない。

でも、正直それはもう無理なんじゃないかと、最近思ったりする。というか世の中の人々は、むしろそうやって「生産性」とか「経済成長」とかのために、嬉々として人を叩き、殺し合うことが幸福に感じてるように、思えてならないのだ。

せいぜい僕に出来るのは、そのような残酷な社会と人々からいかに遠ざかりながら、せめて自分と、自分の手が届く人は、誰も死なず、誰も殺さない、方法を模索することなのかもしれない。

はてブを捨てよ町に出よう

yoppymodel.hatenablog.com
orangestar.hatenadiary.jp
anond.hatelabo.jp

我 地に平和を与えん為に来たと思うなかれ
我汝らに告ぐ
しからず、むしろ争いなり
今からのち一家に五人あらば
三人は二人に、二人は三人に別れて争わん
父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に


ルカによる福音書、第十二章五十一節

note.com

マクルーハン:そのとおりですよ。部族的世界の人間は、互いに殺しあうのです。部族的社会は、危険の絶えない社会です。


インタビュアー:我々がグローバルで、部族的になれば、我々は…


マクルーハン:我々がもっと緊密になれば、互いにもっと友好的になるとでも?


インタビュアー:ええ。


マクルーハン:そんなことはありえませんね。人間同士近づけば近づくほど不寛容になるのです。


インタビュアー:それが人間の本質なのでしょうか?


マクルーハン:狭い環境では、人の寛容度に大きな負荷がかけられるのです。村落共同体の人々は、さほど互いを愛していないのです。グローバル・ヴィレッジとは、強迫的なインターフェイスであり、非常に神経をすり減らす環境なのです。

はてなブックマーク、通称はてブのネガティブコメントを巡る議論が、なんかまたネットで盛んなようで。

僕も昔ははてブのヘビーユーザーだったんですが、正直最近は、トンチンカンなコメントにうんざりしてあんまはてブ見てないのは事実です。だからそれを持って、「今のはてブはひどい。もっと人を傷つけないものに生まれ変わってほしい」と思う気持ちはよーく分かる、わかるんですが……

でも多分、そういう風に変わったはてブは、もはや当初の理念にあった「万人が自由にコメントできるWebサービス」というものではなくなってしまうわけで、そうやってまではてブというサービスを生き長らえるべきなのか、僕は懐疑的になってしまうのです。

今のはてブが不快な空間になってしまう背景にある、感覚のズレ

かつて梅田望夫氏が「はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてブのコメントにはバカなものが本当に多すぎる」と書いた通り、ブログとかニュースサイトとかで文章やコンテンツを発表する人間からすると、はてブのコメントって本当にトンチンカンな、「この人本当に文章読んでコメントしてるのかな?」と思うようなコメントが多々あります。

ただその一方で、はてブでコメントする側からすれば、「別に自分はただ自分が思ったことをはてなブックマークでコメントしただけで、そのことを文章の著者にどうこう言われる筋合いはない」となるわけですね。

実はここに感覚のズレがあるわけです。

コメントされる文章の著者からすれば、はてブにおけるコメントというのは、公開の場で行われる批評として捉えられているわけです。

しかし、コメントをする側の立場からすると、はてブでのコメントは、いわば「本への書き込みメモ」なんですね。本を読んでるときに、多くの人は三色ボールペンとかで重要だと思う場所に線を引きながら、その文にたいして思ったことを書き込んだりする。その書き込みをするときに一々「この書き込みは著者の意見への批評だ」なんて気持ちで書き込みませんよね?

このコメントされる側・する側の感覚のズレこそが、はてブの不快さの根本原因なのです。

つまり、はてなブックマーク、というかソーシャルブックマークというサービスは、そのサービスの利用者にとっては「文章への書き込みメモ」を共有するための場なのに、そこでコメントされる側にとっては「批評」の場として捉えられてしまう、このズレこそが問題なのです。

ソーシャルブックマークの背景にある「データベースの共有」という理念

「文章への書き込み」を共有する、ソーシャルブックマークというサービスがなぜ生まれたか。その背景には、「知識・データはより広く共有されればされるほど、よりよい結果を生む」という、WWWの根本理念があります。

文章への書き込みというような些末な情報でも、それを書き込んだ人の中でだけ抱え込むのではなく、万人がアクセスできる場所に公開すれば、それを見た他人が、その書き込みに触発されてまた新しい発想・思考を生み出すことができるのではないか。そしてそのようにどんどん新しい発想・思考を生み出すことによって、この世界はより良いものになっていくだろう。ソーシャルブックマークというサービスは、このような理念のもと生まれたわけです。

思考の共有によって生まれる「グローバル・ヴィレッジ」

このように、個々人が頭の中にある知識やデータ、さらにそこから生み出される思考が、公開の場で共有され、人々がより緊密に繋がり合いながら暮らしていくことを、マーシャル・マクルーハンという学者は「グローバル・ヴィレッジ」と呼びました。
ja.wikipedia.org
ただ、冒頭に発言を引用したとおり、マクルーハンはグローバル・ヴィレッジというものを、むしろ否定的に捉えていました。人々が思考を共有しながらより緊密に生きていく空間は、むしろ人々の間に緊張を生み、人々を不寛容にさせると述べているわけです。

これと同じことが、はてなブックマークにも言えるわけです

グローバル・ヴィレッジ(地球村)の縮小系としての「はてな村

はてな村」というスラングがあります。はてなブックマークや、今はなきはてなダイアリーといったサービスの利用者の閉鎖性を揶揄して使われる言葉ですが、僕は、その言葉を思いついた背景には、マクルーハンのいうグローバル・ヴィレッジ、直訳すると「地球村」となる言葉があったんじゃないかなーと推測したりします。

そして、マクルーハンがグローバル・ヴィレッジについて述べた問題は、実はそのままはてな村にも当てはまるんですね。はてなブックマークにおいては、個々人が行われるコメントは、一緒のブックマークページにおいて並列的に表示されます。そういう場所では、むしろ各々の持つ価値観や思考過程の違いがより気になってしまうのです。そして「なんでこいつはこんなトンチンカンなことを言うんだろう」「なんでこいつはこんなに一々神経質なんだ」という不快な思いがより増幅され、緊張感あふれる場所となってしまうのです。

価値観やバックグラウンドが共有されれば不快な緊張感は解消されるが……

このような不快な緊張感をなくすには一体どうすればいいか。一つ方法としてあるのは、「万人に開かれたサービスを目指すではなく、同じような価値観・背景を共有する人たちによる閉じた場を目指す」というものです。

例えば、はてなブックマークにおいても、IT技術などの専門知に関わるページにおいては、それほど不快な緊張感はありません。それが一体なぜかといえば、そもそもそういう話題に興味を持ちコメントできる人たちは、一定のIT技術を持ち、多くが職業としてそれを生業としているエンジニアに限られるからです。エンジニア同士においては、IT技術についてある程度共通の価値観や解釈を持っていますから、それほどコンフリクトは生まれません。

そして、これをサービス全体に応用し「サービスの利用者に共通の価値観を持ってもらう」ということによって、はてブと同じようなサービスでありながら、むしろはてブより成長しているWebサービスが、NewsPicksなわけです。
newspicks.com
僕のようなはてブ民からすると、NewsPicksなんて、ひろゆきとかホリエモンとかそういう人らに憧れるような人たちが、予定調和なことを言い合って慰撫しあってる、しょーもないサービスに思えてならないわけですが、しかしだからこそはてブみたいなコンフリクトはそれほど生まれず、成長しているわけなんですね。

NewsPicks的な「閉じた場所」を目指すか、古きWWWの理想の墓標となるか

だから、もしはてブが本気でネガティブコメントをなんとかしたいというなら、それこそNewsPicksのような場所を目指せばいいんですよ。ある一定の価値観に染まった著名人を、「公式コメンテーター」とか言って優遇して、このWebサービスはこういう価値観の者同士の傷の舐め合いの場なんですと、わかりやすくなるようにすればいい。

でも僕は、そんな場所にはてなブックマークがなるぐらいなら、いっそこのままどんどん衰退して、古のWWWの理想と、その理想が以下にして頓挫したかを後世に伝える墓標となってほしいと、思ったりもするわけです。

ネットの汽水域では生きられない「厄介な人」について

p-shirokuma.hatenadiary.com
シロクマ氏の記事、基本的な部分としては同意しかありません。というか、まあ同じような話は、それこそ何回もしてきたわけで。
amamako.hateblo.jp
上記の記事で述べられてる「はてな村(的などこか)」というのは、要するに上記の記事で言う「駄サイクル」で、そして多くの人にとっては、「駄サイクル」的な場所でこそ、自らのインスピレーションを滋養する場所になるというのは、至極まっとうな話だと思うわけです。

ただ、そのように思う一方で、自分個人の経験に沿って言うならば、こうも思う訳です。

いや、はてな村ってそんなやさしい場所じゃ無かったよ」と。

そりゃまあ、シロクマ氏とか、あるいは下記のブコメで挙がってるような

帰ろう、はてな村(的などこか)へ。 - シロクマの屑籠

kanose、otsune、はしごたん、Hagex。レイプレイ事件ではオタクは犯罪者予備軍なんてな議論がなされ、飛び交う手斧(idコール)でブクマタワーが天井まで行くことも、承認欲求が一世を風靡する中、綴られたはてな村奇譚。

2022/11/25 13:31
b.hatena.ne.jp
はてな村民の代表格と言えるような人たちかすれば、はてなダイアリーのような場は、「自由に、ゲコゲコと、かえるのうたを歌」える場所だったのかも知れませんが、

はてな村」や当時のツイッターは、まさに井の中の蛙の空間でした。あるいは湾や入り江や汽水域のようなものでしょうか。グローバルな大海に一応繋がってはいるけれども、意識としても実装としても現実としてもたかが知れていて、身内的で、だからといってFacebookとも違っているインターネットの数ある小さな井戸、または水たまりでした。そこで私たちは自由に、ゲコゲコと、かえるのうたを歌っていたわけですね。

当時はてな村の片隅で記事を書いていた僕からすれば、そんな安心感を感じたことはほぼなくて、むしろ「ここは戦場。やらなきゃやられるんだ!」みたいなプレッシャーを常に感じていたわけです。

ていうか、はてな村に限らず、自分の考えを世に出して発表するとき、僕は常に「これで誰かから叩かれるかも知れない。ていうか絶対叩かれるんだろうな。」という恐怖を抱いてきました。自分が、割と他人を叩くことに躊躇がない人間だからこそ、他人も、自分がちょっと隙を見せたら即叩いてくるだろうなと、そう思っているわけです。

「そんな考えで常に居たら疲れない?」と思う人も居るかも知れません。そんなの、疲れるにきまっています。「叩かれる心配がなく、自由に意見を発表できる場所」というのは、僕の憧れだったし、そして、そういうネットコミュニティと関わりを持とうとしたこともありました。

でも、なぜか僕は、そういう安心できる場所に行くと、途端に筆が止まってしまうんですね。そして、なぜか「この優しさの欺瞞を暴きたい」と考え、みんながぬるーく思いを吐露している場所で、いきなり他人を攻撃する長文をあげたりしてしまう。で、そこのコミュニティの人たちと喧嘩して、コミュニティから追い出されてしまうわけです。

多分、あまりに考えを叩かれることが日常だったがために、逆にそういう場所に適応した形でしか、自分の文章を書けなくなっているのだと思うのです。

もちろんこれは、ネットリテラシー的にも、精神衛生的にもよくないことなのでしょう。大多数の人、特にこれからネットの海に飛び込んでくような若い人たちには、絶対こんな立ち振る舞いしかできない大人にはなってほしくありません。

その一方で、僕が思うのは、「でも結局自分は、これまでこういう生き方しか出来てこなかった以上、これからもこういう生き方しか出来ないんだろうな」という、ある種諦念にも似た感情です。

世の中の多くの人は、いきなり叩かれることなく、心理的安全性をもってみずからの思いを吐露できる場所、まさにネットの汽水域みたいなものが必要なのでしょう。

しかし、中には、そういう汽水域ではむしろ息苦しくなってしまう、端的に言って「厄介な人」もいるわけです。

そういう人は、例え汽水域のような場所を見つけても。自分からそこを荒らしてしまう。そして、大海に追い出され、消耗していき、やがて、自らの身を亡ぼす。

でも、そういう生き方しか、できないんだよなあ。

そして更に言えば、そういう生き方に、ある種の「美しさ」を感じてる自分も、いるのです。

セカイは果たして開かれたのか閉じられたのか―『すずめの戸締まり』考察

というわけで、『すずめの戸締まり』2回目鑑賞してきました。

amamako.hateblo.jp
公開日当日に『すすめの戸締まり』を見た感想は↑だったんですが、それから様々な考察を読んで、その考察の視点を取り入れながら映画を見てみると、1回目見たときとは大分違う感想を抱くようになりました。

そこでこの記事では、『すすめの戸締まり』についての人々の考察・レビュー記事を参照した上で、もう一度『すずめの戸締まり』という作品について考えていきたいと思います。

賛否両論分かれる『すずめの戸締まり』感想

公開から既に半月経つ中で、すずめの戸締まりについては様々な感想・考察記事が記されました。

作品を評価する肯定的な記事が、↓のように書かれる一方で

「どうもここは受け入れられない」という様に否定的な評価をする記事も、↓で示すように書かれています。

僕個人が書いた記事も、どちらかというと否定的な評価と言えるでしょう。

そして、このような評価の違いは、2つの点をどう評価するかということの違いによるものだと、僕は考えます。

その2つの点とは

  1. 悪意を排除し、優しさと善意しかない明るい存在として、日常世界や、他者・過去を描くことをどう評価するか
  2. 「みみず」という災厄を人間がどうにか出来るものとして描いていることを許せるかどうか

です。

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