あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

カタールワールドカップに対してどういう態度を取れば良いのか

amamako.hateblo.jp
とりあえず記録として上記の記事を書いたわけだけど、当たり前のこととして今回のカタールワールドカップに対する立場は、上記の記事で示したような、2項対立に収まる物では本来無いです。

今回のカタールワールドカップや、その大会における様々な表現・活動、及びそれに参加しているサッカー日本代表への評価というものは、以下の様な要素が折り重なった中で重層的に下されるものだと思います。

  • スポーツにおいて反差別であったり、政治的なメッセージは持ち込んでいいのか
  • カタールの反同性愛は「文化の違い」として容認されるべきなのか否か
  • 日本代表を応援しなかったり、嫌うことは許されるのか

しかし、スポーツというものの熱狂の中では、上記のような複雑さというものを無視して、「で、結局日本代表を応援するのしないの!」という単純な二項対立に還元されてしまいます。

そこで、敢えてそういった熱狂から距離を置いた考察も必要なのでは無いかなと思って、本記事を書きます。

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日本対ドイツ戦が反西欧・リベラルの旗印となった日

時代のメモとして。

昨日(2022/11/23)、ワールドカップの予選リーグで日本がドイツに勝利したわけですが、それ以降以下の画像が、インターネット上の画像貼り付け掲示板やTwitterで盛んに目にするようになりました。

img.2chan.net

4 22/11/24(木)15:09:45No.996782816
中東の野蛮な国家が欧州の先進的な思想を否定しやがった
極東の田舎者ボコすついでに我らの素晴らしい考えを教育してやろう

5 22/11/24(木)15:10:19No.996782956
>中東の野蛮な国家が欧州の先進的な思想を否定しやがった
>極東の田舎者ボコすついでに我らの素晴らしい考えを教育してやろう
ピコーン!
2-1!

31 22/11/24(木)15:29:14No.996787451
クソパヨクに阿って無様に負けてるのクソ哀れだな

35 22/11/24(木)15:29:57No.996787623
他国の文化に敬意も払えないアホどもが一丁前に伝道師気取りしてるの擁護する人って…

38 22/11/24(木)15:31:46No.996788066
差別は駄目だよって言ってる奴らが試合中に相手を舐めプして無様に負けるのいいよね

97 22/11/24(木)15:52:52No.996793086
欧州の感覚は知らんけどスポーツマンはスポーツで勝つのが仕事であって政治的なことは政治家の仕事だと思うんだけどな…

ドイツのこの口を抑えるアピールは、下記の記事で示されているように、カタールの同性愛・外国人差別を批判する意図があったわけですが
www3.nhk.or.jp
要するに上記の画像を示す人たちは、そういったドイツの姿勢を、「他国に自分たちの価値観を強要する態度」として批判し、そのようなドイツを日本が下したことで、「ざまぁみろ」という感情を抱いているわけです。

また、更にそこから「差別に反対するドイツを賞賛する日本のポリコレ・リベラル」についても、憎悪の感情が発露しており、以下のようなTogetterまとめが作られたりしています。
togetter.com

つまり、反ポリコレ・リベラルの中では

  • 西欧の価値観を押しつけようとするポリコレ・リベラルに毒され、スポーツに政治を持ち込む西欧
  • それぞれの国の文化を尊重し、スポーツに政治を持ち込まないカタール・日本

という対立の図式があり、そして昨日の日本対ドイツ戦は、にっくき前者を自分たち後者が打ち負かした試合として、喜ばれているわけです。

そしてそれらの見解を強化する材料として、いつもの「日本のサポーターは礼儀正しくて現地の人々に喜ばれている」という話や


カタールの人々が日本の勝利を喜んでくれた」という話が喧伝されています。
togetter.com

またサッカーが排外主義を呼び起こすのか

僕がこのような動きになぜ注目するかといえば、同じようにサッカーワールドカップが、日本の排外主義の火付け役となった事例が過去にあったからです。

2002年、日韓共催サッカーワールドカップが開かれたわけですが、そこでの韓国チームに対する嫌悪こそが、その後「嫌韓」と言う形でネットを席巻し、ネット右翼の源流ともなったと言われています。

ただ当時は、「所詮サッカーでの盛り上がりなんてたいしたことない」という見方が殆どで、ワールドカップによる排外主義の盛り上がりに注目していたのは、香山リカ氏などごくわずかでした。

では今回のカタールワールドカップも、2002年の日韓ワールドカップのように、「反西欧」の火付け役となるのか?その可能性は大いにあると考えるため、後に調べる人たちの参考になるように、ここにログを残しておきます。

追記(2022/11/25 12:11)

続き記事書いた。
amamako.hateblo.jp

克服の物語と、まつろわぬ者たち―『すすめの戸締まり』批評(ネタバレあり)

というわけで、早速『すすめの戸締まり』を、公開日(2022/11/11)の9時10分からの回で見てきました。前作の『天気の子』が僕的にはかなりぶっ刺さり映画だった
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ので、今回の映画も非常に楽しみにしていたわけです。

で、鑑賞した感想なんですが、一言で言うと次の2つになります。

「すごい映画だったというのは肌で感じるし、これこそ現代の日本に求められている『物語』なのかもしれない。」

「でも、僕個人としては、『これでいいのか?』と思ってしまう」

なぜ僕がこう感じたのか。以下の文章で説明していきます。なお、説明上どうしてもストーリーのネタバレを避けることができないので、今回の記事ではネタバレありで感想を書きます。ので、視聴前の人はできれば視聴してから読んでいただけると幸いです。

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しょーもない記事ばっかブクマされるはてブが嫌い

今日のうんざりネタ。

 

ジブリパークについて、以下の増田記事が、はてなブックマークで多くのブクマを集めています。

ジブリパーク、ダメかもわからんね

2022年11月05日曜日現在、ブクマ数は519ですね。

一方で、ジブリパークについては下記のような記事もあります。

#ジブリパーク で失った言葉の置き場|岸田 奈美

こちらは、現時点で58ブクマ、前の記事より十分の一ブクマが少ないわけです。

ところが、両者の記事を読み比べてみれば分かることなんですが、記事としてのクオリティを見れば、前者の記事より後者の記事の方が明らかに優れてるわけですよ。記事に含まれている情報量も、信憑性も、そして一番重要な熱量も・明らかに後者の記事の方が多い。

なのに現在のはてなブックマークでは、前者の記事が後者の記事の十倍のブクマを集め、ホットエントリになってしまうわけです。

いやまあ、理由は分かりますよ。前者の増田記事の方が、記事タイトルがキャッチーですし、さっと短時間で読むことができますもんね。前者の記事のような、単純に何かを貶す記事の方が、注目を集めるのが、残念ながら現代のインターネットなわけです。

でもだからこそ、はてなブックマークのようなサービスでは、後者のような、本当の意味で中身のある記事が紹介されるべきなんじゃないですかね。クリックベイトでPVを集めりゃ勝ちみたいな風潮に抵抗し、本当に良い記事をみんなで紹介していこう。それが、はてなブックマークのようなソーシャルブックマークサービスの、当初の理念だったはずなわけです。

 

みんなもうちょっと真面目に、インターネット使おうよ。

日本のテレビドラマって、なんで職業の魅力を描けないんだろう

先日、テレビを見ていたらなんかゲーム制作をテーマにしたドラマが放映されているらしくて、普段あまり地上波のゴールデンタイムにやっているドラマを見ない僕も、ちらっと流し見してみたんですよ。

で、見てみたんだけど、まーこれがひどい出来で。「ゲーム制作」の楽しさとか魅力が一切伝わってこない出来だったんですね。これならAmazonPrimeで『世界を変えたテレビゲーム戦争』

でも見ていたほうがよっぽどマシだなと思うような。あるいは、それこそ『NEW GAME!』とか『ステラのまほうとか。

で、考えてみると、自分、日本のテレビドラマ、それも地上波のゴールデンタイムにやっているようなテレビドラマで、「このドラマで描かれてる職業に興味湧いたな」と思ったこと、全然ないんですね。医者・看護師・消防士・パイロット・政治家・アナウンサー……色々職業をテーマにしたドラマはあるのに。

職業をテーマにしたドラマに興味がないのかなーとも思うんですが、外国のドラマだとむしろそういうドラマは大好きなんですよね。というかもともと『ER』

ザ・ホワイトハウス『ニュースルーム』マネーボールといったアーロン・ソーキン脚本が大好きだから、むしろ洋ドラでは職業ものばっかり見ている感じで。

更に言うと、日本の作品でもアニメや映画には、職業をテーマにした結構面白い作品があると感じるわけです。アニメならそれこそ『SHIROBAKO

波よ聞いてくれとか好きな作品があるし、実写映画でも『ラヂオの時間南極料理人クライマーズ・ハイとかなんかは、面白いし、そこで描かれる職業に興味が湧くわけです。

ところがテレビドラマになると、途端に上記のような作品と比べ、リアリティに粗が目立つし、更に重要なのが、そのドラマで描かれる職業に、興味が沸かないんですよねぇ。ていうかお話自体も、「この職業固有の面白さ・魅力で盛り上げよう」というものではなく、「職業がテーマだけど、ドラマの魅力は別にその職業の魅力じゃなくてもいいです」みたいな感じで作られてるように見えて仕方ない。

なんだろうなー、なんか企画の仕方が根本から間違ってるんじゃないかと疑いたくなるわけです。上記のような作品は、まず最初に職業自体の面白さ・魅力を知っている人が「この職業の面白さを知ってくれ」と思って企画を立ち上げ、作り手側もそういう気持ちを共有していると思うんですけど、日本のテレビドラマはそうでなく、そもそもテーマとなる職業になんの思い入れもない人が、自分の作りたいドラマを作るために職業をダシにしてるだけなんじゃないかと、そう思えてくるんですね。

それが、むしろ「職業もの」大好きな僕からするとムカついてしまう要因なのかも、しれません。

老害にならないためには努力が必要、ということ

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これと似たようなことは、僕もちょくちょく思っていたりする。


自分たちが若い頃は、スポーツ紙とか昼間のワイドショーとかでコメンテーターたちが、いわゆる「若者文化」について知ったような口を叩くのを見て、「ああいう大人にはなりたくねーなー」と思ってきたわけですよ。

ところが、自分たちがいざおじさん・おばさんになってみると、その頃僕らが馬鹿にしてた大人たちと同じことをやっているわけですよ。

で、そういう年代になると分かるわけです。「ああ、人って自然に生きてるだけじゃ、自然とああいう老害どもと同じになっちゃうんだなぁ」ということが。

いかに人は老害になっていくか

若い頃というのは、まだ人生経験も浅いですから、何を見ても新鮮で面白いものです。さらに言うと、バイタリティも溢れているから、新しい技術・文化をどんどん摂取し、それにのめりこんでいくことができる。

ところが、年を経ていくと、新しい技術・文化を見ても、「これと似たようなもの散々見た」と思ってしまう。実際は、確かに過去の反復も含んでいるかもしれないけど、その中には新しいものが含まれているのに、表層の要素の一部だけチェリーピッキングして、「昔の焼き直しでしょ」と言いたくなるわけです。

そして、過去に自分が摂取した技術・文化の単なる焼き直しとして新しい技術・文化を捉えるから、当然その新しい技術・文化に対する評価も厳しくなる。しかしその一方で、若い人は、かつて自分がそうだったように、自然と新しい技術・文化にのめりこんでいくから、加齢した身からすると冷や水を浴びせかけたくなるわけです。

しかし、結局その冷や水も、新しい文化・技術の表層を撫でたものでしかないから、若者にとっては当然とんちんかんで的外れな指摘になるわけだ。こうやって、かつて自分たちが忌み嫌っていたはずの老害に、自分がなっていくわけですね。

新しい技術・文化は、きちんと勉強しなくてはならない

では、こういう老害にならないためにはどうすればいいか。

まず言えることは、単純に「新しい技術・文化に対し、それをよく知らないままコメントしない」という、ごく当たり前のことです。

ただ、そこで沈黙して、ただ見守るだけの存在になるというのもなかなか難しいわけです。というか、そんなまっとうなことができる人たちばっかなら、そもそもはてなブックマークなんて存在してないわけで。

だったらせめて、「全くとんちんかんなことばっかり言う老害」ではなく、「言ってること10の内、7個は的外れだけど3個ぐらいは的を射ているおじさん・おばさん」になればいいんじゃないかなと、僕は思うわけです。

で、それに必要なのは、やっぱりきちんと新しい技術・文化を勉強していくことなわけです。

ところが、この勉強というのがなかなか難しい。若い内は、新しい技術・文化って、勉強しなくても、自然と摂取し、のめり込んでいくものなんです。周りに、既にそれに触れている人たちがいっぱいいるから、そういう人たちと交流することで、自然と知識や感性が身についてくる。

ところが、おっさん・おばさんになってくると、周りを見ても同年代の人らは、やれ資産形成だの結婚だのと言ったしょーもない話題ばっか話してるわけで、未だに新しい技術・文化に関心持とうとする人なんてほとんど居ないわけです。昔は、それこそ夜通し美少女ゲームとかアニメとか語れたような人たちだったのに。

そうなると、独学で勉強しなくてはならない。しかも、昔は何をみても「新しいな」と感じられたから、受動的に技術・文化を摂取していても楽しかったですが、いまは能動的に、新しい技術・文化の何が「新しいか」を、自分で発見しに行かなきゃならないんですね。ところが、若い頃若者文化に触れてきた人でも、案外「能動的に楽しさを見つける」というのは、やってこなかった人が多いので、これもなかなか難しい訳ですね。

ただ、それでも僕はこう言いたいわけです。「加齢したって、新しい技術・文化を学ぶことはきっと楽しいよ」と。

「めぐり会えたら、何かが変わる」わけがないんだな

www.youtube.com

捜してる誰かのAffection
めぐり会えたら 何かが変わるのに
She Is Here And He Is There
街のどこかで 呼びあうよ

amamako.hateblo.jp
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この騒動について書くのは、今日これで3本目になります。書きすぎだよ自分……

しかしなんつーか、書いても書いても自分の心の中で収まりがつかないんですね。

何で収まりがつかないかと言えば、やっぱり心のどこかで、動画で否定された、「自分の妄想を押しつけるオタク」というものを、自分と全く異なる存在として切り離せないからなのかなと、思ったりするわけです。

かつて「オタク」とは、コミュニケーションに難を持つ者のことだった

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この記事、基本的には今回の騒動を茶化している記事なんですが、しかし下記の一文は、僕の心に刺さっちゃって仕方ないんです。

定型文でしかコミュニケーションらしきものをとることが出来なくて、人が嫌がってることがわからないから知らず知らずのうちに悪ノリで人を傷つけてしまう。
このコミュニケーション不全こそがオタクの本質なんだよ。

オタクってのはなあ!おしゃべりが好きでユーモアに溢れた人間が名乗っていい呼称じゃねえんだぞ!
お前なんかがへらへら笑って名乗っていい呼称じゃねえんだぞ!

まあ、ちょっと歴史の話をするなら、オタクという言葉は、中森明夫という人が、「『おたく』の研究」という記事で取り上げたのが、メディアにおいて最初に取り上げたもので
www.burikko.net
上記の文を読めば分かるとおり、他人からどう見られるか気にしない様を、差別的な表現を使って揶揄するものだったわけです。また、同時期に「オタク論」として読まれた中島梓氏の本も

タイトルはそのものずばり『コミュニケーション不全症候群』だったりするわけです。

ただ、それを「一つの物事を追求するカッコいい人」と、ポジティブな意味で定義し返したのが、今ではすっかり人気YouTuberとなった岡田斗司夫で、『東大オタク学講座』

なんかで、「オタクは本当はすごくてかっこいいんだ」というアジテーションを仕掛け、それを契機にオタクという言葉の意味合いが反転したという歴史があったりします。

しかし一方で、いくらメディア上でそういうオタクを巡る象徴闘争*1が繰り広げられても、それが個々のオタクの心性を変えるわけではないわけです。そして、オタクの原初の意味である、「コミュミケーション不全」に焦点を当てたのが、『ヨイコノミライ』という作品でした。

そして、ここで僕は思い至るのです。「ああ、今回嫌がられているのって、まさしく『ヨイコノミライ』に出てくる、平松ちゃんのような女の子なんだ」と。

平松ちゃんのような女の子を、幸せにしたい

詳しくは『ヨイコノミライ』を読んでもらいたいんですが、『ヨイコノミライ』に登場する平松かの子という女の子は、とにかく現実を直視できない女の子で、同級生の男の子と付き合っても、その男の子の気持ちなんか一切無視して自分の理想を押しつけて、最終的に振られ、創作活動においても自分の能力のなさを直視できずトレースをしたりする、普通の人だったら絶対関わりたくない、そんな女の子な訳です。

しかし僕は、この平松ちゃんに、対し、過剰なまでの執着を抱いてしまうんですね。そのことは、これまでも散々ブログ記事に書いてきたわけです。
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note.com
その執着は、端的に言えば「平松ちゃんのような女の子を、幸せにしたい」というものです。

平松ちゃんは、確かに世間的に見ればダメダメな女の子かもしれないけど、でもそのダメさって、だれもが心の奥底では持ってるもので、ただ平松ちゃんは人より正直で、嘘がつけない故に、そのダメさを隠すことが出来ないわけです。

その正直さが、本当に僕には愛おしくて仕方なくて、「こんな女の子こそ、幸せにしたいのになぁ」と、思ってしまうのです。

更に言えば、そういう女の子が救われるなら、僕の心の中にもある、平松ちゃん的な部分、「間違っているのは、僕じゃ無くて世界だ」という思いが、救われるような気がしてならないんですね。

She Is Here And He Is There

そして僕は、こう思ってしまうのです。「ダメなオタクオンナは、ダメなオタクオトコとくっつけば良いのに」と。
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この記事も、基本的には今回の騒動を揶揄するものな訳ですが、「母親を求める男性オタク」と「母親面したがる女性オタク」がいるのなら、その2つがくっつけばいいじゃないかというのは、本気で思うわけです。

先に引いた中森明夫氏の「『おたく』の研究」でも、以下の様なことが、嘲笑する形ではありますが、言われています。
www.burikko.net

  でもさぁ、結局世の中誰でも最後は結婚するんだよね。で『おたく』
は誰と結婚するのかなぁってずっと不思議だったんだけど、おそろしい
事実に気づいたね。なんとこれが、『おたく』は『おたくおんな』と結
婚して『おたくこども』を生むのであった。ジャンジャン。

これが現実なら、例えどんなに第三者に揶揄されようが、当人たちはこれで幸せになれるわけですが、しかし現実はそうではない。

むしろ、ダメな女性オタクとダメな男性オタクは、双方「あんな奴ら相手に出来るか」とバカにし合って、交わることは無いわけです。そして両者はともに、美男美女のアイドルに対して、迷惑な感情を押しつけるわけです。

ダメなボクとダメな君がフラフラ踊ってみたけど

ただその一方で、無理矢理ダメな女性オタクとダメな男性オタクをくっつけたとしても、上手くいくことはないということも、僕は分かってるわけです。それはまさに『ヨイコノミライ』で描かれていたことなわけですから。平松ちゃんと井之上くんが付き合っても、結局お互いに理想を押しつけ合って、傷つけ合うだけなのです。

www.youtube.com

ダメなボクと
ダメな君が
ご主人様と犬になって
お散歩に行くとしても
行くあてはないのだから
海にロケットを見にゆく人の
混雑にまぎれ はぐれちゃうよ

それっきり 会えない

「かわいい」という眼差しの先にあるパーソナリティ消費

amamako.hateblo.jp
前回の記事を書き上げた後、再度アクシア・クローネ本人の動画を見た。
www.youtube.com
見ていて改めて思ったのが、「これ、自分がアクシアのファンだったら大分ショックだろうな」ということだ。特に、もし自分がアクシアを「かわいい」と思って推しているファンだったとしたら、まさしく自分が全否定されたと思うわけで、正直他のライバーを推している自分にとっても、他人事とは片付けられない。

今回の動画に対するネットでの論考

このアクシア氏の告白については、他の人も論考を書かれている。例えばはてな匿名ダイアリーでは「「かわいい」という言葉に潜む棘」という記事が書かれ、
anond.hatelabo.jp
その記事では

当たり前の前提を話すと、活動者に対して「かわいい」と声をかけることが間違ったことには絶対になり得ない。

と書かれつつも、しかし一方で

でも全く問題がないのか問われれば俺は「NO」と言う。そして多くの人は「全く問題がない」と考えて日々生活している。そこのギャップ/認識のズレが今回の問題として表出してきたように感じた。

と書かれ、そしてそこで「かわいい」という言葉が、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定として取られるということが述べられている。

「かわいい」という言葉に内包されているニュアンスとして、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定ということがある。「かわいい」=「ダサい」ではなく、「かわいい」という言葉の一部分に「ダサい」というニュアンスがあることを否定できない、というレベルのことだ。問題は、その部分の割合が男性個々によって違うということだ。だから、ある男性は嬉しく感じ、ある男性は「ダサい」というようなことを暗に言われたと感じるということになる。

一方で、ペシミ氏は「我々は「VTuber」を愛しているのか? ─アクシア・クローネについて」という記事を書き、アクシア氏の発言が一人歩きをすることに懸念を示し、「場の規範」を尊重することの重要性を説いている。
note.com

 今回の件で、「ガチ恋やめろ」とか、「母親ヅラは良くない」という言説だけ一人歩きしてしまうのは良くない傾向だと思う。実際、ガチ恋や母親・恋人ムーブを許容するVTuberは多くいる。最も強調すべきは、「郷にいれば郷に従え」だろう。「概要欄読んどけ」と換言しても良い。

「かわいい」という言葉の裏にあるパーソナリティ消費

これらの論考は、どちらも正論だと思う。しかし、そう思う一方で、何かが足りないような気がする。

「「かわいい」という言葉に潜む棘」において、匿名ダイアリーを書いた人は、「かわいい」という言葉が、「ダサい」「上手くやっていない」という意味を内包することが示され、それは褒め言葉ではないということが言われている。

しかし、そもそもゲームが上手いことだけを求めるのならば、それこそeスポーツの配信でも見ていればいいのであって、そこでわざわざバーチャルYouTuberの配信を見るというのは、「ゲームが上手い」ということとは違う価値を求めているのでは、ないだろうか。

それは、一言で言えば、「ライバーの成長、そしてそれにつきまとう失敗を楽しむ」という側面だ。そして、その側面は、ストリーマーというよりはむしろアイドルに近い。

アイドルとファンの関係について様々な論考が載せられている『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』という本

の第9章「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」において松本友也氏は、アイドルとファンの関係について次のように書いている。

特に、ステージにせよバラエティーにせよ、アイドルが何らかのチャレンジをおこなうときには不確実性が期待される。そしてそれを乗り越えんとする能動性のなかに、あるいはその結果生じる技術的な綻びのなかにパーソナリティがにじみ出す。言い換えれば、「パフォーマンス=演技」の失敗による「素」の漏れ出し(のように見えるもの)が、そこでは期待されている。

(略)

「できなさを愛でる」「成長を応援する」といった言い回しが悪趣味さを感じさせるとしたら、その背後に失敗によるパーソナリティのにじみ出しを期待する心性が潜んでいるからではないだろうか。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(p.201).株式会社青弓社.Kindle版.

つまり、アイドルとしてライバーを見ているファンにとっては、ライバーに期待されるのは「華麗にパフォーマンスすること」ではなく、「一生懸命パフォーマンスすることによって出現するパーソナリティ」であり、そして「かわいい」という言葉は、まさにそのパーソナリティを消費する言葉なのだ。

パーソナリティーを消費するよう人々を仕向ける情報環境

もちろん、アクシア氏はそのようなパーソナリティを消費するファンの欲望について知っている。そして知った上で、「そのような消費はやめてくれ」と言っているのだ。

しかし、そもそもアクシア氏が身を置いている、現代のメディア環境は、個人の「パーソナリティ」を売り物にすることで成り立っているのもまた事実な訳だ。『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』第1章「絶えざるまなざしのなかで」において、香月孝史氏は、現代のアイドルを取り巻くメディア環境について、次のように述べている。

先に述べたSNSの浸透を前提としたメディア環境とは、一面ではアイドル自身がなにがしかの成果物や自身のパーソナリティ、近況などの発信に絶えず駆り立てられることを意味する。だがその反対側では、それを享受する受け手たちによるによる消費のありようもまた、絶えずアウトプットされるということでもある。そうした相互の関係性は、アイドルが自己の承認や表現の場を求めようとする際の重要なよりどころになっていることは間違いない。しかし同時にこの環境は、受け手が投影する様々な欲求が肥大した先に、それら受け手による誹謗中傷や流言飛語が公的空間に向けて発信され続ける場を用意してもいる。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(p.29).株式会社青弓社.Kindle版.

そして、そのような受け手側がアイドルに求める欲求として、戸田真琴氏の論考
fika.cinra.net
を引きながら、次のように述べている。

受け手側の消費行動に関して、さらに戸田が目を向けるのは、アイドルが一人の人格としてよりも、わかりやすく「キャラクター」として消費されていくような事態である。戸田は昨今のアイドル表象に関して、固定的なジェンダー観が解きほぐされてきている実相について慎重にふれたうえで、しかしながら「「男らしい」も「女らしい」も「(男性なのに)繊細」も「(女性なのに)強くて個性的」も、はじめは個々の持っていた性質であったにもかかわらず、「そういうキャラクター」として単純化され認識されてしまう」ことを指し示す。そして、アイドルが人格としてでなく「キャラクター」として扱われていく先にあるのは、「消費者が他者の容姿や性格や性質に対し、一方的に評価を下すことが当たり前になっている環境」である。ここで問題にされているのは、対象を称揚しているかくさしているいるかといった、表面上の意味内容そのものではない。一人の人格であるはずのアイドルを、本人あるいは公に向けて際限なくジャッジすること自体のいびつさ、そしてそうした行動に消費者が慣れきってしまうことへの警鐘である。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(pp.30-31).株式会社青弓社.Kindle版.

アイドル自身がSNSや配信で自分のパーソナリティなどをあらわにすれば、受け手のファン側もSNS上でそのパーソナリティを「キャラクター」として消費していく。それは、アイドルに限らず、インターネットを利用して活動する全ての人にあてはまることなのだ。

もちろん、そのような環境そのものから撤退する自由はある。しかしそれは結局、「メディア上で収入を得ること」の断念につながる。戸田真琴氏は上記の論考で次のように述べている。

本来、アイドルとして公式に受けている仕事で見せる姿以外の、プライベートな振る舞いにおいてまで、「求められる姿」を演じることをファンが要求するのは業務外の過度な要求で、それ自体がアイドルとファンという関係性を超えた越権行為に違いありません。アイドル文化の経済圏がファンの「好意」を主軸として成り立つ以上、ファンの要求はある種命令に近い強制力をはらんでおり、実際には無視し切ることは難しいのだということは容易に想像できます。

アクシア氏は「初配信でかわいいと言われることが嫌だった」理由として、「その配信を見た人が去って行ってしまう」ということを挙げている。もしここで、ただ「他人が自分のパーソナリティを消費するのが嫌だ」とだけ思うのなら、単純にコメント欄を閉鎖してしまえば良いだろう。しかし実際問題として、コメント欄を閉鎖したまま新人ライバーが人気を得ると言うことは不可能に近い。自分の意に沿わないパーソナリティ消費を苦痛に思うけれど、しかしインターネット上で活動するためには、そのような意に沿わないパーソナリティ消費が行われるコミュニケーションの場に頼らざるを得ないというのが、ライバーに限らず、イメディア上で活躍し、その経済で生計を立てる全ての人が追いやられている、袋小路なのだ。

パーソナリティを消費するファンの側が、何が出来るか

上記の論考において戸田真琴氏は、このような資本主義社会が駆動するメディア環境にアイドル側が抵抗するのはほぼ不可能だとし、ファンの側にこそ、世界を変えるためにできることがあると説く。

約5年余りアダルト業界に身を置いてきて痛いほど解るのは、資本主義が人間の尊厳を食いつぶそうと牙を剝くとき、なにかを売る側ができることはとても少なく、主体としての買う側の意識が変わらないと世界を大きく変えることは難しいということです。

消費者が刺激に鈍くなり、より過激なものを求めるほど、つくる側はそれを売ります。その過激なグラビアや映像コンテンツをつくるとき、それを見る人のために、とぐっとこらえるのはいつも、勇気を出して人に見られる仕事をしにやってきた人たちでした。それは私のいる業界ももちろん、今回お話ししたエンタメ業界にも、グラビア業界にも、物書きの人にもクリエイターにも、誰かに消費されることが経済の約束で決まっている人たち皆に訪れるやるせなさです。

世界を変えるのは劇的な力を持ったスターではなく、そのスターを眼差すあなたです。誰を応援しようか、なににお金を払おうか、どんなことに文句を言って、どんなことを賞賛しようか、わけのわからない映画が嫌いだからわかるようにつくれと言うのか、それともわからないなりに楽しむのか、わかるように勉強してみるのか、それを選ぶあなたの手に、ここからの世界がどうなっていくのかの最も重要なハンドルが握られているのです。

では、ファンの側に出来ることとは、一体何なのか。

ここで再び、アクシア氏の動画に立ち戻ります。*1

僕は今まで、アクシア氏の動画を「『かわいい』という言葉で自分のパーソナリティを消費するのはやめてくれ」というメッセージとして読み解いてきました。ですがその一方で、そのメッセージを雄弁に語るアクシア氏に対し、ある種の「かっこよさ」もまた、感じるわけです。

その「かっこよさ」は、上記の動画をアップロードした後に投稿された、次のラップ動画を見るとより強く感じるようになります。
www.youtube.com
正直、この動画にはある種の滑稽さがあります。これは、僕がヒップホップ文化に疎いから感じることなのかもしれません。言いたいことをラップにして語っちゃうという行為に、どうも青臭さを感じてしまうわけですね。

しかし一方で、その青臭さを恥じずに言いたいことを正面から言う姿勢は、まさしく「かわいい」ではなく「かっこいい」ものなわけですね。

つまり、ここでアクシア氏が行おうとしているのは、ただ客体として「かわいい」と言われる存在でいるのではなく、主体として「かっこいい」と見られようとする所作なわけです。パーソナリティ消費が避けられないのだとしたら、自分の意に反する形で消費されるのではなく、自分の見られたい姿を提示しようという試みが、まさにこのラップ動画なわけですね。

僕は、これこそまさに、資本主義に駆動されるメディア環境の中で、ライバー側が出来る抵抗なのだと考えます。

では、このような試みを、ファンはどう受け止めるのか?「自分の理想としていたアクシアじゃない」と拒否するのか、「アクシアって実はこういうキャラだったんだね。それはそれで面白いじゃん」と受け入れるのか。

ボールがあるのは、ファン側の方なのです。

*1:ここから敢えて「だ・である」調から「です・ます調」に変える