あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

あなたはまどかを信じますか?

God is a concept by which we measure our pain


John Lennon - God

はい、という訳でこのブログではもう三度目となる魔法少女まどか☆マギカ(以下「まどマギ」)の話題です*1

今回取り上げるのはこれ。
まどか教 (まどかきょう)とは【ピクシブ百科事典】
*2

最終回にて遂にキュゥべえと契約し、その時願った全時空を越えて魔法少女達を絶望から救うという願いによって、宇宙の法則をも変え、永遠に魔女を消し去るという概念、魔法少女達を救済する「神」に等しき存在になった女神まどか様。
彼女を崇拝し、女神まどか様がいまの世界を創造なされたことを全世界に伝える事を目的にした宗教団体である。

もちろん実際にそういう宗教団体が現実に存在しているわけでは(今のところ)なく、まどマギの、特に今引用した最終回付近の展開にヤラれちゃった人たちが、ネット上で半ば冗談的に「女神まどか」への信仰を表明したり、またまどマギの二次創作を宗教画であるかのように称えたりする、ネット上でよくある「祭り」の一つと言っていいでしょう。*3
しかし考えてみると、まどマギという作品自体結構宗教的な側面もあり、そしてまた、そのまどマギという作品に対するファンの盛り上がり、特に最終回放映付近での熱狂は、ある種宗教的と言ってさえ良い盛り上がりだったわけで、「女神まどか」、「まどか教」といった呼び方は、まどマギにおける「まどか」というキャラクターの扱われ方や、またまどマギという作品に対するファンの盛り上がりを、うまく表現したものなのではないでしょうか。
今回の記事では、実際にまどマギという作品やその作品に対するファンの盛り上がりが、一体なぜ宗教といえるのか。それを説明した上で、そうしてまどマギという作品や、それに対するファンの盛り上がりが宗教的であったが故に、見失ってしまったものがあるんじゃないか、ということを考えていきたいと思います。

まどか教は「宗教」といえるのか?

さて、まどマギという作品自体や、それに対するファンの盛り上がりが宗教的なものと言えるかどうかを考えていくために、まずそもそも「宗教」、「宗教的なもの」って一体何だ?ということを考えなければならないでしょう。ところが、それがとてつもなく難しい問題であることは、ちょっとでも宗教についてマトモな本を読んだことがある人なら簡単に分かることだと思います。*4ただでさえ宗教なんてトンでもな人が湧きだしやすい領域ですし、そういうトンでもな人を除いたとしても、神学・宗教学・宗教社会学といった様々な学問で、全く違ったアプローチが「宗教」に対してとられている。これらの様々な見解をそれぞれまとめるだけで十分本が一冊書けるわけです。*5
ここではそういう様々な見解全てを追いかけることはせず、様々な見解の中から二つの定義だけを取り出して、その二つの定義に照らし合わせていくことにより、まどマギという作品、またそれに対する人々の盛り上がりがそれらの定義にあてはまるかどうか、考えていきたいと思います。*6その二つの定義とは

  1. 世界を「聖」と「俗」の二つに分け、「聖」の領域において人々を集合的に沸騰させることにより、人間集団を一つにまとめあげるもの
  2. 人々に「究極的基準」を提示するもの

です。ここからは、これら二つの定義が、一体どういう意味なのか解説した上で、それをまどマギに適用していって見たいと思います。

イヌカレー空間という「聖なる空間」

それではまず一番目の定義。「世界を「聖」と「俗」の二つに分け、「聖」の領域において人々を集合的に沸騰させることにより、人間集団を一つにまとめあげるもの」という宗教定義から考えていきます。
この例として一番分かりやすいのは「神社」と「祭り」でしょう。最近は「パワースポット」なんて言い方もありますが、神社の中というものは、神社というものに信仰心を持っている人にとっては、その神社の外の「俗世界」とは違う、「神聖な場所」に感じられるわけです。その神聖さは、普段は人々を鎮めるように働くわけですが、しかし時に、神社という聖なる場所で盛り上がり興奮することが許される機会が与えられます。それが「お祭り」です。お祭りの時は誰もが興奮し、その聖なる空間を享受する。そして往々にしてそこでは、俗世界でのルールや役割が無効化され*7、「私たちは一つだ」という共同意識を持つようになり、これが祭り以外の時も深層意識の中で持続するのです。
つまり、様々なルールや役割に縛られ「自立した個人」として生活することが要求される日常の空間と離れた場所で、「集団」としての自意識を持つ、それが「宗教」を信じることであり、そのような集団的自意識を与える仕組みが「宗教」だ、という定義です。
では、この定義を実際にまどマギという作品、そしてその作品に対するファンの盛り上がりに当てはめてみましょう。
まずまどマギという作品そのものについて。このまどマギという作品の大きな特色として、「イヌカレー空間」というものが存在します。この作品においては、登場キャラクターたちが魔法少女に変身し、魔女と対立する場面においては、「劇団イヌカレー」という特別な演出家が、それ以外の場面とは大きく異なる特殊な演出をします。そのような演出が行われる場面、そして、その時魔法少女が魔女と戦う空間が「イヌカレー空間」と呼ばれるわけです。このようなイヌカレー空間の「聖」性は、実際にまどマギを見た人なら感覚的に分かることでしょう。更に付け加えるならば、イヌカレー空間に存在する魔女は、人間を殺すものと描写されています。言い換えればイヌカレー空間は「死(もちろんこれは「聖」に属する問題と、宗教という仕組みにおいてはみなされている)の空間」とも言える。そしてそこで魔女に殺された人間は、外の「俗世界」においては「自殺」したものとして扱われるが故に、「聖」に「俗」が介入することもできず、「聖/俗」の区別が保たれているわけです。
そしてそのような空間において、登場キャラクターたちは魔女と文字通り「死闘」を演じるわけです。これも、まどマギ7話におけるさやかの暴走シーンを見た人なら、感覚的にここで極度の興奮状態にあることが分かるでしょう。
しかし集団意識という点についてはどうか?これについては多くの人が疑義を唱えるかもしれません。というのも、まどマギという作品においては、魔法少女同士の憎しみや殺し合いを描いたところが、大きな特色とされているからです。登場早々マミとほむらが反目しあい、第五話においてはさやかと杏子がつばぜり合い、最終的には魔女化したとはいえ、さやかと杏子が相討ち、十話の回想シーンにおいてもマミが錯乱してさやかと杏子を殺す*8という、このような点からまどマギは魔法少女版仮面ライダー龍騎(仮面ライダー同士がバトルロイヤルで戦うという展開で話題を集めた)とも言われたりしたぐらい、それぞれのキャラクターの対立を描いた作品なわけですから。
しかし逆にいうと、そのように対立しあう魔法少女たちが、しかし最終話において女神まどかが救いを与えることにより、対立しあわずに済む仕組みを与えられ、対立しあわない「私たち魔法少女」という集団的自意識を持てるようになるわけです。そして、そのような展開があるからこそ、まどマギは「まどか教」なんていう宗教を生み出した。そのような点から言えば、やはりまどマギという作品は、集団意識を生み出す、宗教的性質を持つものであるといえるでしょう。
もちろん、ただ魔法少女たちが集団として団結するだけなら、プリキュアなどの具体例を引くまでもなく、魔法少女物語にはよくあることと言うことができるでしょう。まどマギの場合重要なのは、それが完全に日常の世界と隔絶した「聖なる空間」で行われるという点です。プリキュアカードキャプターさくら、またそれ以前の魔法少女アニメの多くにおいては、戦う場所はあくまで日常の延長線上でした(カードキャプターさくらが「ご近所の平和」を守るものと自己規定していたことが象徴的)。中には、リリカルなのはスレイヤーズレイアースといった異世界で戦う魔法少女も居ますが、しかし彼らにしても、その異世界の平和を守るために戦うのであり、そしてその戦いの根拠として、異世界を「日常」として生きる人々が、その描写の上手い下手は別として、描かれるわけです。
ところがまどマギにおいては、演出上も日常空間とイヌカレー空間は大きく隔たって描かれますし、その内実も、魔法少女たちが直面する残酷なシステムや、その中でもがく魔法少女たちの様子は極めて多く描かれるが、しかしでは、その魔法少女達が守っているはずの日常空間はどうかというと、その描写はごくごく表面的・類型的にしか描かれないわけです。
実際、魔法少女たちが魔女を倒して人々を救っても、それは日常空間においてはなかったこととして扱われますし、人々を救わなくても、ごくごくふつうの「自殺」として処理されるだけ。仁美という、主人公達の友人であるキャラクターを救った時でさえ、描写は極めて淡々とし、「私たちが戦うことによって一人の生と日常が守れた」という実感は得られない。実際、僕なんかはなんでこの魔法少女らが命を賭けて戦うのか、「魔女は成長するまで倒さなくていいじゃん」と言った杏子にさやかがなんであそこまで怒るのか、なぜワルプルギスから逃げないのか、結局最後までよく分かりませんでした。
例えるなら、この作品においての魔法少女は「十字軍」のような存在なのです。通常、近代国民国家における総力戦においては、人々は国家の為に戦うことが要求されます。そこでは、国家というものが命を賭けるに価するものであると偽装するために、人々の日常生活が危機にひんしており、それを救うためには敵国と戦うしかないということがこれでもかというぐらいに宣伝されます。そしてその宣伝においては、自国の平和な日常というものが、守るべきものとして描かれます。
しかし十字軍においては、そのような人々の日常を守るという大義ではなく、「キリスト教」こそが大義として現れます。だからこそそれこそ自分たちの日常と殆ど関係ないエルサレムという「聖なる土地」にまで、ヨーロッパの人々が遠征するわけです。それと同じように魔法少女たちも、建前としては「この世界を守るため」であるのだけれど、しかし実際は、それこそ最終回のほむらを見れば一目瞭然なように、「女神ほむらの御加護のため」*9に、戦うわけです。そしてそれは、通常の魔法少女のような日常の延長線上ではなく、イヌカレー空間のような日常と隔離された所で戦う、宗教的営みとして現れるのです。

震災によって切り離された「虚構」と「現実」

さて、ここまではまどマギという作品自体について、「世界を「聖」と「俗」の二つに分け、「聖」の領域において人々を集合的に沸騰させることにより、人間集団を一つにまとめあげるもの」という宗教の定義が当てはまるか見てきたわけですが、では、その作品についてのファンの盛り上がりはどうでしょうか?
しかしこれについては、むしろ作品自体が宗教的であるかよりも分かりやすいでしょう。まず「聖」と「俗」の区別については、まどマギが深夜アニメであるという事自体、一種の日常世界からの分離と言えます。そして幾らまどマギという作品についてファンが盛り上がろうが、それはあくまでフィクションの作品についての盛り上がりであり、ほとんどの場合私たちの生きる世界の事柄とは殆ど関係ないわけです。*10もちろんまどマギという作品に関わっている作り手にとっては違うでしょうが、しかしただの視聴者にとっては、まどマギでいくら盛り上がろうが、それによって自分の現実の生活は余り変わらない。逆に言えば、そのように自分の現在の日常を変え得ない「安全」なものであるから、人々は安心してのめり込むことが出来るとも言えるのです。
そして更に、このアニメが最終回に到る盛り上がりの9話が放送された時点で3月11日の東北大震災によって一旦中断し、そして長い中断の後、4月21日の深夜に三話が連続放送されたこと(TBSの場合)もかなり重要です。まずこのことにより、最終回放映時は、ただ物語の終わりが見れるというだけではなく、それが長い間待たされたものであるということから、興奮はかなり高まりましたし、そして実際の物語の内容も、最終回付近まで鬱屈を貯めた上で、一気にその鬱屈を発散するという内容だったために、まさに放送延期がうまいことその鬱屈を更に貯め、その鬱屈が発散つれた最終回において、より興奮できるようになったのです。また震災を挟んだという点も、二つの意味で重要です。震災や戦乱など大規模な災害は、当然人の心に負荷を与えるわけです。もちろんその災害に実際に直面した当事者なら、娯楽なんかに関わっている暇は、もしかしたらあまりないかもしれません*11、しかし今回の震災の場合、多くの人はマスメディアによって被災地の惨状を見て、そこで恐怖を覚える一方で、ほとんど何も出来ない自分に不安や怒りといった感情を覚えていたわけです。そんな中でまどマギという作品は、まさにそういう震災以降の社会状況とシンクロした上で、それに対する「救い」を提示した。もちろん、実際まどマギにおいて女神まどかが救ったのはまどマギという作品の中での世界で、現実には私たちの世界は救われてなんかいないわけですが、しかし多くの人は「ワルプルギスの夜」という作中での災害に3月11日の震災を重ねあわせ、そして現実世界において不安に怯える人たちに女神まどかが「いつでもあなた達を見守っている」と言っているように思った。だからこそまどマギの作品についての盛り上がりはあそこまで大きな盛り上がりになったのだ、ということは、やはり否定しがたい事実でしょう。
しかし一方で、震災は逆に、「自粛ムード」という言葉に示されるように、このような娯楽を楽しんでいて良いのか、というような疑念を与えてしまうこともまた事実です。いくらまどマギがいい作品であり、それで自分が興奮しているとしても、一方でそれを現実において発露することは、3月11日以降においては許されないことである様に思えてくるわけです。例えば、これまでネット上で話題になった作品においては、よく「聖地巡礼」ということが行われました。これは、アニメの背景の参考に使われた場所に実際に行ってみる行為をさした言葉で、ある種アニメと現実を結びつける行為であり、そしてそれは、らき☆すたというアニメの聖地巡礼を、そのされる側の地方が町おこしに利用することからも分かるように、アニメの盛り上がりが現実に介入していく、そんな状況にもつながるわけです。
ところがまどマギの場合は、あれほど盛り上がった作品にも関わらず、聖地巡礼のような、意識上ではなく実際に、アニメと現実を結びつけ、アニメによって現実に介入するような行為・状況はほぼなかったのではないでしょうか。これはやはり「自粛ムード」が大きく関係していることなのでしょうが、しかしそうであるが故に、まどマギという作品において「聖」と「俗」の分離はより貫徹され、あくまでまどマギという作品に興奮したことは、内心やネット上にとどめておく私秘的*12な、宗教的性質を帯びるようになったとも言えるのです。

「女神まどか」の名のもとに

それでは次に「人々に『究極的基準』を提示するもの」という宗教定義について考え、そしてそれがまどマギという作品、またその作品に対するファンの盛り上がりに適用できるかどうか、考えていきます。
この「究極的基準」というのはなかなか分かりにくい概念だと思いますが、分かりやすいのはキリスト教の例でしょう。キリスト教の信者は、様々な規則、より宗教的に言うならば「律法」を守って暮らしています。その規則の中には、キリスト教信者以外にとっても当然と思える規則、例えば他者を傷つけたりしては良くないとかいうのもあれば、不倫や離婚をしてはならないという賛否の分かれる規則、また安息日に礼拝をしなければならないというキリスト教信者以外にはほぼ効力を持たないような規則など様々あるわけですが、いずれにしても重要なのは、なぜそれらの規則が重要なのかといえば、それは神が決めた規則であり、その規則を破ることは「罪」であると信者たちは考えている、という点にあります。
つまり、彼らにとって一番重要なのは神が自分を愛しているか、自分を救うかどうかなのであって、その「神」という基準ただ一つに基づいて様々な行為や決定がなされる、そのような基準を「究極的基準」と呼び、そしてその究極的基準を提示するものが、宗教であるとするのが、この宗教定義なのです。
さて、ではまどマギという作品自体がこのような定義にあてはまる宗教的性質を持っているか、考えていきたいと思います。
といっても実はこれに対する答えは既に前節でほぼ述べていると言って良いでしょう。まどマギは、元々何のために自分たちが行為し、決定すればいいか分からなかったような魔法少女に対して、女神まどかが神として君臨することによって、神様の庇護が存在することを魔法少女が認知し、そしてだからこそ戦い続けることが出来ると、そういう「究極的基準」を提示するものだったのです。

Don't forget.always,somewhere,someone is fighting for you.As long as you remember her.you are not alone.


和訳:忘れないでください。いつも、どこかで、だれかがあなたを守るために戦っていることを。彼女を覚えている限り、あなたは独りではないのです。

これは最終回の最後においてここでは「だれか=彼女」という存在が、忘れてはいけない絶対的なものとして提示されるわけです。そしてほむらは、そのような女神まどかの視線を常に感じることにより、自分を律し、魔獣との戦いに挑む訳です。
ここで重要なのは、最終回において女神まどかは、完璧に「見る存在」として存在し、それを信仰する人が見たり、あるいは何か影響を及ぼしたりすることが全く不可能な存在になっているということです。これも前節で述べたことの繰り返しになりますが、これまでの魔法少女においては、多くの場合彼女たちが戦う理由は、あくまで自分たちが生きる日常世界を守るためだったわけです。この日常世界は、まさしく魔法少女達もそこで生きる世界ですから、当然魔法少女達自身が関与し変えられる、そんな世界なわけです。逆に言えば、だからこそ日常世界は究極的なものではなく暫定的なものとして存在し、時に揺らぎ、そしてその揺らぎが魔法少女達の戦いに変化をもたらしたりもするわけです。
例えば『神風怪盗ジャンヌ

という作品においては、詳しくは是非マンガを読んでもらいたいと思うのですが、自分たちが仲間だと思っていた人が敵に回るような展開もあって、「戦う意味」というものが極めて問われる作品でもありました。そしてだからこそ、最終回では衝撃の展開があったわけです(詳しくはネタバレになっちゃうので自重)。
しかしまどマギにおいてはああいう展開は決して見いだせないでしょう。魔女が魔獣になろうが、それは徹底して戦わなきゃならない相手であり、それをやっつけなければならないことが「究極的基準」においては絶対の規則として示されるわけですから。
これらの比較から考えても、まどマギという作品において女神まどかは「人々に『究極的基準』を提示するもの」という宗教定義に極めて合致する存在として、描かれているといえるでしょう。

「謎の白い液体」と「まどか教」の狭間で

ではまどマギという作品の盛り上がりは一体この基準に当てはまるのか?
これは、ちょっと微妙なところがあることを、まず最初に認めざるを得ません。確かにネット上の「祭り」としてまどか教というものは盛り上がり、そしてその祭りにおいては、先ほど述べたような文章がまさしく「聖典」=「究極的基準」として提示され、そのような救いを常に感じて生きることが人々に求められているといえます。
しかし、それをマジになってやっている人が、果たして本当に居るか。と問われれば、やはりこれには大きな疑問符をつけざるを得ません。むしろ、そういうマジになる人間をエヴァ*13の時のように多く生み出さなかったからこそ、まどマギは安全性を持ったものとして、僕を除いて(笑)アンチをほぼ生み出すことなく人々に受け入れられたのではないかと、言えるわけです。
しかしそのようにマジに受け取られることがなく、あくまで生活の一部分だけで「娯楽」として受け入れられ、生活全体を支配しないようなものは、今まではただの「文化」であって、「宗教」と捉えられることはなかったわけです。するならば、今までの宗教概念に照らし合わせるならば、やはりまどマギの盛り上がりは、「宗教」と認めることは難しいのではないか、ということが言えるでしょう。
しかしここで、「実はこれまでの『宗教』概念自体が変容しているのではないか?」という風に考えてみるとどうでしょうか。ただ、現代においては今までと違う新しい「宗教的なもの」が生まれつつあるのではないかという問題も、宗教に関する学問においては極めて重要視されているテーマであり、それこそまとめようと思えば本が一冊出来るレベルの議論が必要になりますから、この記事ではそこまで踏み込みません。ここでは「宗教とは『究極的基準』を提示するもの」という定義に関係してのみ、議論を展開することにします。
今までの宗教に置いては、「究極的基準」というものは、その人の生活すべてを支配するものでなければならないとされてきました。つまり、午前中はキリスト教に沿って生きるけど、午後に置いてはイスラム教に沿って生きるというような生き方はありえないとされてきたわけです。
ところが現代においては、むしろその時々で基準や価値観を入れ替え、人格までも「スイッチ」して生きていくような、そんな生き方の方が、むしろ普通であるという議論があります。一番わかり易い例は「テレビ」でしょう。ものすごい感動的なドラマでわんわん泣いた後でも、そのドラマの後のバラエティ番組においてはそれまでの感動が嘘のように馬鹿笑いをすることが可能であり、そうするように仕向けられる。そこでは価値観や基準というものが、短期間の間にころころころころスイッチすることが求められるわけです。
そして実はまどマギという番組がテレビで放映されたときこそ、この「価値観のスイッチ」が如実に観察されたわけです。CMという形によって。
「謎の白い液体」という言葉がまどマギ最終回放映直後、大きな話題をさらったことがありました。これは、翌日同じテレビ局で放送する『世界遺産』という番組の宣伝CMにおけるコピーで、まどマギのCMにおいて繰り返し流され、それがある種性的な隠喩にさえ聞こえることから、人々はそれが気になって仕方がないという状態に陥り、まどマギの本編が流れているときはさんざん感動する一方、CMにおいて「謎の白い液体」という言葉が登場すると大笑いするという、異様な後景が、放映当時のツイッターや2ちゃんねるにおいては見られたわけです。
ここで起きているのは、先程の番組の切り替わりによる「価値観のスイッチ」より更にラディカルな、CMと番組の切り替わりによる「価値観のスイッチ」です。あのときまどマギを視聴していた人々は、それこそ数分おきに、「まどマギにベタに感動する価値観」と、「『謎の白い液体』をネタにして笑う価値観」を、行ったり来たりしていたのです。そしてこれは、どっちかが偽物であり、どっちかが本物であるということではありません。当事者自身は、まどマギに感動しているときは本気で感動し、「謎の白い液体」を笑うときは本気で笑っている。つまり、それぞれの瞬間でそれを構成する「究極的基準」は全く異なりながらも、しかしそれぞれの瞬間においては、基準や価値観が「究極的なもの」として働いているわけです。
このように「瞬間瞬間で入れ替わるが、しかしその瞬間においては究極的なものとして提示される基準」、それすらも「究極的基準」と捉えるかどうかは、それぞれ意見は違うでしょう。ただ、もしこのような「新しい究極的基準」のあり方を認めるのならば、その「新しい究極的基準」に基づく新しい宗教概念に、まどマギはまさしく適合するということができるでしょう。つまり、生活全体を支配したりはしないけれども、少なくともそのまどマギという作品に接しているうちは、それを「究極的基準」として認めているという点で、まどマギという作品に対する盛り上がりは、「人々に『究極的基準』を提示するもの」という宗教定義に当てはまると、言うことができるのです。

まとめ……まどか教という「宗教」

ここまでの話をまとめると、以下のとおりになるでしょう。

  • まどマギは「世界を「聖」と「俗」の二つに分け、「聖」の領域において人々を集合的に沸騰させることにより、人間集団を一つにまとめあげるもの」か?
    • 作品自体について:「イヌカレー空間」と「日常世界」を隔離し、イヌカレー空間を戦場として描くことによって、それを果たしている
    • 作品への盛り上がりについて:「深夜アニメ」と「日常世界」を隔離し、そして深夜アニメとしては異例の盛り上がりを果たすことによって、それを果たしている(それには震災の影響も)
  • まどまぎは「人々に『究極的基準』を提示するもの」か?
    • 作品自体について:まさしく女神まどかが魔法少女にとっての「究極的基準」となっている
    • 作品への盛り上がりについて:「究極的基準」が、その瞬間瞬間で移り変わってもいいものとするならば、ファンにとっては、その作品に触れているときは「まどか教」という究極的基準を提示する

つまり、大体の点において、まどマギという作品、またその作品に対する盛り上がりは、「宗教」あるいは「宗教的ななもの」と言うことが出来るわけです。
さて、まどマギという作品、またその作品に対する盛り上がりが宗教的であるとして、ではなぜそのような宗教的な作品がここまで人気を得るようになったのでしょうか。
ちもろんこれまでも宗教的なアニメというのは多くありました。そのものズバリ宗教団体が作ったアニメとして、幸福の科学が製作した『仏陀再誕』なんてアニメもありますし、またついこの前も『ブッタ』という手塚治虫原作のマンガがアニメ映画化されたりしました。テレビアニメにおいても『地球少女アルジュナ』という作品は、かなり宗教的、というか今風の言葉で言えば「スピリチュアル的な作品」として、スピリチュアリティが好きな人から絶賛されていたりするわけです。
しかしこれらの作品は、カルト的な人気は確かにあったりするものの、しかし現在のまどマギブームと比べるならば、明らかに小さい流行しか生み出さなかったと言わざるを得ません。ただ宗教的な作品を作るだけでは、やはりどこか説教臭さや胡散臭さが鼻についてしまい、ヒットはしないわけです。
というかむしろ、宗教的な雰囲気はありながらも、しかし最終的にはそのような「宗教」を破綻させるような作品が、アニメにおいては人気を博してきました。『新世紀エヴァンゲリオン』や、その元ネタとも言われる『伝説巨神イデオン』なんかがまさしくそんな作品です。例えば新世紀エヴァンゲリオンにおいては、徹底して「戦う理由なんてない」ということが強調されます。様々な宗教的寓意を作品にちりばめて、なんとかこの戦いが「世界を救う戦い」であるかのように見せかけようとするのだけれど、しかし主人公のシンジはそのような「究極的基準」を徹底的に拒むわけです。一応TV版のラストでは、散々全てを否定した上で、「でもそれは心の持ちようによって変わりうる」という自己啓発セミナーのロジックでなんとかハッピーエンドに見せかけ、前向きに生きることが出来るようになったと見せかけられるわけですが、しかしそれすらも映画版において「でもあんたとは一つになれない」という風に突き落とす念の入れよう。そして作品の構造も、特に映画版においては、アニメ映画でありながら実写シーンを入れ声優にそのキャラのコスプレをさせることによって、「アニメ=聖/現実=俗」という区別を粉砕し、そして観客席を映画に写し、オタク批判のメッセージを加えることによって興奮に冷水をぶっかける、作品のメッセージも構造も、徹底して「アンチ宗教」的だったのが、新世紀エヴァンゲリオンだったと言えるわけです。
ですが、新世紀エヴァンゲリオンは、そのように徹底してアンチ宗教的な、それまで自明視されてきた基準や価値観といったものを粉砕する作品であったか故に、とても後味の悪い、それこそ作品の最後の言葉を借りれば「きもちわるい」作品だったわけです。その後味は、まさしくまどマギと対称的であると言って良いかもしれません。
そして実は、その「きもちわるさ」を容認できなくなったからこそ、人々はまどマギのような宗教的なものを求めるようになったと言えるのです。これについて解説するためには、90年代から10年代にかけて、現代日本社会がどのように変化していったかを見ていかなければなりません。

戦わなければ生き残れない……?

若い人には夢物語であるかのように思えるかもしれませんが、かつて日本では、「誰もが、真面目に生きれば、大学に入った後正社員になり、そして結婚して子どもを設けた後、定年退職して幸せな老後を送ることが可能である」と信じられていた時代がありました。僕は1987年生まれですが、僕が小さかった頃、つまり90年代の頃は、まだそんな「終わりなき日常」がごく当たり前に来ると思え、逆にそういう日常に反発しようと思っていた記憶があります。
もちろんそのような日常が、一方では1997年に山一證券という大証券会社が倒産したことからも分かるように、音を立てて崩れ去っていき、そんな中で今までの日本社会を守るのか、新しい日本社会を築いていくのかという、二つの考え方がせめぎ合っていたのが90年代という時代でもあったわけです。そんな時代において新世紀エヴァンゲリオンは、一方でこれまでのロボットアニメの「お約束」をことごとく破綻させることによって、今までの日本社会はもはや守れないという風な見方を示す一方で、でもそうやって古い「お約束」を壊していった後の未来が明るいものとも思えないという、90年代という時代を象徴する一方で、その時代の後に、日本社会が辿った道を前もって体験させるようなアニメとして、大きな話題を集めたわけです。
しかし逆に言えば、ただ先の時代を体験させるだけのアニメであったが故に、実際にエヴァ的な世界、つまり誰とも分かり合えず、絶対的な基準なんて何も見いだせない世界が全面化したゼロ年代には、エヴァ的な物語はあまり意味のないものとなってしまいました。代わりに台頭してきたのが、評論家の宇野常寛氏の言葉を借りて言うなら、「バトロワ系作品」です*14

ゼロ年代の想像力
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このような作品は、勧善懲悪といった絶対的基準なんてものが何も無い世界において、それぞれが「生き残る」為に戦っていく、そんな作品です。
そしてそのような「戦わなければ生き残れない」*15世界観というものは、ゼロ年代においては極めてリアルなものと映ったことも事実です。終身雇用制や正社員制が崩壊していき、不況が続く中で、人々はそれぞれ非正規雇用の身としてアルバイトを奪い合ったり、あるいはシューカツにおいて同級生たちと安定した雇用を奪いあったりする、まさしくバトルロイヤル的な世界が現実のものとして現れてきた訳です。
ただ一方で、そのようなバトルロイヤル的な世界についていけなくなった人々も、ゼロ年代は多数生み出しました。何よりバトルロイヤル的な世界は、常にサバイバル意識を持ち、生き馬の目を抜く様な臨機応変な対応をしなければならないという、過剰な負担を人々に強いるわけです。しかも、そうやって過剰な負担を耐えぬいて生き残った上で、じゃあ何か褒美や善いことがなされるのかといえば、ただ「生き残れる」だけ。一体なんのために自分は戦って生き残らなければならないのか、分からなくなってしまうのは、むしろ当然のことと言えるでしょう。
そんな風に、バトルロイヤル的な世界を強制されながら、しかしそれについていけない落伍者を多数生み出したのがゼロ年代であったわけです。
そして10年代、そのような時代を背景にしながら登場してきたのが、まどマギという作品であり、そしてそのような時代にまどマギは自らを「宗教的なもの」として提示し、人々を熱狂させたわけです。
では、一体その熱狂はどのようになされたのか。これについて考えるには、そもそも宗教というものはいかにしてそれぞれの「時代」に対応するか整理した上で、まどマギという「宗教的なもの」はどうやって「10年代という時代」に対応したのか、考える必要があるでしょう。

「真面目に働いて豊かに生きる」ことを支えたプロテスタンティズムの倫理

宗教というものは、それぞれが存在する時代によって大きく変わっていきます。仏教でもキリスト教でもかまいません*16が、その宗教が創始されたときと全く同じ宗教なんてほぼなく、だからこそ「創始期の宗教の原理に帰れ!」という原理主義運動が勃興したりするわけですが、しかしそのような原理主義運動でさえも、実証的に検証するならば、どこか現代的な教義解釈を持たざるをえないわけで、時代性というものに拘束されない宗教なんてものはありません。逆に言うと、それぞれの時代時代で人々が直面している問題に対し、答えを出してくれるからこそ、宗教というものは人々の信仰を集められると、言うこともできるでしょう。
では一体どのように時代と宗教は寄り添うのか。それを示す、一番わかり易い例が、実はかの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称プロ倫)なのです。プロ倫については以前限りないもの、それは欲望 - 斜め上から目線という記事で触れたことがありましたので、ここでは詳細には触れず、三行で解説します。

  • 私たちは救われたいんだけど、神様は既に救われる人を決めているから免罪符を買ったりするのは無駄らしい
  • 多分現世で真面目に働いて結果としてお金(資本)をたくさん溜め込んでいる*17人は救われているっぽいから、自分がそういう人なら不安はないね
  • そういう人であろうとする人々が大勢出たから、資本を貯めこんでそれを次の資本を増やすために使う近代資本主義が発展した

はい、この説明下手の僕が三行で解説できるわけがないわけで、まぁ詳しく知りたいんだったら自分でプロ倫読むなり僕が前に書いた記事読むなりネットで検索するなりしたりしてください。
とにかく「真面目に働いて豊かな暮らしをする」っていうことが人々の標準的な生き方になったのは、そのような生き方が様々な技術的・構造的要因もさることながら、それをよしとする精神が宗教によって準備されたからこそ、なしえたことなのだ。っていうのが、ウェーバーっていうおっさんの言ってることなのです。
ただ一方で、ウェーバーっていうおっさんは、確かに資本主義の始まりにおいてはそのようにプロテスタンティズムの倫理っていうことが大きな役割を果たしたけど、しかし時代が下るにつれ、そのような宗教的なものは忘れ去られ、ただ「真面目に働いて豊かな暮らしをする」ってことだけが重要視されるようになったと。これもそりゃそうで、「真面目に働いて豊かな暮らしをする」ことが物珍しかった時代ならば、わざわざ敢えてそれを選択するのはそれこそ「宗教的な動機」でもなきゃやってられない訳だけど、それがごくごく標準的になり、みんなそうするのが当たり前になってしまったら、別に宗教的な動機なんかなくたって、ただ「周りがそういう風に生きているから自分も」という様に「真面目に働いて豊かな暮らしをする」生き方を選択するようになるわけです。*18そして宗教的な動機から外れたそのような生き方は、やがてキリスト教圏だけでなく、全世界に波及していき、そしてその波及先にはもちろん「日本」もあったわけです。

「軽やかに生きる」ことを支えるまどか教の倫理

と、ここでやっと現代日本に戻る。実はこの「真面目に働いて豊かな暮らしをする」っていう生き方、実はこれを象徴していたものこそが、まさに90年代からゼロ年代にかけて崩壊した「終身雇用制」なわけです。もちろん、先程から述べているように、それは始まりにおいてはプロテスタンティズムの倫理がもたらしたものであったわけですが、しかし多くの日本人にとってはそんなことはあまり関係なく、ただ「その生き方をみんな選んでいた」選択していたものにすぎない。しかしいずれにしても、ずっと正しいと思っていた生き方が、90年代からゼロ年代に壊れてしまったわけで、そこで待っていたのが、バトルロイヤル的な世界であり、その世界に適合した生き方なのです。
では、90年代以前の生き方とゼロ年代以降の生き方、一体何が違うのか。端的に言えばそこでは「90年代以前の生き方においては、『蓄財していくこと』が重要だったけれど、ゼロ年代以降においては『蓄財していくこと』より『軽やかでいること』が重要になってくる」という違いがあるのです。
具体的に説明しましょう。90年代以前において成功とは、大企業でより高い職位を得ることでした。磐石な大企業というものが存在し、そしてそこで絶対にゆるがない人間関係を公私共に築くことで、将来にわたっての安定を確保する。それこそが、まさに「成功した生き方」の有り様でした。
ところがゼロ年代以降は、このような磐石さは、全て邪魔になってきます。大企業は大企業な分だけ愚鈍で変化のスピードについて行けず危ない。ゆるがない人間関係を築くことは、リストラなどの諸事情でその関係を築いた相手と敵対したときはむしろ足かせだ。全てが急速に変化する社会においては、将来にわたっての安定などただの夢物語となるのです。
故にゼロ年代以降は、ベンチャー企業やフリーランスなどのとにかく身軽な地位で、周囲とあまり親密ではない(いざとなったら使い捨てられる)ライトな関係を築き、とにかく現在において生き残って、あくどい手段を使っても沢山儲ける、それこそが成功のロールモデルとなるのです。というか、このような軽やかさがないと、あっという間に出し抜かれ、バトルロイヤル的世界から脱落してしまうのです。
しかしこのように軽やかに生きることは、少なくとも今の世の中においては、「薄情」であると映ることもまた事実なわけです。ゼロ年代以降はこのような生き方でなきゃ生き残れないことは分かっていても、人々の精神構造というものはそう簡単には変わりません。未だに「安定した関係を築くこと」こそが、正しい生き方とみなされているわけです。*19
そして、そのような世界の中で、敢えて「軽やかでいる」という生き方を選択するために、まさしく「まどか教」という、宗教が必要となってくるのです。
ここでもう一度まどマギという作品において、「魔法少女」がどんな状況において戦っているか、おさらいしましょう。

  1. 魔法少女は、魔女や魔獣といったものと戦います。更に言えば、そこで魔女や魔獣といったものを倒さないと生き残れません。つまりここでは、魔法少女の「戦う」という仕事は、世界のためだったり、あるいは蓄財の為だったり、将来の安定のため*20に戦うのではなく、「生き残るため」のものなのです。
  2. 彼女たちはいくら戦ってもその戦いから抜け出すことは出来ません。常に新しい敵が現れ、その度に新しい戦法で戦うことを余儀なくされる。マミのようにずっと戦ってきた経験豊かな魔法少女であっても、ちょっと気を抜けば殺されます。
  3. 彼女たちは社会や仲間の支援を受けることなく、常に「一人」で戦う必要があります。

これを「仕事」と変換して見てみると、これは会社員や専業主婦といった様な人達の仕事というよりは、むしろ例えばデイトレーダーであったり、非正規労働の派遣、フリーランスのライターや編集者といったものが近いでしょう。そしてこれらは、ゼロ年代以降においては、よくも悪くも「そのように生きざるを得ない」仕事のあり方なのです。
そしてこのような魔法少女の戦い≒ゼロ年代における生き方に対し、女神まどかは「戦って生き残りなさい」という教えを提示します。「戦いをやめろ」とか「正しい方法で戦え」といった様なことは一切言いません。彼女らの「軽やかな」戦いを全面的に承認し、それを尊いものとするのが、女神まどかの教えなわけです。
つまり、「真面目に働いて豊かな暮らしをする」ことの始まりを支えたプロテスタンティズムの倫理に対し、「軽やかに働いて生き残る」ことの始まりを支えるものとして、まどか教の倫理は存在しているのです。そしてそのような倫理が求められていた時代に上手く適合し、そのような倫理を宗教的な「究極的基準」として示すことにより、まどマギは宗教的でありながら、熱狂的な盛り上がりを引き起こしたと、考察できるのです。

まとめ―まどか教は現代の人々を救う……のか?

これまでの話をまとめると次のようになります。

  • 90年代以前……「真面目に働いて豊かに暮らす」ことが自明視されていた
    • そのような生き方の始まりにあったのはプロテスタンティズムの倫理
    • しかし時代が下るにつれそのような宗教的な動機は忘れ去られ、時代遅れなものとなっていった→だからこそ宗教的アニメは流行らない
  • ゼロ年代以降……「軽やかに働いて生き残ること」がより時代適合的な生き方であるが、しかし人々の精神構造は未だ「真面目に働いて豊かに暮らす」ことが正しいと思っている
    • そのような「生き残る方法」と「正しい方法」のずれを、まどマギという宗教は「生き残ることこそが正しい」とすることにより解消し、「軽やかに働いて生き残る」ことを擁護している

☆このような時代の流れの中があるからこそ、まどマギは宗教的なアニメでありながら支持を集めている
さて、ここまではいわば分析・考察でした。ただ一方で、ここまで投げ出さずに読んだくれた方には、このような思いが胸にあるのではないかと推測します。

なるほど。つまりまどマギっていうのはこの10年代の厳しい世界を生き残る人々を支える宗教であり、だからこそ人気を博しているんだな。だとしたら、まどマギっていう宗教はまさに人々を救う、「良い宗教」なんじゃないか?

実際、多くのまどマギ批評は、論理展開は違えど、まどマギの時代親和性を認めた上で、「だからこそまどマギは良い!」っていう結論を導くわけで、あままこもやっとまどマギに敗北したことを認めて、まどマギマンセー派に加わるのかー……?
そんなわけないでしょうが( ̄ー ̄)
確かにまどマギというアニメの持つ宗教性はよく出来ているといわざるを得ません。というか、よく出来ているものだからこそあそこまでみんな「まどマギマンセー!」と叫ぶわけです。しかしだとしても、その宗教性には重要な欠点があり、そしてその欠点は、やがて大きなしっぺ返しをまどマギに熱中する人々に食らわしかねないと、僕は主張したいと思います。では、その欠点とは何か?
それは「萌え≒見る性」の欠如です。

僕らはまどかに「萌え」ている

まず、まどマギという作品を、「まどか教」的観点からもう一度おさらいしましょう。
まどか教においては「ほむまど」というカップリングが極めて重要視されます。さや杏は所詮ただの悲恋物語だし、マミさんは正直「マミった」とか「円環の理」という台詞がネタにされたりとかするネタキャラとしてしか扱われない。ストーリーの本筋において一番重要なのは、やはりなんといっても「ほむまど」の関係性なのです。
そしてまどマギのストーリーにおいてほむらの役割というのは、ぶっちゃけて言うならば「視聴者目線のキャラクター」なわけです。まず最初にまどかに出会う、そしてまどかに恋をするが、しかしまどかを失ってしまう。そしてそのまどかを失ってしまうのを何とかするために、何回も時間軸をループするのだけれど、そのたびに失敗してしまう。そのような何回も失敗して絶望しているところへ、まどかがやってきて、女神となることにより、全ての魔法少女とほむらに救いを与える。戦うほむらを女神まどかは常に見つめてくれ、ハッピーエンドと、まどか教に照らし合わせて一番重要な点を抜き出せば、まどマギのストーリーはこのようにまどかとほむらだけで殆ど説明できます。
そして、ここで「まじかに惚れ、何とかまどかを救いたいと思うが、どうにもならず絶望するほむら」は、まさしくまどマギという作品において、まどかに萌えながらも、まどかたちが不幸になるのを止められない視聴者の絶望の代弁として映るわけです。だからこそ、最終回においてまどかがほむらに対し救いを与えたとき、まどマギの視聴者もまた、救いを与えられたような感覚を覚えるわけです。今回の記事でおこなった議論に足して言えば、ほむらの意識を、視聴者雌雄団も共有することにより「ほむら+視聴者」の集団意識が形作られ、その集団意識が女神まどかによって救いの感覚を得ると、そういう風に言うことが出来るでしょう。
ですがここに僕は重要なトリックがあるように思えてならないのですね。つまり、「女神まどかに救われることを、私たちは望んでいたのか?」という問題です。
もちろんこの様な疑念は作中でも一定程度触れられていて、最終回においてほむらは決してまどかが女神となることを肯定していたわけではなく、むしろなんとかまどかの決断を止めようとしていた。しかしまどかはそのほむらの抑えを降りきって女神となった。そしてそれを、ほむらはあくまで事後的に承諾しているわけです。しかし、確かにほむまどという百合的関係性においては、この事後的承認は納得が行くものでしょうが、しかしそれを「私たち」が果たして納得できるのか?僕は疑念を抱かざるを得ません。
なぜなら、僕らはまどかに「萌え」ているからです。
萌えとは一体どのような感覚か?それを論ずるだけでも一冊の本が(ry*21。なので、思い切って断言するならば、「ある女性キャラクターを見て、愛し、さらにその女性キャラクターも自分を愛しているということを妄想できる」ことです。そして、そこにおいて重要なのは、「萌える『私』は、あくまで女性キャラクターを見ることが出来なければならない」ということです。つまり、「萌える『私』」とは、徹底的に「見る側」でなければいけないのです。
しかしこれは、ごくごく当たり前といえば当たり前でしょう。ですが、この当たり前のことが、まどマギにおいては通用しなくなるのです。何故なら、まどかは女神という「概念」となり、徹底的に不可視な存在となるからです。まどかは「常に私たちを見守っていてはくれる」けれど、私たちはまどかを見ることは出来ない。むしろ、「まどか」の方が「見る性」となってしまうのです。
なぜこのようなことになってしまうのか?答えは簡単です。ほむらが結局「女性=見られる性」だからです。先ほど、ほむらはまさしく視聴者目線のキャラクターであると言いました。しかし、ほむらと視聴者には、ただ一つそぐわない点があります。それは「性」です。ほむらは「女性=見られる性」だが、視聴者の内、男性視聴者は「見る性」なはずなのです。ですが、そのようなジェンダーの違いがまどマギにおいては宗教的技法により隠蔽されてしまっている。ですが、試しに考えてみてください。もしほむらが男性だったら?あの感動的な最終回は、途端に強度を失い、滑稽なものとなるでしょう。少なくとも、事後的にであっても、女神ほむらを肯定するようなキャラクターにはなりえないでしょう。ほむらは女性だから「あなたをいつも見守っています」なんて言葉にころっと騙されますが、男性ならそんな言葉で納得は出来ないはずです。ところがそこでまどかと意識を共有し、すっかり去勢されてしまっている視聴者たちは、そこで納得させられてしまう。ですが、それはやっぱり「詐術」なのであって、いつかは暴かれなければならない「嘘の感覚」なのです。

「見る性」であることの責任

このことは現在のジェンダーフリー社会にはそぐわない、時代遅れのマッチョイズムな発想なのでしょうか?しかし僕はそうは思いません。男性が女性を当然のように支配したり、一緒に心中してくれなんて頼み込むような発想は、そりゃあ排撃されて当然の発想でしょう。しかしだからといって、男性は「見る性」であることを手放すべきなのか?むしろ、どんなに彼女たちの自由を尊重し、健全な萌えをしようとしても、自らが「見る性」であることからは逃れられないのであって、むしろそのことを一種の責任として背負うべきなのではないかと、僕は考えています。
例えば『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』というアニメ映画作品があります。

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もう超有名な作品なので別にネタバレとか気にする必要はないと思うのでどんどんネタバレしますが、この作品においては、あたるはラムの夢の世界に閉じ込められています。しかしそれが現実か夢かなんてことは、まぁ男性にとってはどうでもいいことなのは明らかでしょう。あたるもこの世界がラムの夢の世界であることに気づきつつも、そこでハーレムが築けるなら別に良いやと思うわけなのですね。ですが、あたるはその夢の世界で作られたハーレムで、満足するかのように思わせておいて、こう言うのです。
「このハーレムにはラムがおらんじゃないかと」

夢邪鬼『なぁ、おのれ何考えとんねや。あの子からあれほど逃げたがっとったんは何なんや…。』

あたる『ははぁなるほど…。長く生きとっても人間を見る目は成長せんと言うわけだ…。
    いいか!よぉく聞けよ!おれは他の子と同じようにラムにもきっちり惚れとる!
    ただ、あいつは俺が他の子とお付き合いしようとすると邪魔するので結果的に
    逃げ回っているわけだ!
    わかったか!?わかったらラムを出せ!ラム抜きのハーレムなど不完全な夢、
    肉抜きの牛丼じゃ!そんなモンぶち壊しておれは現実へ帰るぞ!ラムを出せっ!!』*22

ラムが望んだ世界だろうがなんだろうが、そこに「ラム」が存在しないんならそんな世界に何の用もないから、現実に返せ!と。改めて聞くと本当に身勝手で情けない、しかしそうであるが故にとてつもなくカッコいい、あたるの発言です。少なくとも、まどかの女神化を見て「まぁまどかが望んだことなら仕方ない」と容認してしまうような、物分りのいいほむらや、ほむらに同一化するまどか教信者にとっては、こんななさけなくてカッコいい言葉は、逆立ちしたって出てこないでしょう。
ほかにも、『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版

においては、周りの人間が続々と巨大綾波に飲み込まれ、「補完」されていく中で、しかしシンジは決して補完されません。シンジほど心に空白を抱え、補完されたがっているような人間はいないように思えるのに!しかしシンジは補完されない。なぜならあの世界で、シンジのみがただ一人、目を閉じて自分の好きな人と一体化する夢を描かず(描けず?)巨大綾波を「見続けた」からです。その綾波の気持ち悪さを見続け、実在するアスカが自分を拒絶するのを、たとえどんなに苦しんでも見続けた。シンジという主人公は、とくにネガティブでうじうじした人間が嫌いで、まどマギのようなハッピーエンドが好きな人からは、ほんと旧エヴァを駄目にした諸悪の根源として忌み嫌われている主人公なわけですが、しかしこの、「自分」と「世界」をとことん見つめ続けたという点において、ほんと誠実な、僕にとっては最高に好きな主人公であると、言うことができます(もちろん新エヴァなんて駄作は除く)。
あるいは、最近の作品なら『CHAOS;Head』という作品の主人公である西條拓巳というキャラクター*23。ネタバレにならないようにしながら話を説明すると、このキャラクターはいつも自分が見られているような不安、視線恐怖におびえています(実は、こういう作品をプレイした体験があったからこそ、僕は女神まどかの「いつでもあなたを見守っている」という声に、即座に拒否感を覚えることができたわけです)。一方で彼はものすごい濃いオタクで、日常で「見た」あらゆる場面から、その場面を基にした妄想をすることができる、そんなキャラでもあるわけです。で、そんな主人公が、さまざまな女性キャラクターとすったもんだあった末に、いよいよ自分を監視してきた相手と対決するわけですが、この戦いっていうのはまさしく「見る」という行為による対決なわけですね。そしてそんな戦いにおいて主人公は、自分の見てきたものを統合した妄想によって敵に打ち勝つ*24わけです。
僕は、これらの主人公たちにこそ、オタク男子という存在が、世界に対して背負う、ギリギリの倫理があるのではないかと、そう思っています。彼らは昔のヒーローのように決して強いわけではありません。むしろヘタレと言っていいでしょう。世界を守るために戦うなんていう柄じゃない。しかし彼らは、決して「見る性」であることからは逃げなかった。ヘタレなのに、というか、ヘタレだからこそ!
このような倫理を理解できない人もいるでしょう。特にこういうエロゲによく出てくるようなヘタレ男子を敵視し、「何も疑わない力強いキャラクター」を理想視するような、そんな人からは!*25ですが、僕からいわせれば、そういう「何も疑わない力強いキャラクター」っていうのは、結局、何かを見て、疑って、迷ったりすることから逃げているだけなんですよ!自分の目で見えてしまっては疑ってしまうから、見えないところに大切なものを追いやることでしか、それを守れない。でも僕たちは本来、大切なものなら、たとえどんなにそれに迷惑をかけてしまおうとも、鶴の機織をお爺さんが見てしまうがごとく、「見ようとする」ものな筈なんです。その感情を隠して、「見えないけど感じるんだ」みたいな言葉を吐くのは、僕にとっては、やっぱりどーしても許せない嘘なのです。

童貞騎士の妄想力は、世界を変える!

そしてこの「見る性」というものは、あらゆる点で宗教的なものとはそぐわないものでもあるわけです。
まず、「見る」ことは基本的に聖と俗の隔離を打ち壊します。宗教の儀式において「見るな」ということが言われるのは、逆説的に「見る」という行為がそのような儀式から宗教性を奪ってしまう危険な行為であることを示しているといえるでしょう。また、人は「見る」ことにより、他者が他者であり、自己とは違う存在であることを理解します。これはつまり、集団的意識が瓦解し、私と他者の区別が露呈するということを示しています。例えば、集団で音楽で盛り上がっていても、ふと周りを見渡してみると、それぞれのノリが微妙に違うことに気づき、冷めてしまうように。
確かに、そのような冷めは多くの場合人々にとってはつらいものです。熱狂的な盛り上がりを持続させることによって、自分が抱いている究極的価値観を完璧に信仰できれば、生き方について悩む必要はなくなり、人生は生きやすいものとなるでしょう。しかし、それは逆に言えば、現実を見て、そこでもっとよりよい「現実」を妄想するという力をなくすことでもあるのです。
バトロワ的世界の中で「軽やかに生き残る」ことを要求されるこの世界。そんな中で必要なのは、本当にその「生き残ること」を肯定してくれる救いと信仰なのか?そのような救いは、結局のところ現状に対する反抗を諦めさせるものとしか働かないのではないか?そうではなく、必要なのは、この現実をきちんと「見て」、そしてよりよい世界を「妄想」する、そして、その妄想から、新しい世界を作り出す、そんな態度ではないかと、思えてならないのです。
まどマギに熱狂するするまどか教の信者たちは、まどかを神と崇めるが故に、まどかのした決定をただ受け入れることこそが、唯一無二の正解なのだと、そう思っているのでしょう。ですが、はっきり言います。神はあなたではない。神は「あなた」であり、「私」なのだと。私たちは、オタク男子であるかぎり「見る性」であり、例え相手が゜どんなに「見るな」と命令してきても、「見る」ことをせざるをえない、絶対的に自由な神なのです。もしあなたがまどか教を信じたいとしても、それはまどかが神だからそうなるのではない。あなたという神が、まどかをまるで「神」である様に信じたいと思いたいから、そうなるのです。しかし、それは結局「嘘」にしかならないのです。
私たちは、どんなにキャラクターたちが「見るな」と言ってきても、そのキャラクターを「見ること」を止めることはできないのです。そして、見た後は、そこで「妄想」してしまう。彼女らが女の子としてキャッキャウフフし、そして何故か都合よく、僕を好きになることを!相手が「概念」とか言って隠れたって、男はどこまでも追い続ける。ワルプルギスの夜や夢邪鬼がいくら邪魔をしてきたって、全ての壁を飛び越えて、女風呂を覗こうとする中学生男子の欲望のように、見に行ってしまうものなのです!それは、ある意味では汚れなき百合空間を台無しにしてしまう、オタク男子の「業」なのかもしれません。だが「業」だろうがなんだろうが、私たちはそのようにしかありえず、ほむらみたいに物分りの良い女にはなりえないのです!
実は、それを証明するものこそが、まさにネット上における「まどか教」という祭りです。「まどか教」というものは、確かに説明においては、まるで女神まどかを本気で信じているかのように、自らを説明します。しかし、では実際彼らがやっていることは一体何か?と問われれば、それは結局、pixivFacebookを見れば明らかのように、「二次創作」なわけです。つまり、「まどか教を信じる」と言った彼らでさえも、結局まどかを女神となんて認めてはおらず、実際は、まどかに「萌え」たくて仕方ないのです。
ならば、きちんと「萌え」ましょうよ。そしてこう宣言するべきなのです。「まどかがいくら女神になろうが概念になろうが、僕は君を連れ戻す。そして、君を見て、妄想する。君が友達とキャッキャウフフして、そして何故か僕を大好きになる、そんな世界を!」と。

I don't believe in magic
I don't believe in I-ching
I don't believe in bible
I don't believe in tarot
I don't believe in Hitler
I don't believe in Jesus
I don't believe in Kennedy
I don't believe in Buddha
I don't believe in mantra
I don't believe in Gita
I don't believe in yoga
I don't believe in kings
I don't believe in Elvis
I don't believe in Zimmerman
I don't believe in Beatles


I just believe in me
Yoko and me

参考文献・ページ

この記事を書くに当たって、参考にしたページや文献です。
Togetter - 「長野明氏による『まどか☆マギカ』最終話までのフェミ的感想Tweet」
『まどか☆マギカ』最終話批判と、鹿目まどかの『自由』について - Togetter
「俺が『まどか☆マギカ』だ!」――「真の作品」の姿を明らかにするための二次創作論 | LUNATIC PROPHET
本田透『萌える男』、森本卓郎『萌え経済学』 - 感じない男ブログ

宗教生活の原初形態〈上〉 (岩波文庫)

宗教生活の原初形態〈上〉 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

見えない宗教―現代宗教社会学入門 (1976年)

見えない宗教―現代宗教社会学入門 (1976年)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

制服少女たちの選択―After 10 Years (朝日文庫)

制服少女たちの選択―After 10 Years (朝日文庫)

*1:[http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110505/1304547864:title]、[http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110608/1307502747:title]

*2:[http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%BE%E3%81%A9%E3%81%8B%E6%95%99:title]より転載

*3:似たようなものとしては、空飛ぶスパゲッティー・モンスター教というものがある。ただ空飛ぶスパゲッティー・モンスター教の場合は、あくまでインテリジェント・デザイン説に対する批判が目的であり、それを本気で信じている人はほぼいないと言って良いわけですが、しかしまどか教の場合は、記事で述べたとおり、実は結構本気でまどマギファンのひとたちは「女神まどか」と「まどか教」を信仰しているのではないかと考えられるわけです。

*4:まぁどんな概念でも、往々にしてその「〇〇という概念は一体何なのか」ということが一番難しい問題となるわけですが。

*5:過去の様々な学問において「宗教」がどのように扱われてきてたか、詳しくは自分で調べて下さいとしか言いようがないわけですが、僕としては宗教学の名著30 (ちくま新書)という新書がおすすめです。

*6:もちろんこれらの定義以外にも「宗教」を定義付けるものは様々ありますし、その様々な定義のなかには、まどマギにピタリと当てはまるものもあれば、まどマギに全然当てはらないようなものもあるでしょう。後者の定義を認めている人からすれば、今回の記事は許しがたいものとして映ることでしょう。ただそこは、「あああままこは『俺宗教』な概念に則ってトンでも話をしている可哀想な人なんだな」ということで、様々なトンでもな人たちと同じ箱に入れてもらって、なんとかご容赦頂きたいです。

*7:裸になることが許されたりすることはその一例

*8:マミ、ほむら、さやか、杏子はそれぞれ登場キャラクターの魔法少女

*9:これは後の節で言う「究極的世界観」である。ただ最後に述べているように、このような最終回付近での展開には一種の詐術があるわけだが

*10:意地悪な言い方をすれば、だからこそ[http://www.t-ken.jp/diary/20110307/:title=右翼である田中けん民主党区議]と[http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110223/p1:title=左翼であるid:hokusyu氏]も、まどマギ賞賛については一致できるわけです。

*11:ここはよくわからない。

*12:現代において私秘的であることは宗教性にとって重要な要素と言えるでしょう

*13:もちろん「新世紀エヴァンゲリオン」のことです

*14:代表的な作品としては『バトル・ロワイヤル』、『仮面ライダー龍騎』、『Fate』、『デスノート』、『コードギアス』などが挙げられます

*15:ずばり『仮面ライダー龍騎』という作品のキャッチコピー

*16:それこそまどマギ的な例で言うならば、中世のキリスト教は「魔女狩り」を認めていたが、現代のキリスト教においては余程のカルトでない限り中世的な魔女狩りを認めたりはしないでしょう

*17:たくさん貯めこむためには、一度溜め込んでいた資本を元手にして新たな資本を得られるよう事業をしなければならないわけです。はい、こうやって注釈を入れている時点で三行解説破綻w

*18:ちなみに、そういうふうにして始まりの宗教的動機が忘れ去られていくことを指して、ウェーバーっていうおっさんは「世俗化」と言った。で、この世俗化という概念もまたむずかしー議論があるのだけれど、もちろんこの記事では触れないw

*19:最近の若者の正社員志向なんかはまさにその典型例

*20:いや、将来の安定のために戦う魔法少女なんて今まで居なかったと思うけどねw

*21:参考文献としては、「美少女」の現代史 (講談社現代新書)なんかか良いと思います。

*22:[http://www.geocities.jp/urusei_lumdatcha/beautifuldreamer.htm:title]より孫引き

*23:アニメにおける最高の主人公がシンジくんなら、ゲームにおける最高の主人公は拓巳しゃんだなぁ……

*24:ネタバレになるんでほんと説明が難しいんだが、このラストシーンはほんと良いので、ぜひプレイしてほしい

*25:もちろんここで仮想敵としているのはまどマギの脚本家です