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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

アニメに「現実主義」は不要である

今日は東京で輪るピングドラム第15話が放映されまして、いやはや……僕がアニメに求めているものの全てが凝縮されたような、そんな感覚を覚えました。画面全体がケレン味で満ち溢れていて、もう何回も笑ったりハラハラさせられたりするにも関わらず、しかしストーリーではとても重い、骨太な話題を扱ってしっかりと視聴者に考えさせる。そして最後には感動が押し寄せ、それまで単なる脇役だったような時籠ゆりというキャラクターに、心から感情移入し応援したくなってしまう。30分という時間においてここまで人の心を楽しませ、考えさせ、そして揺るがす。これはまさに「アニメ」という自由な表現形態だからこそ出来るものだと、そう確信するわけです。
ところが、こんなまわピンという傑作に対し、一方では「なんか残念だよ」と言うアンチも居るわけです。
ピングドラムにおける無意味さを表す三つの要素、及び残念な理由について - TinyRain
僕はもうまわピンに関してはほぼ「信者」とレッテル貼りをされてもおかしくないぐらいはまっていますから、当然アンチというものには無条件でむかつきます。ただまぁ一方で、信者の僕でも、まわピンは傑作である一方で、非常に危ういものであることは否めないです。何しろ、あのオウム事件を(間接的とはいえ)取り上げたわけで、そんなアニメが危険な側面を持っていないわけがない。更に言えば、幾原監督のインタビューとかを読むと、このアニメでは「家族」というものとを問い直すというこようなことが言われているわけですが、ただその方向性は一歩間違うと大変危ういことになる(ただ15話ではまさに僕が抱いていたその「危うさ」が取り上げられて、ああきちんと分かってるんだなと安心もしたわけですが)し、何より、作品の中で頻繁に登場する「自己犠牲」の問題も、やはりその取扱を誤れば、それこそオウムの再来でしかなくなってしまう。このような危険性に対し、僕は(現時点では)幾原監督は上手く制御できていると考えますが、しかし見方が違えば既に制御が出来ず暴走してしまっていると捉えたりする見方もあるでしょう。そのような見方のアンチなら、僕も傾聴に値するのではないかと考えるわけです。
しかし、このアンチがそういう真摯な批判ではありません。いや、当人は一応真摯な批判をした気なのかもしれませんが、しかし言ってることといえば、どっかで聞きかじったような言葉を使いながら、しかし実際はただ、自分の常識と異なるものを「こんなもの認められるわけがない!」と言って、それで批判になっていると勘違いするような程度の低い哀れな議論。ただまあ、そんな程度の低い議論をサンドバッグにすることによって、一つ主張できることもある(それが記事タイトルの主張である)ので、ちょっと記事を書いてみます。

個別批判

元記事の議論ではまわピン批判の要点を3点にまとめていますので、まずはその3点について個別に批判していき、最後に全体の問題点をまとめて指摘したいと思います。
まずはこの点から。

  • 各話ごとの繋がりの薄さは、前後の繋がりを希薄にして連続性を無くしその一話のみに視点を限定する

これに対して指摘できることとしては、まず「本来的には、幾ら前後のつながりを密接にしようとしても視点というものは常に『今、ここ』に限定している」ということです。
例えばこの記事を今あなたが見ている視点、それは現実的には、あなたが見ている時間、あなたが見ている焦点にしか存在し得ない。そしてもしそこであなたが目をつむり、180度回転して後ろを向いて再び目を開ければ、そこには全く別の「視点」があるわけです。そして、この二つの視点は、内容に類似性も保証されない、本来は全く不連続なものであるわけです。
しかし、例え本来的にはそうだったとしても、私たちは前を向いている時の視点と背後を向いている時の「視点」を同一的なもの、少なくとも連続的なものと捉えることが出来る。何故か?それは、前を向いている時の視点も、後ろを向いている時の「視点」も、同じ、私という存在が見ているものであるという、一貫性をそこに想像するからです。あなたが今そこで目を閉じて、1時間後ぐらいに開けた目が、全く見たこともないような景色を捉えたとしても、それは同じ「私の目線」であると人は思うわけです。
このことは物語というものにおいても同じ事です。むしろ、アニメにおいては常に「ちょっと目を離したらすぐ違う場面に移っている」ようなスピード感が要求されるために、より一層そのスピードの中でも視点をぶれさせない一貫性が要求されるわけです。
では、まわピンにおいてそれは何か?まわピンをきちんと見ている人ならその問いにはすぐ答えられるでしょう。物語で示される「謎」、及びその謎の周りで活躍する「キャラクター人格」の一貫性です。ピングドラムとは一体なんなのかという謎は終始物語のメインテーマですし、その謎の周囲でうごめくキャラクターたちは、本当にブレずに一貫している。高倉兄弟は陽毬を救うために頑張り、苹果ちゃんは前半においては桃果になろうとし、そして中盤に大転換をする(僕は、このようなキャラクター描写のしっかりしている感じこそが、実はまわピンの一番の魅力だと考えています。まわピンについては、奇特な演出に目が向きがちですが、演出とはあくまでそのストーリーやキャラクターを「引き立たせる」ものであり、その核にあるストーリーやキャラクターがしっかりしていなければ、いかに華麗な演出も豚に真珠になってしまうのです)。
逆に言うと、このような一貫性をきちんと担保しているからこそ、まわピンはあそこまでスピード感あふれる場面転換をやってのけ、視聴者を楽しませてくれるです。逆に、もしid:str017氏が提案するように、それぞれの場面の繋がり、つまり「類似性」によって視点を限定しようとしてみましょうか。まず、まわピンの特徴であるスピード感は消え去り、ずーっと似たような舞台で物語が進行していく、視聴者にはとてもつまらないアニメになるでしょう。更に言えば、そんな風に類似性を担保しても、それはあくまで類似性にすぎないから、直前のシーンと直後のシーンの間に繋がりを見いだせても、ふと俯瞰し全体を創造しようとした時に、全体像が全くぼやけてしまう、一体このアニメはどのような筋に沿って進んできたのか全く見えない、そんなアニメになってしまうでしょう。

  • 記号的な表現の多用は、記号は前後の関係によって内包する意味が増える性質を持たないので、その結果が前後に繋がりを生まずに、シークエンス単位での意味を消失させる効果を生む

jまず最初に断言しておきます。「アニメに描かれるもの全て(というかアニメ自体)記号です」。「記号」とか言っておけば頭良く見えると思ってそういう表現をしたのかもしれませんが、ちょっとこの使い方はひどすぎます。
更に言えば、「記号は前後の関係によって内包する意味が増える性質を持たない」という表現、これ、すべての記号論者にケンカを売るために仕掛けた文章なんですかね?記号は、それが「現実そのもの」とはは違うものであり、そしてだからこそ、無限に意味を増殖させる。今特定の場所にあるりんごという存在そのものは、ずっとその存在のままですが、しかし記号の「りんご」は、一旦その記号が生まれれば、無限にその意味を増殖させていくわけです(それこそ、あるアニメのヒロインという意味が付与されたりもしてしまう)。
まわピンの話で言いましょう。例えば苹果の両親の喧嘩のシーン。あの場面では両親を魚類に擬魚化(?)するというような表現が取り入れられました。あれがもし普通の人間の姿をしたまま、人間の夫婦喧嘩っぽく描かれたら、私たちは多分それを「あーよくある子どものトラウマだなー」程度にしか思わなかったでしょう。ところが、あそこで魚類という記号を用いて描くことにより、当時の苹果にとって、両親の夫婦喧嘩が一体どのような現象としてイメージされていたのか、子どもだから、なんとか可愛いイメージで処理しようとするんだけど、しかし可愛いイメージだからこそそこで描かれるものの過酷さがより引き立ってしまう。そこで視聴者の心にも、当時の苹果が感じたであろう怖さや悲しさといった感情が、響いてくるのです。いったい何故か?だってあの場面で苹果は、確かにああいう記号によって世界を捉えていたんですから。
そもそも記号論的に言うならば、人はこの世界そのものを「記号」によってしかイメージできません。逆に言うと、記号として捉えるからこそ、そこに意味を見いだせるわけです。記号ではない「現実そのもの」に意味なんてものは全くないのですから。

  • 苹果の妄想話は、更に妄想による現実感や現実味を消失させ、シーン単位の意味すらも妄想で埋められてしまう。

なんつーか……他人の妄想が嫌ならそもそも物語なんて嗜むのやめたほうがいいですよ?
「妄想による現実感や現実味を消失」って言いますが、その程度で消滅してしまうようなしょぼい現実感や現実味ならば、むしろそんなものはアニメには不必要であり、消滅してしまったほうがいいです。そしてビューティフル・ドリーマーの様に、夢の中だけでお話を組み立てれば良い。最も、id;str017氏の様な見方ならば、ビューティフル・ドリーマーのようなお話は「妄想」にすぎないから、そんなものに意味はないと言うんでしょうがw
しかしまわピンの妄想は、むしろその妄想が妄想ではない現実と共鳴することによって、相乗効果で全体のリアリティを増しているわけです。例えば苹果ちゃんと多蕗が公園でデートしたシーン、あそこでは苹果ちゃんの妄想が炸裂しまくったわけですが、じゃあそれによってあのお話は重要でもなんでもないということになるのか?とんでもない!むしろ妄想でさんざん苹果ちゃんが多蕗と上手くいくからこそ、しかし現実では多蕗と上手くいかないことのコミカルな悲惨さが際立つ。そして何よりあのラストの苹果ちゃんと晶馬のキス!あれは妄想では多蕗とだけれど、実際には晶馬とのキスである。そしてその妄想と現実の結節点に存在するのがまさしく「運命日記」であるわけで、このシーンを見てなおかつ「妄想に意味はない」なんて言う人が信じられない!苹果ちゃんの妄想話においては、むしろその妄想こそが苹果ちゃんにとって重要な「意味」を持つわけで、むしろ現実はその妄想に波及されることによって初めて意味を持つわけです!
あるいは、まわピンから離れてしまいますが、id:str017氏は「カオスヘッド」というゲームや、それを原作にしているアニメをご存知でしょうか?この作品においては、まさに「妄想」こそが現実に亀裂を生じさせ、主人公にとって意味あるものとするわけです(特に、ラストまでやればその意味ははっきりと明示される)。このような現実と妄想の逆転した関係(意味ある現実の代替品として妄想を楽しむのではなく、妄想の意味を現実に投影する)は、しかし現代においてはむしろ普遍的であるわけで、「妄想」なしには「現実」が存在し得ない、苹果的な感性こそが、むしろアニメが描くべき現代人のリアリティであるとさえ言えると、僕は考えています。

全体批判―「現実(リアル)の模写」ではなく「心的現実(リアリティ)のイメージ」こそをアニメはすべきだ

さて、ここまでid:str017氏の論に対して、個別に批判をしてきたわけですが、この3つの論は、id:str017氏は気づいていませんが、実はひとつの暗黙のスタンスから生み出されたものです。それは「アニメはあくまで現実の模写であるべきであり、現実を正確に模倣していないような描写には意味がない」というスタンスです。だからこそ、彼には現実ではありえないような場面の飛躍も許せないし、現実ではない記号を使用することも許せない、そして何より「妄想」が許せないと、なるわけです。
ですがそのスタンスは、2つの点から馬鹿げているスタンスだと、はっきり言えます。まず、現実を模写することが目的なら、そもそもアニメである必要なんてないという点。そして更に、そもそも私たちは、「現実そのもの」に辿り着くことは出来ないという点からです。
まず第一の点について。そもそも何で人はアニメというものを楽しむか?それは、そのアニメにおいては、実写ではありえないような描写をすることができるからに他ならないでしょう。実際の人間は、例えば屋根から屋根に飛び移ったり、弾丸を目で見て避けたり、滝のように涙を流したりすることは不可能です。しかしアニメならそれが出来る!そのような描写を見た時の爽快感こそがまさに「アニメの楽しさ」の原初にはあるのであり、それを放棄してしまったらアニメがアニメという表現形式を取るべき理由なんてありません。
そして、そのようなアニメの「現実的には不可能な描写をする」という特徴は、人間、特に現代人にとって実に親和的な表現形式なのです。その理由が第二の点になります。例えば私たちは電話を使う時、実際はとても遠くのところにいる相手とただ電気信号のやり取りをしているにも関わらず、そこに心理的な「近さ」を感じることができる。実際の「現実そのもの=リアル」においては、電話する二人の距離はずっと離れ、それよりも隣の部屋の顔も知らない隣人のほうが現実の距離は近いのだけれど、しかしイメージされる「心的現実=リアリティ」においては、電話する相手のほうが、顔も知らない隣人よりずっと近い距離に居るわけです。
そしてこのように現実を「現実そのもの」ではなく、それを心に投影した「心的現実」としてイメージすることができるからこそ、人は現実に対し、「そうではなかったあり様」を妄想し、そしてそれを実現しようと奮闘することができるのです。もし私達が「リアル」しか見ることのできない動物であったとするならば、人間はあくまでそのリアルに受動的に適応するだけの動物となっていたでしょう。しかし人間は「リアル」を直接見ることができない代わりに、イメージすることによって、そこに存在する「心的現実」を、複数イメージすることが出来、さらにそれを選択するという能動的な行為が可能になる。そのような妄想を、人は「希望」と呼びます。
そしてアニメとは、記号的な表現であり、妄想だからこそ、現実に対し、その現実とは違う「希望」を描くことができるのです。だとするならば、アニメの使命とは、まさにその「希望」を―幾らリアルでない記号だ妄想だ言われようと―描くことであるべきだと、僕は考えるのです(そして、まさに今回の時籠ゆりのお話は、そのようなお話*1であり、だからこそ僕は感動したわけなのです)。

*1:親による児童虐待という過酷な現実から目を逸らさず、しかしそこでアニメとして希望を描く。では、その希望は一体どんなものなのか?それは、まさしく今後のまわピンが描くものなのである