あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

誰に向かって「ことば」を紡ぐか、という話

相変わらず自分の中の思考のまとめのための記事。あんまり他の人の参考にはならない
今回のレイプエロゲ騒動。実はあんまり「表現規制問題」とかという風に捉えては読んでいないんだよねー、少なくとも僕は。というのも、それに真正面から取り組んだら、結局平行線の議論で、一日千秋なやりとりの繰り返しが訪れるだろうなってことは、それまでの経験から分かってるもん。何度失敗したって同じことを繰り返すなんていうのは、当人たちにとってはとても美しい行為なのかもしれないけど、客観的に見れば単なる馬鹿のやることだし。何度も失敗したんならやり方や見方を変えてみる、そんな試行錯誤が出来るからこそ人間は賢いんであってさ……ただ同じこと繰り返すだけなら猿でも出来るっつーか……
で、そんなわけで、僕はむしろ、今回の騒動を、その問題自体、つまり「エロゲーの法的規制がいけないということを周知徹底させる」ってことから一歩引いて、そういうことを主張する人たちが、どんなやり方で、どんな人に対してメッセージを送ってるかっていうことを見てるわけです。
で、分かってきたこととしては、「内向き」な人と「外向き」な人が居るなぁっていうこと。つまり、自分たちの意見を理解する物同士で、その人々同士の士気を高める、そんな言葉を紡ぐ人たちと、それとは逆方向に、自分たちの意見を理解してくれない人に向けて、そういう人にも理解しやすい、というか、理解をむしろしたがる様な、そんな言葉を紡ぐ人たちに、分かれるらしいってこと。
前者の代表としてはid:buyobuyoであったり、あるいはid:furukatsu*1や山口弁護士*2ですな、あとブックマークコメントばっか書いて日記書かない人や2chの人々*3にもこの手のタイプは多い気がします。要するに「規制派はみんな馬鹿だ→規制派に反対する俺たちは頭が良い」とか、「レイプゲーム上等!!」とか、「規制派は現実を見ろよ→現実を見られる俺たち規制反対派カコイイ」というふうに、自分たちが正しくて頭が良くて、それに対して頭が悪い悪い奴らが弾圧に来ている。それに立ち向かう俺たちは正義だ!正義は勝つんだ!という風なメッセージを仲間のみんなに送って、仲間の士気を高めるという、そんな役割の人々です。
それに対して後者の代表としては、id:rna*4id:font-da*5id:good2nd*6id:gkmond*7という人々が挙げられるような気がします。はてなできちんとまとまった文章の記事を書く人には、こっちに属する人の方が多いですね。この人らは、もちろん法的な表現規制には反対ですが、しかしそういう法的な表現規制を求める人にも、それを求める「動機」が存在することを認め、その動機をどうやって法的な表現規制以外の方法で解消するかを考えたり、あるいは「それは分かっているけど、それよりも重要なことがあるんだよ残念ながら。だから規制はしないでほしい」とお願いするとか、そういう風に表現規制を肯定する側に話しかけて、彼らを説得しようとしている気がするんですね。
さて、この様に今回の騒動に対する反応の仕方を二分してみたわけですが、もちろんだからといってどっちが良くてどっちが悪いかとか言う気は更々ありません。この様に区分けすると、僕が前者の人々を非難しているという風に感じる人もいるかもしれませんが、そうではないんですね。だって前者も「表現規制反対」という運動において、「運動の士気を高める」という重要な役割を果たしているんですから。表現規制に反対すること自体が好きな人なんて言うのは、そんなに居ないでしょう。多くは、もし出来るならそもそもそんな運動的なことには関わりたくないけど、このままで居たら自分の大切なものが脅かされるから、仕方なく運動に参加するわけです。でもそんなネガティブな動機付けでは、やかでみんな疲れ果てて、「もーどーでもいいやー」とか思ってしまう訳で、そこでid:buyobuyo氏の様なアジテーターは絶対に必要です。「俺たちが正義だ!正義が悪を滅ぼさなくてどーするんだ!」ってみんなを煽って、「うおーっ!」と運動への熱気を取り戻す。人間が自分の動機付けを全て自分で取ってこれるようなマッチョな人間でない限り、そういう人は絶対必要です。
ただ一方で、それがネット上で行われちゃってるってことは、実はちょっと不安要素でもあるんですよね。というのも、今までの社会運動だったら、そういうアジテーターが居ても、それはあくまで内向きでしか聞けないアジテーションだった訳ですよ。例えば運動の事務所の中でそういう「俺たち頭の良い人間が無知蒙昧な大衆を啓蒙してやるんだ!」とかいうことを言っても、事務所の外に出たときはそんなことを言わず、「みなさーん私たちを助けてくださーい、理解してくださーい」みたいに言って、そういうアジテーションをしなければ、別にそこに何の問題も生まれないわけです。
ところが、ネットの場合、そういう内向きのアジテーションである筈の発言が、外向きにも聞こえてしまうわけです。これがどのように作用するのか?僕なんかは、そういうアジテーションを外の人が読むことによって、「あの運動の奴らはこんなことを考えていたのか!こんな俺たちのことを馬鹿にするような奴らの意見なんか死んでも聞くもんか!」っていう風にむしろ運動を疎外してしまうんではないかと懸念してしまうわけですが、もしかしたらその懸念は杞憂かもしれないわけです。つまり、そもそも普通の人はそんなはてなブックマークのコメント欄とかは見ないかもしれないし、見たとしても、みんな自分が馬鹿にされても、その馬鹿にしてくる人の話を真剣に聞く、そういう寛容な人々なのかもしれないし、そこら辺はなんとも言えないわけです。
うーん、どーなんだろうなぁ。

*1:id:furukatsu:20090510:1241973086

*2:[http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2009/05/post-9412.html:title]

*3:[http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1260585.html:title]とか

*4:id:rna:20090509:p1

*5:id:font-da:20090510:1241961519

*6:id:good2nd:20090514:1242334288

*7:id:gkmond:20090513:p1、id:gkmond:20090515:p1

守るべきもの

相変わらず自分の中の思考のまとめのための記事。あんまり他の人の参考にはならない
はてなブックマーク - 怖がっているひとに相対するには - ビジネスから1000000光年

id:buyobuyo なるほど y_arim の考えはわかった。でも、それでもバカをそこまで甘やかす必要は無いと思う自分は偽れない。 2009/05/18
id:lisagasu 私は何度かやりとりして好感もってるありむが辛そうにしてたら宥めるよ。どんな人でも一方的にフルボッコにされてると嫌になる。でもあの増田を非難したことは反省しない。譲れないものは誰にでもある 2009/05/18

なんか新鮮だなぁと思った。
というのも、自分にはこういう「譲れないもの」とか「偽れない自己」という感覚があんまり無いんだよね。
多分みんなそういうものを強固に持っているから、ある人は本気でレイプというものを例えそれがフィクションの世界でも認めないのだろうし、あるいはそのようなものが絶対必要で、そのようなものをフィクションの場ですら排除しようとする弾圧には絶対屈することが出来ないと思ったりするのだろう。
id:NaokiTakahashi氏がところで - 斜め上から目線のコメント欄で散々、「エロゲー作れなくなったら俺は飢え死にするんだよ!」というようなことを書いている。これも、僕は「そうですね」と頷いてたけど、実は感情的には理解できてなかったりする。というのも「別に、転職すりゃ良いじゃん」と思ってしまうからだ。でもこれも、要するにid:NaokiTakahashi氏にとっては、エロゲクリエイターという職業が「絶対に譲れないもの」だから、それは無理なんだよね。
でもやっぱり、理屈では分かっても感覚では理解できないんだよなぁそういうの。僕は別に、エロゲ好きだけど「エロゲは絶対にやらないでほしい。じゃないと私が辛いの!」とかって面と向かって言われたら、あ、はいやりませんって言っちゃうだろうし、他の趣味にしてもそう。許せないこと、ものっていうのがあまり無いんだよね。絶対許せないということを、強いて言うならば、「自分自身」を否定されることぐらいだろうか。でもそれにしても、じゃあ「自分自身」にどこまで含めるかって言うと、その範囲はそんなに広くない。せいぜい「頭の良さ、癖、性格」ぐらいだろうか。でも性格にしたって、それが否定される場合であれ肯定される場合であれ、名指しされた性格が、本当に自分の性格なのかっていうのは、疑問に思ってしまう気がする。「それはあなたの本当の性格ではない」とか言われれば、案外性格すら変えてしまうような気もするのだ。
だから、僕は実際の所今回の議論にみんなが傾けている「情熱」そのものを理解できていない。いや、どっちが正しいかっていったら、それは明らかに僕より上記の様な、きちんと「譲れないもの」を持ってる人々なんですよ?明らかに、何も信念を持ってない人間よりは、何かしら信念を持っている人間の方が良い。その方が健康でもあるし、人々から尊敬されるのは、そういう「信念がある人」なんだろう。
ただ、僕は事実として、正しくなく、不健康で、軽蔑される、「信念がない人」なのです。だからこそ、どーも今回の議論においては、みんなと噛み合わないんだろうなぁということを、印象として、思った訳なんですね。
でもなぁ……そんなに「信念」って、拘るべき物なのかなぁ。どーもみんな譲れない信念っていうのが拡大しすぎていて、「そんなに背負わなくても良いのに」っつーか、むしろ無理があるように思えてもならないんだよなぁ

レイプゲーム規制問題について「まじめに」考えるためのまとめ3

レイプゲーム規制問題について「まじめに」考えるためのまとめ1 - 斜め上から目線
レイプゲーム規制問題について「まじめに」考えるためのまとめ2 - 斜め上から目線

3.上記二つのようなことは、どのような手順で決められるべきか。

さて、ここまでレイプエロゲー問題について様々な議論があることをまとめてきたわけですが、しかしまとめればまとめる程確かになることが一つだけ言えます。それは確かなことはあまりないということです。レイプエロゲーがどの程度まで差別的であるのかということにも、差別に基づいているかもしれないけど、実際に女性に対する差別を維持するということは言えないだろうという見方から、レイプエロゲーは実際に犯罪を誘発するという見方まで様々ありえますし、そして更に、では社会はそれにどのように対応すべきかという方法論も、様々な方法論があるわけです。
ですから、当然人によって、今回の問題をどうするべきかという見解も異なってくるわけです。たとえばある人はレイプエロゲーは差別に基づいているけど、差別を維持はしないとし、故に社会は何も対応すべきではないとする見解を持っているかもしれません。しかし一方で別の人は、レイプエロゲーは女性に対する差別を増強する、そしてそれを止められるのは法規制しかない(自主規制やゾーニングでは差別の増強は止められない)と考え、社会はこのようなエロゲーを法に基づいて発売禁止とするべきだという見解を持っているかもしれないのです。また、その中間に位置し、レイプエロゲーは差別を増強はしないが維持はすると考えたり、あるいはゾーニングや自主規制でも適切に行えば十分差別は抑制できると考えるかもしれません。人々は、無数の見解を持ちえるのです。
しかし一方で、そんな中でも私たち社会は、「何もしない」という選択肢も含めて、このようなレイプエロゲーにどう対応するかという、選択を迫られています。しかし人々はいまだ無数の見解をこの問題に対して持っている。では、いったいどうすればいいのか。
この問題については、下記のブログの記事が、とてもよく考えられていると思ったので引用します。
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でもまあそろそろ、自分たちのことは自分たちで決められないかなあ、と思う。それぐらい「社会」というものを信頼してもいいのではないか、と。たしかに間違うことはある。でもそれは、「社会」にとって永久になくならない本質的な要素なのだろうか、それともゆっくりとした進化の途上で一時的にあらわれる「誤作動」なのだろうか。
(略)
法律や規制を具体的にどうするとかいうことは、まあこの際おいといて、「『この種の表現が不愉快である』と訴える側」としては、相手に表現の自由を認めてやる必要もないし、「レイプや暴力がなぜ悪いのか」という問いに対する、非歴史的で状況や立場から独立した、誰もが納得する答えをこちら側で用意する必要もない。だからといって「悪」というもの自体がこの世界にまったく存在しないということにはならんのだ。それは長く複雑な社会的プロセスの過程において(そしてその過程においてのみ)決定される。それが「社会的につくられる」ということである。構築主義はよく叩かれるけども、「社会的につくられる」というのはこういうことであると、すくなくとも私は理解しています。
……ただ同時に、不愉快であるとするこちら側の意見が、「社会」のなかでどれくらい通るかは、わからない。まったく通らないかもしれない。でも、どれくらいこちら側の意見が通るか、通ったら社会がどうなるか、そういうところまでどうしていちいちこちらが考えてやらなきゃいけないの、と思う。こちらとしては、「こういう不愉快なものは禁止すべき」と言えばそれでよい。
これは、何が何でも無根拠でもこちらの意見を通す、ということではなくて、むしろ逆だ。このへん俺なんか実は逆にめっちゃ冷めてるねんな。簡単にいうと、こっちはこっちの意見をただ言えばよい、あるいは、こちらが正しいと思う社会運動を展開すればよい、ということで、けっきょくどっちが正しかったのかは、「社会」が決めるだろう、ということでしかない。ていうか、社会運動なんか、しょせんその程度のことしかできない。神様じゃないんだから。
(略)
だから、「最適解」は社会が見つけてくれるだろうから、とにかく不愉快なものはもっと大声で不愉快と言えばいいのではないか、そのときに、相手の表現の自由まで考えてあげなくてもいいのではないか、ということだ。どうせこちらが否定してもそういう表現はなくならないだろうし、「地下に潜ってやっとけ!」という主張は、やはりちゃんと地下に潜らせてあげるとこまでしないと中途半端だからな(笑)。

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で、「社会的に決められる」っていうのが必ずしもファシズムや無秩序におちいるわけではないことがある程度信頼できるなら、社会的に決めていくことにそんなに弱腰になったり臆病になったりする必要はないんちゃうかっていう話やんか。だいたいちょっと発言の自由を制限しようと言うただけで「世の中の人がみんなそんなこと言い出したらどうする!」とか言われるけど、みんなそんなこと言わないって!

つまり、表現の自由を規制するかしないかというのは、「社会」が決めることであり、そしてその「社会」に対し、個々人は自分の意見を言い、自分が正しいと思う社会運動をすべきであると、そういう主張です。これは、もっともらしいですね。
ですが一方で、なんで社会が正しいと言えるのかと、そういう疑問も沸いてくるわけです。そして、その答えになるのが、実は「表現の自由」を支える根幹法理である、「思想の自由市場」なんです。
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1 表現の自由に「優越的な価値」があるのは、話し、書き、描き、歌う、という表現行為〜相手に伝えることまで含む〜が「個人の自己実現」に不可欠であること、それが民主主義的な政治過程の実現と維持に欠かすことができないこと、による。
2 そのイデオロギー上の根拠になっているのは「思想の自由市場」という考え方。要するに、合理的な判断は、少数派の、あるいは気にくわない、または醜悪にみえる議論も排除することなく、自由に議論をすることによって達することができるんですよ、というやつ。
3 だから、表現の自由の規制は、慎重にやんなさいよ、やるなら重大かつ深刻かつ切実な利益を守るために、必要最小限の手段でやりなさないよ、とされている(学説のうえでは。)。

私たちは一応曲がりなりにも自由主義社会に生きています。自由主義社会においては、「表現の自由」が保障され、そしてそれ故に、「思想の自由市場」が成立します。
そして、合理的な判断は思想の自由市場においてしか成立し得ない。逆に言えば、思想の自由市場において達することのできた結論は、合理的な判断であると、そう言うことができるわけです。
だから、自由主義社会においては、社会の言うことは、それが「思想の自由市場」で培われた議論である限り、正しいのです。
しかし一方で、「思想の自由市場」で考えられない限りは、如何にそれが自分にとって頭いい議論であっても、アプリオリに正しいということはできないのですね。しかしながら世の中には、勝手にアプリオリに自分の意見こそが最強と考えて、対話をしようとしない人もいます。id:pakinaさんはそんな人のことを「気弱」と表現しています。
にがにが日記

んで、これまで気づかなかったんですが、「エロゲきもいけど、表現の自由もあるしー、うーん」とかですね、「ウヨもサヨもキモーイ。コワーイ。どっちもどっち」っていうてる自称「りべ」ちゃんも、たいがい気が弱いなあって思った。自分だけきれいな立場にいながら正しいとか思ってるんちゃうん、何にも発言してないくせに「さよ」ちゃん「うよ」ちゃんをフンッって鼻で笑うなよ〜〜って。どっか「感情的になるのはかっこわるい」みたいのがあるように思う。
 この際、ウヨでもサヨでもリベでも、ちゃんと議論をしてる人はいいんです(あーでも、懇切丁寧に時間かけて説得してる人はさよくの人が多いと思うな(こういう人好き)。しかしこの方法だと、果てない闘いを続けて、中には燃え尽きちゃう人もいる気がするんだな…)。でも、コメント欄とかブクマで書き逃げだけする人って、ウヨでもサヨでもリベでも「気がよわいなー」って思います。私も気弱ですけど。だからこそわかるねん気弱な人の気持ちが。きしやいしけりさんにはわかるまい(笑)。

しかしこのような気弱な人ばかりだと、「思想の自由市場」は機能しません。なぜなら、色々な人が議論に参加し、そして議論して双方の言い分が分かった上で、それでも何とか同じ結論にたどり着こうとする、そのような手法の上にのみ、「思想の自由市場」の正当性は成り立つのです。
ですから、「表現の自由」を守ろうとする人、つまり「思想の自由市場」のみが正しい結論を出せるのだと信じる人は、それを信じるからこそ、「思想の自由市場」で、自分と異なる、時には表現の自由を重要視しないかもしれない相手と議論し、そこでなんとか相手とともに一つの答えを出そうとしなければならないのです。逆に言えば、それをせずに「あいつらは馬鹿だから知らしむべからずで、あいつらに気づかれないようにして自分たちだけで物事を決めよう」とするならば、その時点で表現の自由なんかすでに大事じゃなくなるのです。
もし本当に「表現の自由」が重要であると考え、自分の議論はそこに根ざしていると思うのなら、であるからこそ、その議論を万人に広く知らしめ、そして万人の理解を得ようと努力しなければなりません。「知らしむべからず」で進める哲人政治は、根本的に表現の自由とはマッチしないのです。

まとめ

  • もし表現の自由を大事にしようとするのなら、「思想の自由市場」で、それを万人に問うべき
  • そしてそこで生まれる結論を尊重するべき

僕の記事が、その「思想の自由市場」に参加して自分の意見を伝えようとするときに、少しでも助けになれば幸いです。