あままこのブログ

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ネットを窮屈にする側の論理

新年あけました。めでたい人もめでたくない人も、今年も一年よろしくお願いいたします。
さて、新年早々はてなでは、「ネットは昔と比べ寛容性がなくなり、窮屈になってきているんじゃないか」という議論が話題を集めているようです。

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で、はてブも含めて議論の大勢は、「確かにネットが大衆化するにつれて、尖った発言や、社会では受け入れられにくい発言って、すぐに炎上したりして、しにくくなったよね。それってしょうがないことかもしれないけど、なんかつまらないよね」という流れになっているようです。
でも、僕は思うのです。
「これって自分にとってはむちゃくちゃ違和感ある表現だけど、ネット上ではまあ許されるべきだよね」とか「余程のことがない限り他人を批判するのとかやめようよ」とか言って、disりや批判を自己規制しなくちゃならなくなるほうが、よっぽどつまんねー世の中じゃねーの?と。

ネットを窮屈にする側の論理

例えば僕なんかは、上記のリンク先で増田に文章書いているコンビニ店長氏とかが、むっちゃくちゃ大嫌いだったんですね。ホント、薄っぺらいロリペド妄想並べて「僕って異常だよねービョーキだよねー」オーディエンスに媚び売って、そしてそれに対してオーディエンスが「おめーホント異常wwwでも俺も同じぐらい異常www」なんていう、半身浴でも風邪を引くわってぐらいのぬるぬるの共感共同体を構築している光景や、そしてその共感共同体で散々認められていながら「でも僕らって社会から見たら異常者だから、迫害されちゃうのよね」なんていう被害者意識バリバリ(てめーの変態ぶりなんて社会じゃとっくに認められてますからー、お昼の12時にフジテレビで司会やったって許されるレベルですからー)なところが、ホント大っ嫌いだったし、ブクマやtwitterでも散々大嫌いだと言ってきました。だから、まあ僕はむしろコンビニ店長氏がブログを閉鎖するのに加担した人間なわけです。
そして、コンビニ店長氏ほどではありませんが、色々なネット上の人物について、僕は「あんたはそうやってずっと何かを見下して生きてるんでしょうね!死ねばいいのに」とか、「もう回線切ってネットから出てけよ。痛々しくて見てらんねーよ」とか「散々成功しながら何言ってやがったんだ、いい加減その生ぬるい絶望ごっこ卒業しろよ」とか、色々思うし、そしてそれを文章にしたり、コメントしたり、つぶやいたりしてきました。おそらく、そういう言葉に傷ついて、「もうネットで文章発表するのやめるわ」とか思う人間もいたことでしょう。
そう、まさしく僕は、上記の記事でやり玉に上がっているような、「ネットを窮屈にしてきた側」の一人なわけです。
ただ、それが間違っていたとは思わないんです。というかむしろ、往年のネットの名台詞を借りて言うなら、「てめーらのその自称『ネット上でしかつぶやけない言葉』が、どんだけの人間を無気力にさせているか少しは考えろ」と、言いたくなるわけです。
よく「世間の常識とは少し外れてるから叩かれるんだろうな」と、批判にさらされたり、炎上している人間は勘違いするんですが、それは違います。批判・罵倒したり、炎上させる人間は、一人の自立した人格として、あなたの意見に反対していたり、あなたのことが大嫌いだったり、あなたのことが憎いから、あなたを叩いているんです。あなたがその文章をネットに発表して、幸せになったり、気持ちよくなったのと同じように、あなたのその文章を読んで、不幸せになったり、気持ち悪くなった人間もいて、そういう人間が、あなたが元の文章を書いた動機と、ほとんど同じ動機で、あなたを批判したり炎上させたりしているんです。
ただ、多くの人は、そうやって自分の感情を「自分のもの」として表象することになれてないので、「世間の常識」とか持ち出すわけですけど、しかしそれはあくまで方言でしかなく、本当は、どんな議論や喧嘩、炎上も、「ある個人の思い」対「また別の個人の思い」なんです。
だとしたら、ある人が自由に言葉をネット上に発表するのと同程度には、ある人がその言葉を自由にその言葉を批判・罵倒できるべきだし、もしそうじゃないネットがあるとするなら、それは、ある種類の人に、「自由に発言できるけど、それを批判されない」という特権を与え、それ以外の人には発言を認めない、極めて不公平なネットでしょう。

今のネットは「窮屈」かもしれないけど、昔のネットよりはずっと「公平」だし、良くなっている

そして、残念ながら、昔のネットというのはそういう不公平な場であり、そしてその不公平さはきわめてネットをいやなものにしていました。
ネット古参の人は、さんざん「昔のネットは良かった」と郷愁にひたりますが、僕は全く同意できないんですね。「自由に発言できた」というけど、その内実は、人種差別・民族差別・部落差別・性差別など、あらゆる差別が「タブーに切り込む」なんて口実で野放しにされてた時代だったし、(マミー石田とか、知らないとは言わせません)。掲示板等では、人間の尊厳を無視したコラージュ写真や、動物の虐待記録、実写の性虐待記録物が公然と交換された、そんな時代なわけです。
もちろん、今だってそういうものがネットから一掃されたとは言えません、ですが、少なくとも今のネットでは、ネット古参がさんざん忌み嫌う「普通の人々」が、そういうものをひどいと思い、炎上させ、法に違反している場合は、司法の場にまで引きずりだせるようになりました。もしこれを「ネットが窮屈になった」と表象するのなら、僕はこう叫びます。むしろネットの窮屈さ万歳だ!ネットよもっと窮屈になれ! と。

なんで炎上や批判がそんなに「怖い」の?

もちろん、コンビニ店長氏のようなロリペド感情を文章にして告白することと、差別を公言したりすることが、同じように否定されるべきものだとは言いません。ただ僕が言いたいのは、「後者の言論を批判することができるのなら、前者のような言論も、それを批判したい人によって批判の対象になる」ということなのです。ネットというものが、中央の規制なく、あらゆる言論を等価値に扱うメディアである以上、「後者は批判されるけど前者を批判しない」なんていうことは無理なのです。
「そんなネットは嫌だ!だって批判されたり炎上するなんてこわいもん」と言う人がいるかもしれません。
ですが、そういう人に僕はこう言いたい。そもそも、なんで炎上や批判がそんなに「怖い」の?と。
いや僕だって炎上や批判は嫌ですよ。自分の発言が頭の悪い誰かに曲解されて批判されれば頭に血がのぼるし、ネットの向こう側には生身の人間がいるってことがわかっていないのか、あるいは分かっていながらも「生身の人間」ですらどうでもいいと思うぐらい倫理観が欠落しているのかって、そんな奴らが罵倒してくれば、ほんと今すぐ僕にどくさいスイッチデスノートを与えてくれ、こいつら全員○してやるからって、そんな気分になります。
でも、そういう怒りとかは湧いてきても、「怖い」とか、「ブログ辞めたい」とか、そんな感情には結びつかないんですね。というかむしろ、そういう人間を見れば見るほど、そういう人間の好きにさせないためにも、ブログやtwitterできちんとこういう奴らと戦って、こういう奴らを潰さないとと、そんな感情になるのです。
思うに、「炎上したり批判されるのが怖いし、そんなことされたらネット上で文章表現するの続けられない」っていう人は、そうやって批判してくる人のことを「大事に思いすぎ」なんじゃないでしょうか?
例えば、「たとえ批判だとしても、それは自分のためを思っての発言なんだから、真摯に受け止めなければならない」とかいう人がいます。いや、別にポーズとしてそういうことを言うのは構わないんですよ?でも、どうやらネットをやっている人の中には、本気で「こういう態度でいなきゃならない」と思っている人がいるそうです。
……そんなわけないじゃん。
自分もよく他人を批判・罵倒する身だからこそ言えますけど、批判・罵倒する側が望んでいるのは、とにかくお前を潰して、ネット上から葬り去ってやりたいということですよ。「あなたがもっと成長してくれますように」なんて思いは、これっぽっちも持ってないんですよ。
だとしたら、そんなことを思っている奴らに対して思う感情はひとつでしょう。
「うるせえ、誰がお前らの思うとおりに潰されたりするか。逆に俺がお前らを潰してやる。」
それだけの感情でいいんです。もちろん建前として「貴重なご意見ありがとうございます。」「この問題については、他人の意見もとても参考になります」とか言っててもいいんですが、本音はこうでいいんです。
そして、これはおそらく、ネット上に限ったことではなく、社会のあらゆる場面で言えることなんじゃないかと、僕は思います。

私達の望むものはあなたと生きることではなく
私達の望むものはあなたを殺すことなのだ

わたしを断罪せよ

わたしを断罪せよ