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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

あなた、今どこにいるの?―村上春樹と「主体」について

物語と『私』

つい先日、エルサレム賞という、イスラエルの文学賞村上春樹に対して贈られ、そしてその受賞スピーチの席上で、村上春樹が、イスラエルのガザ攻撃を批判したというニュースが話題になっていた。そのニュースによると、村上春樹は軍事力による攻撃や、分離壁の建設を「壁」とし、そしてその壁によって殺される者を「卵」として、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」としたそうだ。
 それについてどう解釈できるかは、またこの文章の終わりに書くとして、日本におけるそれへの一般的な反応としては、まず、村上春樹はそういう生臭い政治的なものを忌避している代表のような文学者なのだから、今回の様なスピーチをするというのは意外だという声があり、そしてそれとは反対に、とくに最近の村上春樹は、そういう自分の範を超えた大きな「世界」に対してコミットメントするようになってきたから、今回の様なスピーチも意外ではないという声もあった。
 僕はそんな中、ちょうどスピーチ前に『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』という、前期・後期の村上春樹を代表するような小説をそれぞれ読んでいた。まぁ、逆に言うと、別に僕は村上春樹について特に思い入れなどもなく、作品もたくさんある作品の中でその二つしか読んだことがないと言うことなのだから、はっきり言ってこんな僕に村上春樹のことについてどうこう言う資格はないのかもしれない。だが、そんな僕が失礼を承知で言うならば、上記のような二つの反応は、どちらもある程度は正しいのだが、しかし的を外しているにのではないかと思える。では、どのように的を外しているのか。
 それについて考えるためには、やはりそもそも、村上春樹というのが一体どんな小説を書いてきたのか、そしてその小説に、どのような意味が込められてきたのかを考えていかなければならないだろう。
 そしてその際に僕が重要視するのが「主体性」というキーワードである。これは、初期の村上春樹に対して兎角よく批判されたキーワードである。例えば『ノルウェイの森』なんかにおいては、主人公のワタナベは、何もしてないのに何故かどんどん色々な女の子から好かれる。そしてそれに対してワタナベはただ受動的にそれを受け止めるだけであったりする。それを持って「状況を主体的に変えようとせず、ただ状況に流されるだけでないか」と言われたり、もっと下世話的に「結局村上春樹の小説っていうのは、何も努力もしないでモテモテになりたいという、男の願望を充足させているだけ」という批判がされたりした。
 しかしそのような批判は、最近はあまり述べられなくなってきた。一つには、最近の村上春樹においては、結構主人公が主体的なように見えるということがある。それこそ『海辺のカフカ』なんかにおいては、主人公のカフカ少年は自分で家を出ることは決め、そしてその為に体を鍛え、15歳なのに高校生ぐらいにまで見える肉体を得る。そして父が呪文として唱えた「父を殺し、母と姉を犯す」という予言を覆そうと努力する。まさに「状況」を自分で乗り越えようとしているように見えるのだ。尤も、それでも主人公は、その予言を遂行してしまうのだが。
 だが、それ以上に重要なのが、日本において「主体性」という概念がどんどん重要視されなくなってきたということにある。つまり、80年代における村上春樹批判というのが、どのような視点からなされていたかと言えば、それはやはり学生運動の潮流からだった。人々が主体となって運動を巻き起こし、それによって社会を変えていく。そして、そのような運動を支援するために文学はあるのではないか。そのように考える人々にとって、村上春樹の小説は、何も考えず、ただ日々の日常に流され、現在の経済システムを肯定する、そんな文学に思えたのだ。
 しかし日本がどんどん西側の資本主義経済の元で豊かになり、そしてその反対に共産主義という理想が東側では崩れていって、そしてついにソ連が崩壊したとき、そのような「主体的に社会を変えていかなければならない」ということを単純に言うことは出来なくなった。ただシステムを否定して、人間が「主体的」に何かをなせば世界は良くなるというのは、夢想主義だと。それより、システムというものの存在を認め、その上でシステムというものをより上手く回す方法を考えるべきなんだと。そのような観点、つまり人文科学の分野の言葉で言うならばシステム論や構造主義という見方が一般的になった。もちろん、その様な見方に反対するものとして、ポスト構造主義といった見方も出てくるのだが、それにしても昔のような単純な「主体」というものは認めない。そのような流れの中で、「主体性」という側面から村上春樹を批判するということも、なくなっていった。
 しかし、本当にそれで良かったのだろうか?もちろん、単純に「それぞれの人が自分の意志で動けばいい」という主体哲学のメッセージが通用しないというのは、僕自身も分かっている。そもそも「自分の意志」というのが分からなくなっているのが現代なのであって、そしてだからこそ村上春樹文学が人気になるのだ。だが、じゃあ「自分の意志で動く」という主体性まで放棄して良いのだろうか。僕はそうは思わない。「自分の意志が分からない」、だから周りに流されればいい、ではなく、むしろ分からないこそ、それを選び取ることが必要なのではないかと、僕は思うのだ。
 僕が根ざすのはそのような視点である。そこから村上春樹文学を、「愛されること」、「殺す・殺されること」、「育てられること」、そして、「愛すること」という3つのテーマに分けて、読み、考えていきたい。

「愛されること」における村上春樹

 先ほども書いたが、村上春樹に対してなされる批判として多いのが「主人公が何の理由もないのに、登場する女性たちに好かれる」というものである。そしてそれは確かに事実である。村上春樹の小説においては、大抵の場合女性の側から主人公に話しかけ、そして主人公はそれに何となく付き合うという形である。
 しかしではそのような形式には、ただそれが読者の好む展開であるという意味しか含まれないのだろうか?確かに、そのようにして男性が何もしないですむというのは男性にとっては大抵楽だろう。しかし例えば、『ノルウェイの森』においてワタナベは、主人公は何もしないことにより結局、自分が好きな直子でさえ失うことになってしまう。直子という人物は主人公と付き合い寝るが、しかしその後何の連絡もせずに主人公の元から去ってしまう。そしてその少し経った後、心の病を原因として療養所に居ることを告げられる訳だが、確かに主人公はそこまで出向いて直子に会うわけだが、その場面においても主人公は常に受動的であり、直子に自分から手を出そうとはしない。直子を引きずってその療養所から連れ出そうなんていうことももちろんしないのだ。そしてやがて直子の病状が悪化して、精神病棟に入院することになっても、主人公はただ手紙を送るだけであり、そして遂に直子は自殺することになるのだ。もちろん、そこで主人公が何か行動すればそれが変わったのかどうかは分からないが、しかし少なくとも何もしなかったことにより、「何も出来なかった」という後悔の念は残る。しかしそれでも主人公は何もしない、というか主人公に何もさせないというのは、ただ「何もしなくてもモテたい」という理由だけでは片付けられないのではないだろうか。そこにはむしろ「何かしたくても、してはいけない」という禁欲の意図すら垣間見えるだろう。では、一体それは何故なのか?
 ここで今度は『海辺のカフカ』について考えてみたい。この小説においても主人公はさくらさんや佐伯さんに何故か好かれる。しかしここで重要なのは、主人公もまた、かなり明確にそれらの女の人が好きであるということを主張することだ。そして、その理由がかなり興味深い。この主人公は幼い頃に母姉と別れているのだが、彼女らがその幼い頃別れた実の母娘ではないかということを言うのである。それが事実かどうかは小説内でははっきりと描かれていないが、少なくとも主人公のカフカ少年はそのような自分の思い込みを投影している。
 さて、ではそもそも人間にとって母娘、特に母親とはどのような存在であるのか。『海辺のカフカ』がオイディプス神話を基にした小説であるということはよく知られている。そして同じくオイディプス神話を基にして考えられたものとして、フロイトエディプス・コンプレックスというものがある。これは、人間が如何にして生まれたばかりの動物と同じような状態から言語を獲得し「人間」になっていくかを説明した一つのモデルケースなのだが、それによれば、まず人間は母の胎内で絶対的な安心を得た状態で発生するとされている。そして生まれた後もしばらく母子密着状態が続くが、しかし一方で徐々に母と離れ、自立することが求められる。そしてその際母と子の間に入りその中を引き裂く者として現れるのが父親である。その為子は自分と母の間に立ちふさがる父を憎むようになるというのが、エディプス・コンプレックスなわけである。
 では父親は具体的にどのようにして子の前に立ちふさがるのかと言えば、それは「言葉」の使用と密接に関わる。父親は子供に言葉を教え、言葉により意志を伝達するよう要求する。例えば排泄したいのならそのように「言葉」で述べることを求めるわけである。何故なら、母親と子は元々同じ体を共有する存在だったが、父親とはそのような結び付きがない「他者」であるからである。そして、それと反対に母親は「自分と同じもの」であるとされる。
 そして、その反対の母親に求められることとは即ち、「言葉とかを使わないで承認してもらえること」である。言葉とは確かに自分の意志を伝える道具であるが、しかしそれはあくまで父親によって押しつけられたものであり、自分によるものではない。そしてそうである以上、それによる意思伝達は、必ず誤配、つまり自分が想定した意味ではない意味で捉えられることがありえる。例えば「ここではきものをぬぐ」という文章があったとき、書いた人は「ここで履物を脱ぐ」という意味で書いたとしても、別の人には「ここでは着物を脱ぐ」という意味で捉えられるかもしれない。何故そういうことが存在するかといえば、それはそれぞれの人の中で、「どの言葉はどれを意味するか」という言語体系があるわけだが、その言語体系は頭の中にあるもので他人には分からないからである。「他人と自分の言語体系は同じだろう」というのは、それが他人のことである以上、根拠はないのだ。だから、「私はあなたを愛している」と言葉で言われても、それが言葉である以上、自分が考える「愛」ではないかもしれないという不安はぬぐうことができない。
 しかし母親においては、根源において自分と同じ存在であるから、そのような不安は抱かないのだ。母親が自分を愛することは、母親=自分なのだから絶対のことであり、そこでは自分は何もする必要がない。というかむしろ何かをする代償としての愛だとしたら、それは即ちその行為に対する「愛」ということなのだから、その時点で母と自分は「他人」ということになってしまい、むしろ許せないことになる。
 そしてだからこそ主人公は「何かしてはいけない」のだ。主人公が何か女性にして、その結果愛されるのならば、それはあくまで「他者」との恋愛である。そしてそれは他者との恋愛である以上、相手が思っている「愛」と自分が思っている「愛」が同じであるという保証は何処にもない。だが母親による「愛」ならば、それは無償の物であり、「愛」の意味が同じであるという保証がある。そしてそのような愛こそが、村上春樹文学において主人公が求め、そして読者が求めるものなのだ。その愛は、結果として自分が何もしなくても勝手に愛されるという形になるが、しかしそれが本質ではない。そのような愛の本質とは、「自分を無条件に愛し、そしてその気持ちは自分と全く変わらない」という、「不安なき恋愛」なのだ。
 さて、では何故そのような「不安なき恋愛」が求められるようになったのだろうか。先ほども述べたが、他者と意志を伝え合う際には、他者と言語体系を共有しているのだという前提が不可欠である。自分が「A」と言った時、自分にとってそのAがaならば、他人にとってもAはaだろう。そのような前提があるからこそ、私たちは他人と会話し、人間的に関わることが出来る。だが、その前提は、何故信じられるのだろうか。完璧に信じることは不可能である。何故なら、どんなに頑張っても他人の頭の中は覗くことが出来ないのだから。しかしそう推測することは出来る。例えば日本の外国人が居そうにない場所で外国人っぽい顔・身体ではないから日本語はとりあえず分かるだろうという形で、もちろんそれでももしかしたら中国人や韓国人で日本語が通用しないかもしれないのだが、しかしそのような確率はある程度高いと推測することが出来るのだ。
 そして、この例では国籍などのカテゴライズが同じだったため、可能性が高くなったわけだが、他のカテゴライズ、例えば階層・宗教・世代・性別によっても、その理解可能性を高くし、推測の強度を高めることが出来る。同質性を確かめることによって、あの人と私は他人だけど、自分と同じものを持っていると確認することが出来るのだ。そして、特に日本においては、同質性は極めて高い状態で維持されてきたのだ。
 だが、そのような状況は近年変わりつつある。例えば、国籍・民族についても、グローバリゼーションによって、所謂「日本的」ではない人々が身の回りに普通に居るようになり、また階層においても、それが実際に階層格差が広がったからなのか、違う階層の人とも接触することが増えたからなのかはよく分かっていないが、とにかく違う階層とも会う機会が増えていった。「他人」が、同質的ではない、異質な存在となったのだ。
 そして異質な存在であるということは、即ち自分と考えていることが全然違う、考えが全く読めないということでもある。そのような存在に対する不安こそ、実は村上春樹文学の根幹をなすものである。そしてその不安が更に如実に表れるのが、次の文章で考える「殺すもの」の存在だ。

「殺す・殺されること」における村上春樹

 『海辺のカフカ』ではジョニー・ウォーカーというキャラクターが登場する。このキャラクターは、猫を連れ去ってはその猫を殺し臓器を食べ頭部を保存するというキャラクターで、恐らくカフカ少年の父として描かれている。猫探しをしていたナカタは、猫を捜していく内にこのジョニー・ウォーカーの家に誘い込まれ、そしてナカタの目の前で猫を次々と殺していき、猫を助けたければ自分を殺せ、これは「戦争」なのだと脅す。そしてナカタは猫が殺されていくのに耐えきれずジョニー・ウォーカーを殺す。
 この時にジョニー・ウォーカーが「これは戦争だ」と述べたところには、村上春樹の戦争というものについての考えがよく現れている。そのジョニー・ウォーカーを殺す章の前においてはカフカ少年がホロコーストを指揮したアイヒマンについての本(アーレントの本だろうか?)を読んでいることや、ナカタが太平洋戦争のころ小学生だったことも示唆的だ。つまりナチスによるホロコーストや、戦争によって人を殺すことを、ジョニー・ウォーカーが猫を殺すことや、そのジョニー・ウォーカーをナカタが殺すことと重ね合わせているのである。
 だが、ジョニー・ウォーカーの猫殺しと「戦争」の間には、大きく違うことがある。それは「大義」の存在だ。もちろん、「殺すこと」なんかに大義が存在するわけがない。だが、例えそうだとしても、戦争をする本人たちにとっては「大義」が見えているからこそ、人は戦争やテロに参加し人を殺す。では、ジョニー・ウォーカーが猫を殺すとき、そこに「大義」はあるだろうか?
 一応「理由」は存在する。ジョニー・ウォーカーによれば、猫を殺すのは「笛」を作るためだという。そして、ジョニー・ウォーカーはナカタに殺されたいと思っている。そしてジョニー・ウォーカーを殺さなければナカタは猫を助けられないと言う。これらは確かに「理由」として存在するわけだが、だがそれはあくまで読者にとっては「訳の分からないもの」として提示される。事実、ナカタもそんなことを言われても訳が分からないから殺すのには途中まで躊躇し、殺した時もそれに納得したというわけではなく、混乱して突発的にやったという風な描写だ。
 これは、ある意味では「人を殺す大義なんて、よく考えてみれば殆ど意味不明なメッセージばかりなのだ」というメッセージにも捉えられる。だが、それはあくまで、僕らが殺しも殺されなかった者だからこそ言える言葉でもある。
 現実においては、人を殺すことを肯定する者、戦争を肯定する者には、それぞれロジックがある。ナチスがユダヤ人を虐殺したのは、そうしないと自らの民族が滅ぼされてしまうからだと感じたからだし、日本においても「アジアの解放」という大義名分があった。そして、もちろんそれと対立する者たちにも大義があった。そして大義を持つ者たちが、しかし相手の大義は認めず、「そんなものは大義とは言えない。単なるエゴだ」と否定しあったことにより、戦争は始まったのである。
 これを現代に置き換えてみよう。例えばオウムは日本の転覆という陰謀のために地下鉄サリン事件などのテロ事件を引き起こした。また、動機がよく分からないと言われる殺人事件もマスコミなどで沢山報道され、そして2001年9月11日、何の前触れもなくいきなりごく普通に生活している人たちが居るビルに飛行機が突っ込み、多くの人々が亡くなった。これはまさに、私たちにとっては理解できない悪夢であり、前章でも言った、世の中には私たちと異質な人々が居るという不安、そして、そのような異質な人々に狙われているのではないかという恐怖が溢れるようになったのだ。そしてそのような背景の中、そのような異質な人々が居たとしても犯罪を物理的に置かせないようにしようという、ゼロ・トレランス政策や、環境犯罪学といったものが隆盛したり、また対外的には、そのような理解できない者に攻撃されないよう、きちんとテロや仮想敵国への備えである軍隊を増強させようという主張が声高に述べられたりするようになった。まさにジョニー・ウォーカーに怯えるナカタさんのような状況であるといえよう。
 だがしかし、それはあくまで被害者としての史観だ。実際は、オウムの側はむしろ自分たちが社会から迫害されているという認識を持っていた(そしてその認識は、ある面では当たっていた)。理解できない殺人事件がふえていると言われるが、実際はそもそも人々の間で理解しようという動機すら薄れていたし、また、ただ単に理解できる事件が一杯起きているのに、それらは報道されなかったというだけだったりした。そして911についても、アフガンや中東での長い間積もりに積もった反米感情。そしてその背景にある貧困問題などについて、先進諸国は、既に911の前にも色々なテロなどが起きていたにもかかわらず、何も知ろうとしてこなかった。「理解できない彼ら」とされてきた人々にも、理解しようとすれば、きちんと大義はあったのだ。それを理解しようとしてこなかったのは、ただ単に、それが面倒だったからに他ならない。
 もちろん、その面倒さが昔と比べて格段に上がったということは言えるかもしれない。冷戦時代においては、世界は共産主義と資本主義という二つの考え方の違いに別れており、そして争いも主にその二つに代理戦争のような形を取っていたから、その二つを理解しておけば、大体の「大義」は理解できるように感じ取られた(実際は、例えばベトナム戦争が東側と西側の代理戦争という風に捉えられていたが、その実態はアメリカに対するベトナム民衆の独立戦争だったように、代理戦争の中にも多種多様な大義があり、決して二つの考え方に二分されるようなものではなかったのだが)。しかし近年のテロや紛争においては、宗教や民族という、とうの昔に解決されたような問題がいきなり噴出し、争いの火種となるわけで、それを理解するのは大変難しい。例えば、何故神のために人を殺せるのか?何故、それまで普通に隣同士生活をしてきた人々が、戦争になれば殺し合えるのか?
 だがしかし、そのように問うとき、私たちは忘れている。そう、ほんの半世紀ほどの前においても、この国は「天皇のために」という理由で人を殺し、そして、ちょうど911の実行犯が飛行機でビルに突っ込んだように、飛行機で戦艦に突っ込んで行ったということを。それは決して自分たちには理解できないことではないはずだ。何しろ自分たちの先祖たちがやったことなのだから。
 だが、そのような「加害者としての私たち」というのは、『海辺のカフカ』には―それが戦争を隠喩するものであるにも関わらず―出てこない。小説において描かれるのは一貫して被害者である。佐伯の彼女もまた「殺されたもの」であったし、山の奥の日本兵も、日本兵だったら大部分は人を殺した者であるはずなのに、わざわざ人を殺したくなくて逃げ、それにより「殺された(とみられる)」脱走兵を描いている。そしてその二人についても、殺したものの描写はほぼ無い。ちょうど、日本が戦後ずっと、「戦争によって一杯日本人が死んだし、生きていた人も苦しい思いをした」という被害者史観からしか戦争を語れなかったように、『海辺のカフカ』もまた、被害者の側からしか描かれない。重要なのはむしろ、「加害者としての私たち」のはずなのに。
 そんな中、唯一と言っていい主人公側が加害者側に経った行為として、さくらへのレイプが描かれる。これについても、動機は「プログラムを遂行してしまいたい」という、ジョニー・ウォーカーと同じように理解できないものだった。だが、主人公側のことである以上、それはやがて理解されるものだったのだが……被害者であるさくらの「レイプされた覚えはない」という都合の良い忘却によって、それは水に流されてしまう。あたかも、日韓条約の際に韓国に対し経済協力と引き替えに、賠償請求権を放棄する、つまり「過去のことは忘却せよ」と迫ったことにより、植民地支配の責任が水に流されたかのような形で。
 そしてそのような忘却の果てに、ただ「被害者としての私たち」が築かれていくわけだ。だが、そのような受動的なものとして自分自身を捉えるというのには、当然のように限界がある。確かに、それは在る面では楽であるのだ。加害者には、その加害に対して責任を負う義務が生まれるが、しかし被害者にはそのような義務は生まれないのだから。だが、そもそも人間が他人に対して一切加害せずに生きていくことなど可能か?答えは否である。世界が母親と自分だけで存在するものではない以上、そこには「他者」が存在し、そしてその「他者」と交流することが求められる。そして、「他者」が自分と異なる者である以上、そこでは必ず自分が何かしらの形で否定される。自分がしたいことなのに「これはしてはいけない」と否定したり、自分がこれをして欲しいと思っているのに「これはしたくない」と言われたり……生きるということは、ほぼ「他者」と交流し、その過程で「他者」を否定することなのだ。それを忘却するということは、「生」そのものを忘却することに等しい。そしてその結果生まれるのが、トラウマの過大評価である。

「育てられること」における村上春樹

 『海辺のカフカ』において、主人公は常に父が授けた「父を殺し、母と姉を犯す」という予言に怯えている。そして、その予言に対抗しようとなんとか奔走するのだが、結局はその奔走により予言通りになっていく。
だが、そもそも何故そんな予言が主人公にとってそんな切迫なものとなるのか。例えば自分に置き換えて考えてみる。父親から幼い頃に「お前は父を殺し、母と娘を犯す」と言われたとして、それに一生怯えて暮らすだろうか?普通の人生を送っていれば、そんなことはないだろう。それこそ小学校の修学旅行とかの夜に「俺って親父にこんなこと言われてさー……」と友人に話したりして、「何それ−、お前の親父頭おかしいんじゃねぇの?」と言われて「だよなー」と返せば済んでしまうトラウマのように感じる。
また、それとは大分事情が違うかもしれないが、もう一つ主人公の原動力となっている「母に愛されたかった」というのも、そりゃあ確かにそれはこの年頃の男の子にとっては重要なことなのだろうが、しかし人生がそれだけで埋まってしまうというのもあり得ないだろう。重要ではあるが、しかし別にカフカ少年だけが体験していることでもないし、そんな森に独りで籠もるなんていう修行体験を積まなければ解決できない神秘的な体験というわけでもない。例えば学校で恋人や親友を見つけたり、あるいは街に出て悪い仲間とつるんでみたりするという方法でも、十分気は晴れる。心に一つのトゲとして残るかもしれないけど、心全てを埋め尽くして破壊するようなものでは、ない。
だが、そうであるにも関わらずカフカ少年は、まるで自分の人生がその二つの出来事しかない「空虚」であると呟く。とすれば、その理由は簡単だ。自分の人生が「空虚」だったと、そう、カフカ少年が思い込みたいから、そう思い込むだけなのだ。
そう思い込むことにより、自分の今までの「生」を忘却し、トラウマという、「被害者としての自分」の側面しか自分にはないのだと思い込む。そしてそれにより、自分が何かをなさなければならないという責任から逃れ、村上春樹特有の受動的主人公が生まれるのである。そして、そのような忘却とトラウマの過大評価こそが正しいと、村上自身が考えているのではないかと、思われる描写もある。それは、『ノルウェイの森』において、直子が入院する診療所の描写だ。
ノルウェイの森』において、この診療所は兎角肯定的に描かれている。この診療所の信奉者、というかほぼ信者であるレイコに言わせれば、ここは医者も患者もないみんなが平等なところで、人々は自分たちのことを包み隠さずありのままに話す。だからいざこざも起こらないと。そして主人公のワタナベも、現実の社会よりはここの方がずっと良いと言う。
だが、本当にそうだろうか?個人的に言えば、はっきり言ってこんな現代社会と隔離された非文化的で閉鎖的な場所なんかには3日もいられない。また、精神医学的に言うならば、重症で隔離が必要な患者ならまだしも、そういうのではない軽症の患者をこんな所に閉じ込めておくというのは、何よりリハビリにならないし、本来は社会参加すべき患者たちを檻に閉じ込めておくという差別的措置に他ならない。そして何より、本当に包み隠さず全てを打ち明けられることが、「正しい」ことなのだろうか?
確かに各人が自分の頭の中のこと全てを打ち明け、嘘や隠し事を一切しない、そんな空間をもし本当に作れれば、それは全ての人が母子の様な密着関係で過ごすというのだから、村上春樹文学が散々怯えてきた「不安」はない。だがその代わり、そこには括弧とした「自己」も生まれず、それ故「自己」と「他人」の区別も一切生まれない。だとすれば、そこではそもそも「言葉」すら必要なくなるだろう。それは、まさしく乳児への退行であると言っても良い。
だが実際には、全ての人が赤ん坊でいる訳にはいかないのだ。赤ん坊は、誰かが育ててくれるからこそ赤ん坊の存在で居られるわけだが、全ての人が赤ん坊となってしまったら、そもそも育ててくれる人が居なくなる。その先に待っているのは、自滅である。
そして、それよりも更に重要なことがある。ずっと赤ちゃんでいれば、確かに不安はなく、何も感じず、永遠に変わらない時間を過ごせるだろう。だがその代わりに、その赤ん坊は、その先の人生で経験する、様々なことを何も経験することは出来ないのだ。もちろん、それが必ずしも良いものであると言うことは出来ない。村上春樹文学が象徴するように、生きるなんていうことは、楽しいことでもなんでもなく、ただ何かを失っていく過程でしかないと言うこともできるかもしれない。しかしそれでも、村上春樹文学がないよりもあった方が良いのと同じように、そのような生も、ないよりはある方が良いのだ。そのような「生」を奪う場所は、例えそれが楽園であっても、壊さなければならない。
もちろん、それに対し、結局直子もレイコもその診療所を出たし、また『海辺のカフカ』においても主人公のカフカ少年は最終的にそのような母と暮らせる楽園を出たではないか、という批判もあり得る。だが、彼らは決して自分の意志でそこを否定し、出たとは言えない。そのような空間が良いところであると知りながら、しかしそのような空間には居られなくなっただけなのだ。つまり、あくまで受動的であり、これもまた「追い出された被害者としての私たち」なのである。そして被害者である故に、その場所を出た後の次の場所を主体的に捜す責任も生まれない。だがそれは裏を返せば、自分で捜せないという意味でもある。そしてそのような形で浮遊する人々は、新しい「楽園」が生まれれば、またそこに吸い寄せられるだけである。だが、もしその「楽園」の管理者が、そのような人々を利用して悪事を企てる存在であったらどうなるか?オウム真理教も、ナチスドイツも、大日本帝国の軍隊も、末端は善良な信者・市民だったのである。ただ、「主体的に考える」ということを知らなかっただけの……
だから、あくまで「楽園」は主体的に壊さなければならない。では、それは如何にして可能になるのだろうか。

「愛すること」における村上春樹

 ここで登場するのが、『ノルウェイの森』の緑というキャラクターである。このキャラクターは、最初いかにも村上春樹的な登場人物、つまり何もこちらがしていないのに勝手に自分のことを好きになってくれるキャラクターとして描かれる。ところが、主人公が緑に引っ越しの連絡を送らなかったという、極めて卑近な理由により状況は変わる。緑が主人公に「別れる」と言い出すのだ。それに対して主人公が慌てていると、緑は許すと言ったかと思えば、髪型の変化に気付かなかったと言ってまた別れ、そしてまたくっついたりする。これは、まさに緑がきちんと独立した精神を持つ他者として描かれていると言うことに他ならない。つまり、他者だから必ずしも自分のことを愛してくれるとは限らなく、場合によっては自分のことを嫌いになるかもしれない。彼女が好きなのは「今の自分」なのであって、それが未来の自分になれば、愛は受けられないかもしれない。そんな「条件付きの承認」でしかない存在なのだ。
 しかし、にも関わらず、というかだからこそ、彼女はとても魅力的なのではないだろうか。つまり、それは確かに母親の様な全面的承認ではなく、言葉を用いる承認であり、それ故完璧ではない。しかしだからこそ、それは様々な形に変化しうる。更に言えば、部分であるから、全面的に取り込まれてしまうわけではない。その彼女に承認されない自分は、また別の人により承認される。それでも承認されない部分があるとしたら、また別の人に……という形で、様々な人を自分の内側に取り込むことが出来るのだ。そしてそれにより、社会的でありながら、一方で他の特定の他者の完全コピーではない、「主体」としての自分が成立するのである。
 これこそがまさに僕が主題とした「主体」なのである。なるほど、確かにこれまでの様に、人間にはそれぞれ固有の「主体」が生まれたときからあるのであって、それに気づきさえすれば人は一人でも「主体的」になれる、という認識はもはや出来ない。私たちは他人やシステムに影響され、時には取り込まれる存在なのだ。しかし、そうだとしても、私たちは単一の他者や、単一のシステムに属しているのではなく、複数の他者やシステムがせめぎ合う、運動の中で「自己」を形成している。例えば一方でマクドナルドやスターバックスに行きながら、他方で反グローバリゼーションを叫ぶように。なるほど、確かにそれは過去の「主体」観からすれば、矛盾に満ちたもので、とても主体的とは言えないかもしれない。だがそれでも、私たちはそのような複雑な運動の上で、「自分の意志」を築き、それに則って行動する「主体」で、既にあるのだ。重要なのは、それを認知し、認めることに他ならない。全ての人は、例えどんなに村上春樹文学の主人公みたいに受動的であったとしても、「受動的であることを選択する」という意志において、既に主体なのだ。差異は、それに気付くか、それても敢えて無かったことにして忘却するのかの違いでしかない。
 『ノルウェイの森』の最後において、緑が「あなた、いまどこにいるの?」と問いかけるのは、つまりその主体の居場所を問うているのである。そしてそれに対し、『ノルウェイの森』の主人公は、「僕は今どこにいるのだ?」と自分に問いかけ、そしてその姿勢は、出版された20年以降においても変わっていない。だが、20年の間において、村上春樹は小説を出すことによって、様々な読者に既に影響を与えてきた。その「主体性」に対する責任は、例え村上春樹がどんなにそこから逃れようとすれども、いつかは向き合わなければならないのである。そしてそれは、村上春樹文学の読者たちにも、もちろん問いかけられている。

「壁と卵」について

 それでは最後に、この様な観点から、村上春樹がエルサレムにおいてした「壁と卵」について、どう評価できるか、考えていきたいと思う。
 エルサレムのスピーチにおいて、村上春樹はまず、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということを述べる。そして、まず一つの解釈として、武器とそれを持つ兵士を壁とし、それらによって殺される市民を卵とする。しかしもう一つの解釈として、もっと抽象的に、人々に殺し合わせる「システム」というものを壁として挙げ、それによって殺される全ての人たちを卵とし、そのようなシステムの増殖を許してはいけないと、そう述べる。
 これは、確かに『海辺のカフカ』などで描かれる戦争のイメージとも重なるだろう。つまり、何か巨大なものの力に人々が操られ、その結果人々を殺し合わせるのだというイメージと。そしてこれは、とても今までの主体哲学が言ってきたメッセージと似ている。
 だから、このスピーチはそのような旧来の主体哲学を持ってきた人々には受けたし、そして僕自身、イスラエルというまさに戦争当事国に行って、そのような戦争反対のメッセージを訴えるという行動をしたという意味において、良かったと思う。
 しかし、村上春樹は政治家ではなく文学者である。ならば、行動したという形式の意味だけでなく、その発言が示す意味についても、考えなくてはならないだろう。そしてそれを考えた場合、村上春樹の今回のスピーチは、村上春樹のこれまでの思想と同じであるが故に、批判しなければならないのだ。
 最初に問題となるのが、結局それって「個人」の責任を免責しているだけじゃないのかということである。つまり、ジョニー・ウォーカーをナカタが殺したり、カフカがさくらをレイプしたり、ワタナベが永沢と一緒にセックスを遊びのようにしたのを、「仕方のないことだ。流れがそうさせたんだ」とするのと同じように、仕方のないことと認識させてしまうのではないか。もちろん、その流れが悪いと思うのなら、個人は反抗すべきだと述べているわけだが、そもそも「悪い」と感じなかったら?例えばアイヒマンは、ユダヤ人虐殺について、それが良いか悪いかすら考えなかったわけだが、そのような人々が、このスピーチで改心し得るか?僕は、このスピーチでシンドラーにユダヤ人を助けさせることは出来ても、アイヒマンにユダヤ人を殺させないことは出来ないだろうと考える。ましてや、イスラエルはテロリストそれぞれの個人と戦っているという認識なのだ。つまり、個人が個人と戦っているっていう考えなんであって、そこに日本からやってきた文学者が「システムと個人が問題なんだ」と言っても、「じゃあテロによって殺された自分の友人はパレスチナ人ではなく『システム』によって殺された、とでも言うのかい?彼らは自分の意志で戦っている。そしてそんな奴らに、俺たちも自分の意志で戦っているのだ」と反発され、相手にされないだけだろう。
 そして、それ以上に重要な問題なのが、「システム/個人」という形の二分法である。つまり、村上春樹のスピーチにおいては、個人がシステムを生み出したのに、やがてそのシステムが個人を殺し合わせる。だから個人は手を合わせてシステムと立ち向かわなければならないと主張するわけだが。では、その様な反システムを掲げる「個人」は、一体何によって構成されるのか?私たちは、生まれたときから常に何らかのシステムに乗っかり、それによって自己を構成してきた。医療システムに乗って身体の形を確保し、教育システムに乗って自己を確立していき、経済システムに乗って就職して生活の糧を得ている。そのような全てのシステムを否定すれば、そこに残るのはまさに「楽園」的な母子密着空間だけである。何しろ、小説を紡ぐ「言語」でさえ、それは一つのシステム体系であるといえるのだから。
 だから、むしろ必要なのは、システムの力を否定するのではなく、むしろそれに乗っかりながら、しかし複数のシステムの矛盾を利用して上手くそれぞれのシステムの力を殺ぎ、一つのシステム、例えば戦争においては軍事システムや国家システムなどを、弱体化させることである。そしてそれをするには、システムを忌避するのでも、それに飲み込まれてしまうのではなく、それを上手く利用する「主体」が必要なのである。
パレスチナ問題が泥沼化している一つの背景としてあるのが、イスラエルとパレスチナ、それぞれのシステムが完全に分離し、そして双方でそれぞれのシステム、つまりイスラエルにおいては右派のナショナリズムであり、パレスチナにおいてはハマスの国家システムが、完全に接触の糸口を失っている点にある。
そのとき、「イスラエルも悪!ハマスも悪!」と言って、一体どうなるのだろうか?はっきりいって、双方のシステムに無視されるだけだ。そうではなく、それぞれがやってきたことを具体的に調べ、そして単なるテーゼとしての「喧嘩両成敗」ではなく、実際の調査結果として、「イスラエルにはこんな残虐な行動があった。一方ハマスにおいてもこんな残虐なことがあった」と明らかにしていく、そんなシステムに則った戦いこそが求められているのでは、ないだろうか。
だから、村上春樹が提示した「壁と卵」の比喩に対し、僕はこのように述べる。「僕は、壁の上に立つ卵に話しかける」と。そのような加害性をも自覚した関わりが、今、世界で真に要求されている、コミットメントでは、ないだろうか。(15909文字)

参考文献

村上春樹、1987-2004『ノルウェイの森』講談社
村上春樹、2002『海辺のカフカ』新潮社
小森陽一、2006『村上春樹論―『海辺のカフカ』を精読する』平凡社
大塚英志、2006『村上春樹論―サブカルチャーと倫理』若草書房

おまけ:オタク的主体と村上春樹

というわけで、ここまでが大学に提出するレポート。なげー!ちなみに、何でなんか無駄にナチスドイツとか旧日本軍とかそういう話をするかっていえば、「ポスコロを絡めた形で村上春樹について論じなさい」と言われたからです。でもポスコロって意味がよく分からなかったからねとりあえず政治とか社会とか、そんな感じのことを含めただけっす。
 で、村上春樹について大体言いたいことは言い尽くしたって感じなんですが、最後に、これはレポートの中では言えそうにない、けど言いたい!ってことがあったのでちょこっと。
 『海辺のカフカ』の主人公において、あるいはこれは『ノルウェイの森』の主人公においても言えることなのかもしれないんですけど、こいつらってホント「趣味」ってものを持っていないというか、それを自分にとってすんごい重要なものとして居ないんですよね。まぁ一応文学の主人公らしく小説とかを読むのが趣味らしいんですけど、それも非常にお行儀が良く、別にその小説が好きな仲間を捜したり、あるいはその小説の二次創作を書いたりはしないんですよね。
 で、それでいて彼らは「自分の人生は空っぽだ……」とか言う訳なんですが、そりゃあんた、自分でそういう道を敢えて選択してるようにしか思えないよっつう話な訳で。
 ただ、そういう心境は理解できなくもないんだな。というのも、僕自身、そういう「自分には依って立つべきものが何もないんじゃないか……」っていう不安は確かにあった時もあるわけで。きっと、そういう不安を抱えたまま大人になっちゃったのが、ハルキストって言われる人々なんだろーと、そう思うわけだ。
ただ、じゃあそこで僕が何故ハルキストにならずに済んだかと言えば、それはやっぱり僕が「オタク」だったからなんだろうな。村上春樹文学を読んで「この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ…て…」って思ってるときに、まさしく耳元から聞こえてきた「?でわっしょい!」によって、「現実をやめたらこの曲が聴けないし、ゆのっちにも会えなくなってしまう!表紙絵のゆのっちが僕を見てる? 表紙絵のゆのっちが僕を見てるぞ!ゆのっちが僕を見てるぞ!アニメのゆのっちが僕を見てるぞ!!」っていう感じで、「オタクカルチャーにはまっている自分」というものを発見したわけだ。つまり、自分はオタクカルチャーが好きだし、そして、そのオタクカルチャーをもっと一杯見たいし聞きたい!僕にはそんな人生の目標があるんだ。空っぽじゃないんだと、そう、思ったんだよね。
もちろんそれがどうしようもないジャンクであるっていうことは僕にも分かってるのよ。オタクカルチャーなんていうのは、それまでの文化にあった「逡巡」とか「葛藤」とか「内面」とかそういうものを一切取っ払って、ただ人々にとって生理的に気持ちの良いものを抜き出してきたものなんであってさ、そんなもん、人類の発展とかそういうのには何も寄与しない、人類史上最も刹那的な退廃文化なんじゃないかとも、思ったりする。
だけど、そうだからこそ、こんなクズみたいな僕でも何とか摂取し、楽しめるんだよね。そして、この「クズでも(というかクズだからこそ)楽しめる」というのが、結構重要なんじゃないかと。
つまり、とかくこの世の中の様々なリアル、例えば友達・恋人付き合いやら、スポーツやら、学業やらは、そこに参入するためのコストが高い。ルックスやら努力やらその他諸々の才能……では、そんなものが一切無い奴はどうなるかっつったら、それこそ全てのリアルに遭遇できず、机の上で突っ伏して寝たふりをしながら一日をやり過ごすしかなかったわけ。とすれば、そんな生活は当然空虚に思えてきるわけだ、というか実際空虚だからね。
でも、そんなダメな人でも、オタク文化は優しく迎え入れてくれるわけだ。例えばテレビアニメを毎週欠かさず見てるだけで、自分が何か充実しているような錯覚に浸れる。そしてそのアニメについて夜中チャットとかで語れば、それこそ日中どんなに空虚だったとしても、夜だけは充実し、そこで「リアル」を得ることが出来るわけですよ。ええ、自分のことですが何か?
そしてその過程で、曲がりなりにも「自分=主体」ってものが生まれてくるわけです。みんなは賞賛してるけど、このアニメやっぱダメだよな―とか、そういうことが言えるのって、まさしく主体によるものに他ならないわけじゃないですか。もちろん、それはオタクカルチャー限定の主体で、相変わらず学校においては居ても居なくても変わらない空気のような存在な訳ですが。それでも主体は獲得できるわけです。そしてその点において、僕は断言できるわけです。非モテ・非コミュは村上春樹読んでいる暇があったらオタクカルチャーに嵌れ!と。
そして、その先のことは、オタクカルチャーを見ながらまた考えれば良いじゃないと。もしかしたらその中で友達や恋人も生まれるかもしれないし、それを職業に出来ちゃうかもしれない。全て無理でも、大丈夫、ゆのっちは君を、そして僕を、裏切らないよ♪



まぁ、実際は結構裏切られたりするんだけどね。*1

*1:そして、裏切られることにより、大人になる(皮肉です)こともあるわけでさ