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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「アニメ」という現実を塗り替えるメディア―劇場版・中二病でも恋がしたい!について

アニメ 映画 中二病でも恋がしたい! 中二病

今日、現在劇場公開中である「小鳥遊六花・改 劇場版 中二病でも恋がしたい!」を見てきました。


まず感想を一言で言います。大変素晴らしかったです!僕はTVシリーズの「中二病でも恋がしたい!」も見て、大変気に入った人間なのですが、この映画を見てその感情がさらに増しました。なぜならこの映画では、僕がTVシリーズの「中二病でも恋がしたい!」を見て気に入った部分がそのまま、数倍もの濃さに濃縮されて97分にぎっしり詰め込まれているからです。
ただもちろんそのせいで、TVシリーズを見ていない人にはちょっとわかりにくい部分もあった気はします。ですが、ぶっちゃけていうならば、この劇場版で描かれていない部分はTVシリーズでもどーでもいいことなんですよね。だから、もし本当に、余計なノイズにとらわれず映像を見て良い作品かどうかを見極める確かな審美眼を持っているならば、この作品だけ見てもはっきりと「これは傑作だ!」と涙を流しながら叫ぶことでしょう。しかし残念ながらそこまで審美眼を持った人間は極稀(僕もさすがにそこまできちんと作品を見ることが出来る審美眼は持っていないし)。ですので普通の人は、まずテレビシリーズ版を見て、その後でこの作品を見ることを強くおすすめします。
しかし一方で、これはTVシリーズ版を見たあとに劇場版を見た人なら強く同意してくれると思うのですが、この「中二病でも恋がしたい!」という作品の、真に重要な要素は、まさしくこの劇場版に詰まっているんですね。その真に重要な要素は箇条書きするならば

  • 六花ちゃんのかわいさ
  • 勇太くんのかっこよさ
  • 二人の恋愛

そして

この4つの要素なんです。他の色々はほんとトリビアルなことにすぎません。ですから、真に重要な部分だけを作品に詰め込んで濃縮したという意味で、この作品は「中二病でも恋がしたい!」の劇場版として、本当に無駄が全くない最高の出来だと、少なくとも僕は、断言できます。

ただ中二病を全肯定するのではなく、そのやっかいさも描く

この作品は本当になにからなにまで素晴らしいので、素晴らしい箇所を一々挙げていったらきりがないのですが、その中でも特に、僕が素晴らしいとおもったところを一つあげましょう。
それは中二病妄想をただ全肯定するのではなく、中二病のやっかいさもきちんと描いている」という点です。
時々誤解している人が居ますが、現役の中学ニ年生とかがヒーロー妄想であったり前世妄想といった中二病的な妄想を抱いていても、それは中二病とは呼ばれません。なぜなら、その時期にはそういう妄想を抱くことはごく普通にありえることであり、そして社会もそれを許容してくれるから、「病気」とは呼ばれないのです。「中二病」が病気と呼ばれるのは、そのような妄想を人々が卒業した発達段階に至っても未だにそのような妄想を持ち続け、そしてそれにより周囲の社会との軋轢が生じるからなのです。
さて、では中二病患者とは、周りの人間よりも発達段階が劣った人間、あるいは他の人とはそもそも発達段階が異なる人間なのでしょうか?中二病的妄想を真剣に信じ、その妄想にそぐわない現実を無視する場合においてはそうでしょう。しかし実際は、中二病に罹患する人間は、知能は平均程度か若干高い人が多いみたいです*1。そして、これが最も重要なことなのですけど、実は中二病患者の多くは、自分の中二病妄想があくまで「妄想」であり、そして自分はその「妄想」を現実逃避のために用いているという、病識まできちんとあることが殆どなのです。
そしてここにこそ、中二病という病のやっかいさがあるのです。ただ単に中二病が「妄想にとらわれて現実を見えなくなってしまっている」という状態ならば、その解決法は簡単です。妄想をとりはらって現実を見させるか、あるいはその妄想の中に完全にひきこもらせるか。
ところが中二病はそうではなく、「妄想が自分の『妄想』であることを自覚しながらも、自分の周りの現実に自分の心が対応することが出来ないため、その妄想を現実の代替物としている」状態なのです。故に、ただ現実を見せたって中二病のやっかいさは解決しません。むしろ中二病患者は普通の人よりよっぽど注意深く現実というものを観察しています。そして観察した上で、「この現実に自分が対応するのは無理だ」と思うからこそ、妄想を信じるのです。
では逆に妄想の中に完全に閉じこもってしまうという手はどうか?しかしこれも、上記と同じ理由から無理です。彼らは現実を十分観察し、実際の現実は自分の妄想とは違うものなのであって、自分の妄想が「妄想」であることを十分知ってしまっています。ですから、今更妄想を現実と誤認しろと言われても無理なのです。
故に中二病患者は、常に現実と妄想のマージナルな領域に自分の精神を置く、不安定でやっかいな存在なのです。そして、ここまで文章を読んだ人ならおわかりでしょうが、中二病がそのような狭間に存在する以上、「妄想は所詮妄想だ!」という説教も、あるいはその反対の「現実なんて無視して中二病の妄想をどんどん膨らませていけ」なんていうような、クリエイターと呼ばれる人たちがよく唱えるような(薄っぺらな)励ましのいずれも、ほとんど意味のない空虚な言葉でしかないのです。

中二病でも恋がしたい!」はいかに「中二病のやっかいさ」と向き合ったのか

それでは、この作品はいかにこの「中二病のやっかいさ」を描き、そして立ち向かっていったのか。作品を見ていた人なら別に一々説明されなくても分かることなのでしょうが、埋め草のために説明すると、その過程は大きく三つに分けられます。

  1. 「現実逃避としての中二病(妄想)」
  2. 現実(恋・死)と向き合うことによる「中二病(妄想)の否定」
  3. 「現実を塗り換える中二病(妄想)」

まず第一段階の「現実逃避としての中二病(妄想)」、これはまさしく一般的な中二病といえるでしょう。まず最初に六花はこの地点にいます。そして実は多くの「中二病肯定」作品(これを僕は揶揄的な意図を込めて「中二病・イズ・ビューティフル作品」と読んでいます)は、この段階の中二病妄想を、「現実なんてくだらないから妄想の中で暮らそうぜ!」と称賛するわけです。
しかしこの作品はそうは描きません。一体なぜか?その理由はこの作品のタイトルを読めば一目瞭然、そう、
中二病でも恋がしたい!
からなのです。
人に恋してしまったという「現実」、しかしこの現実は中二病妄想には組み込めません。中二病妄想とはあくまで、自分がこの世で特別な存在であり、そこらへんの現実を生きる平凡な人間とは違うという設定の元での妄想です。ですから、そんな特別な自分が、平凡な人間みたいな恋愛感情を抱くはずがない!でもあの人が好きだ、ああどうしよう……これこそが、これまでさんざん中二病というものがサブカルチャー作品で描かれてきながら、しかし殆どの作品において触れられてこなかった、「中二病のやっかいさ」なのです。*2
そして六花ちゃんは第二段階、「中二病(妄想)の否定」へと至るわけです。この部分に一足先に到達としてたのが勇太だったとも言えるでしょう。普通に恋をし、そしてその一方で人が勝手に死んでいくような現実、しかしそういう現実と自分たちは向き合わなくちゃならないんだと。ここらへんまで含めて中二病というものを描いた作品は、青年マンガにはある程度あります(僕が何度か言及してきたヨイコノミライという作品もそういう作品の一つ)。
しかし、この「中二病でも恋がしたい!」という作品の凄いところはは、そこまで行ってもまだ歩みを止めないところにあります。現実を受け入れて、普通のカップルらしく暮らしたりしたりして、「現実」に、ある意味屈服した日常。しかしそんな日常でいいのか?ここでいよいよ出てくるのが第三段階。「現実を塗り換える中二病(妄想)」なのです。
これが、もっとも美しく、そして感動的に現れたシーンが、まさしくあの浜辺の光のシーンです。あのシーンの光は、現実にはただの漁船とかの光かもしれません。しかしその光を六花と勇太は、「父の魂の光」であると塗り替えた。父の死という「現実」から逃げるのではなく、かといってただその「現実」に屈服するのでもない、中二病(妄想)によって「現実」を塗り替えてしまうのです。

「現実より素晴らしい現実」を描く方法はアニメ以外にありえない。

ではなぜこの作品でそのような、これまで誰も描けなかったようなシーンを描くことが出来たのでしょうか。それは、この作品がアニメーションという技法で作られたから、そして、そのシーンを作画した京都アニメーションが、アニメーションという技法を知り尽くしている存在だからに、他なりません。
アニメというのは、よくよく考えてみると実に不思議なメディアです。アニメはどこまで精密に描いても、やはりアニメであり、声も実写の俳優の声の出しかたとは大きくちがって、殆どの場合実写と間違えるなんてことはありません。しかしその一方で、アニメはマンガと比べれば、遥かに実写に近い。音声もあって、まるで現実を写している映像のようでありながら、しかしそこで映像に登場するものは現実とはぜんぜん違う絵である。一体何でこんな中途半端なものを、人々は好んで見るのか。
それは、その中途半端さが、まさしく私たちの持っている、「今の『現実』ではない現実の有り様を見たい」という思いと共鳴するからに他ならないのです。
アニメの動く絵は、その動く絵を見る人が突き放してしまい、「これはただの絵と声の組み合わせだ」と思ってしまえば、例えどんなに精緻に描き、どんなに感情豊かに演技をしたって、何のリアリティも持ち得ず、まさしく「ただの絵と音」になってしまいます。逆に、いくら優れた脚本で、見る人の心を揺り動かしていても、作画や演技が稚拙であれば、「これってただの絵と音じゃないの?」という風に思わせてしまう、そんな、シビアなメディアなのです。
しかし一方で、そういう風にシビアなメディアだからこそ、まさしくこの「中二病でも恋がしたい!」の様に、優れた作画と、人々の心をつかむ脚本、そしてそこにリアリティと幻想性の2つを与える演出や声優の演技があれば、それは人々の心を掴んで話さず、そして人々に「これは現実よりずっと素晴らしい現実だ!」と思わせる、そんな作品を作り出せる技法でもあるのです。
そして、その「現実よりずっと素晴らしい現実」を創りだすという点で、まさしくアニメという技法そのものが、中二病でも恋がしたい!が最終的に描いた、「現実を塗り換える中二病(妄想)」にほかならないのです。
中二病でも恋がしたい!という作品は、まさしく「ザ・アニメ」なのです。

*1:あくまで体感だけれど

*2:ここらへん少し実体験があったりしますが、それはまた別の話。多分墓まで持っていくだろうけど