あままこのブログ

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「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」なんていうのも思い込みである


追記(2012/09/19 22:05):「尖閣諸島を守るために防衛力を持とう」というリアリストが一番怖い - 斜め上から目線という記事で、この記事に寄せられた言及・コメントに返信しました
Archives 43は見つかりませんでしたという記事が人気です。おそらく、尖閣諸島魚釣島問題での、日中の緊張の高まりを受けて、話題になっているのでしょう。
この記事ではフォークランド紛争やアジア・太平洋戦争、湾岸戦争という例を出しながら、過去「攻めてなんてこないだろう」と思っていた国が攻めてきたことがいくつもあったと示し、そこから「だからきちんと防衛力を持つことによって犠牲を防がなくてはならない」ということを主張しています。
よくある、現実主義者たちの理屈です。「防衛力を持つことこそが、平和への道」という。
もちろん、これらの例示自体に反論することは可能ですし、しなくてはならないでしょう。フォークランド紛争について言えば、フォークランドというおよそ重要ではない領土のために、武力による解決の道を選んだ、そしてそれによってイギリス人・アルゼンチン人双方に多数の犠牲者を出した。武力を用いずに解決できなかったのか、今でも当時戦争を主導したサッチャー首相は非難の的です。
また、湾岸戦争についてもこれは同じです。当時国際世論は、広告代理店によって流された、乳児の虐殺といった嘘のニュースに影響され、武力による解決の道を選びましたが、これも、更に時間を置いて、交渉による解決はできなかったのかという批判が、湾岸戦争の後には噴出しました。
しかし、そのような批判が、この文章にはされなければならないということを前提においた上で、僕は、更にこう問いたいのです。
「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」なんていうのも、思い込みじゃないかと。

現実が本当に覆せないものとは限らない

「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」ということは、一見所与の現実であり、覆すことのできない現実のように思えます。なぜそうなるかといえば、それは

  • 「自分が殺されるかもしれない」という恐怖(を与えられる力)があれば、相手は自分を殺しに来ないだろう

という、人間なら誰しもが抱いている生存本能に根ざしている現実だからです。
しかし、もう一度記事に戻って文章をよく読んでください。記事に書いてあるケースはどれも、「相手が合理的判断をすると思ったら、それをしなかった」ケースです。つまり、ここにおいては「相手が合理的判断をする」という、当然のことだと思っていた現実が覆されているのです。ならば、一体なぜ

  • 「自分が殺されるかもしれない」という恐怖(を与えられる力)があれば、相手は自分を殺しに来ないだろう

という現実だけが、覆されないものとして提示されるのか。
この現実に対する反例を挙げるのは簡単です。例えば、2001年9月11日の同時多発テロや、その後多数続くアメリカに対する自爆テロ。それはまさに「自分が死ぬことがほぼ決まっているにもかかわらず、相手を殺しに来た」例です。故に、地球上で最強の軍隊、つまり「抑止力」を持っているはずのアメリカでさえも、それを防ぐことはできないわけです。
にもかかわらず、なぜ現実主義者は「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」ということを現実としたがるのか、それは、現実主義者にとっては「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」という現実こそが「空想」だからです。

現実は「空想」の一形態である

現実主義者と理想主義者というものは通常相反するものとされています。現実主義者は現実を見つめその中で自分がどうやって生き残るか考えるのに対し、理想主義者は理想という「空想」を追い求めるものであると。しかし、先ほども述べたように、そうやって現実主義者が現実としてきた

  • 「自分が殺されるかもしれない」という恐怖(を与えられる力)があれば、相手は自分を殺しに来ないだろう

という現実は、しかし実際は覆せる思い込みにすぎなかった。とするならば、それは「空想」以外の何物でもありません。
更に言うならば、「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」という現実は、それだけでなく

  • 自分が自分を殺しに来ることはありえない

という現実に支えられています。つまり、防衛力という武力はあくまで他者に向かうものであり、自分に向かうことはないのだと。
しかしこれもまた思い込みの「空想」にすぎません。ミクロな観点から言えば、自殺という行為はまさしくこれに反するものですし、マクロな視点から言えば、それこそ、中国の「防衛力」を考えて見ればわかります。中国の防衛力である人民解放軍は、外国や資本主義勢力などの他者から自分の国を守るためのものであるとされています。しかし実際は、チベットなどで少数民族を弾圧し、そして、天安門事件においては、まさしく自国民を虐殺する武力となったのです。
そのような事例は、中国の特殊事情であり、日本では起こり得ないのでしょうか?僕はそうは思いません。確かに近代日本においては、今まではそのように内戦に至るまで対等な民族対立や宗教対立・政治対立はありませんでした。しかし現在においては、貧富の格差や世代間格差などという形で多くの対立が発生しております。そのような歪が向かう先は、今のところは「自殺」という形ですが、しかし自分の死を選ぶことができるということは、他人の命を奪うことへの抵抗がなくなるということでもある以上、それが対立する集団ごとの殺し合い、つまり「内戦」になる可能性は大いにあるといえるでしょう。そのような自体においては、防衛力は中国の人民解放軍と同じように、自分に向かう武力となるのです。
もちろんこれは、「中国が攻めてくる」とかと同じ種類の「空想」の話です。しかし一方で、そのようなことは起こりっこないという、現実主義者の思い込みもまた、別の種類の「空想」にすぎないのでは、ないでしょうか。

恐怖が現実という「空想」を求める

もう一度繰り返します。現実主義者が言う「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」という現実は

  • 「自分が殺されるかもしれない」という恐怖(を与えられる力)があれば、相手は自分を殺しに来ないだろう
  • 自分が自分を殺しに来ることはありえない

という二つの思い込みに支えられた「空想」でしかありません。しかし現実主義者はそれを現実と主張する。それは一体なぜか。
答えは簡単です。現実が存在しないことが恐怖なのです。
もう一度最初に紹介した記事に戻りましょう。この記事を読んだ時、人々の心に一番思い浮かんだ感情は何か。それは、恐怖ではないでしょうか。攻めて来るはずがない相手が攻めてくるかもしれない。とするならば、今緊張が高まっている中国や韓国といった、日本の近くにある国ももしかしたら攻めてくるかもしれない。「日本は今後も平和である」という当たり前に思っていた現実が、この記事を読むことによって疑わしくなってしまうのです。
今まで当たり前だと思っていた現実が急に疑わしくなった時、人々は恐怖を覚え、なんとかその恐怖を解消しようとします。それはある場合は魔女狩りに繋がったり、またある時はオタクバッシングにつながったりします。そしてこの記事においては、その恐怖の解消方法として、「防衛力を持っていれば犠牲が防げる。だから防衛力を持とう」という、現実を“信じる”行為へと繋がるのです。なぜなら、このような恐怖は、確かな、そいつらを抑えこむ方法が確かにあるとされる敵(「魔女」「オタク」「防衛力によって防げる敵」)を新たに信じることによって解消されるからです。*1

現実主義者の「空想」と理想主義者の「空想」、どちらを選びとるか

しかしそのような方法によって恐怖を解消したとしても、現実主義者の現実も「空想」にすぎないという事実は変わりません。むしろ、「空想」でしかありえないことを現実だと思い込む、この場合は、「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」という「空想」を現実だと錯覚してしまうために、その空想が現実でないと示された時(9.11なんていうのはまさにその瞬間だった)、より酷い被害を被ることになるかもしれないのです。
そもそも、人はそれぞれ固有の思考・価値観を持つ生きものである以上、「こうすれば相手はこうしてくれるはずだ」なんていう想定は、空想でしかありえません。それは、隣人関係においてもそうだし、隣国との関係においてもそうです。「こうすれば相手の攻撃を防げるはずだ」なんていうことは、どれも「空想」でしかありえないのです。それらのどれかを、「空想」であると知りつつ選び取るしかない。
現実主義者の「空想」とは一体何か。それは、防衛力を前提とした平和であり、逆に言えば、防衛力がなければ平和は存在し得ないとする「空想」です。そしてそれは

  • 「自分が殺されるかもしれない」という恐怖(を与えられる力)があれば、相手は自分を殺しに来ないだろう
  • 自分が自分を殺しに来ることはありえない

という思い込みにもとづいています。
それに対し理想主義者の「空想」、つまり、日本国憲法が理想とし、それを選びとった「空想」は、こうです。

  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この「空想」を支える思い込みは、こうです。

  • 「自分が殺されるかもしれない」という恐怖(を与えられる力)―まさしく武力による威嚇又は武力の行使―がなければ、人は、人を殺したいとは思わない。

どちらの「空想」も、それを支えるのは思い込みです。私達一人ひとりが考えなければならないのが、一体どちらの「空想」が他者・他国と共有でき、そして、他者と共有“したい”と思えるか、なのです。

僕は理想という「空想」を選びとる

僕は、現実主義者の示す現実という「空想」は、まったく他者と共有出来るとはおもえません。「防衛力を持てば犠牲は防げる」といいますが、例えば日本と中国が戦争になった時、例え自衛隊がどんなに「防衛力」*2を持っていたとしても、そこでは大勢の犠牲者が、日本、そして中国に出るでしょう。というか、戦力が多ければ多いほど、犠牲者自体は増えるでしょう。例え日本人の犠牲が少なくても、その分中国の犠牲者が増えるだけです。そして、それにおびえて中国が防衛力を増大させれば、今度は日本人の犠牲が増えるだけです。
『自分が殺されるかもしれない』という恐怖(を与えられる力)があれば、相手は自分を殺しに来ない」か?むしろ逆でしょう。自分が追い詰められていると感じれば感じるほど、先制攻撃の危険は増えるでしょう。最初に紹介したブログの一番の詐術はこれです。記事の文章では「防衛力」のメリットとおもわれるものだけを記述していますが、「防衛力」があるほど増大する危険もあるのです。それはまさしく、このブログの筆者が戦争が好きな軍国主義者だ、という風に非難された時代象徴するとして、最も敵視しているであろう一文、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という文が、念頭に置いている危険です。
そして更に言えば、国家が持つ「防衛力」は、それが大きくなればなるほど、国民に牙をむく確率が高くなるでしょう。国家の内部で深刻な対立があった時に、それを使えば絶対その対立に勝つことが出来る道具が存在して、それを使用しないでいることが出来るか?それこそまさしく、中国の例やかつての韓国の軍事政権の例を、参照すべきです。
それより僕は、理想主義者の「空想」こそを、選び取り、そして他者と共有していきたいです。確かに、今中国などの反日デモを見れば、僕だって絶望的な気持ちになります。しかしそれでも、彼らのその行動は一体どのような動機に基づいているものなのか、理解できるだろうと信じています。そして、理解し、それに基づいて行動すれば、防衛力になんか頼らずとも、対話による解決へとつながっていくだろうと思っています。その過程では、譲歩することもあるかもしれませんが、しかし「平和と生存」という、たった一つの譲れない一点だけ守れれば、それで十分ではないでしょうか。
そして、その一点を双方において守るという決意を示すためにも、「『自分が殺されるかもしれない』という恐怖を与えられる力」は持ってはいけないと考えるのです。逆に言えば、それがないことさえ示せれば、どんなに酷いことになっても、戦争だけは避けられると、信じているのです。

現実“に”逃避するのではなく、「空想」こそを選ばなければいけない

前節で考えたことはあくまで「僕」の考えです。世の中の人にはそうでなく、現実主義者の現実という「空想」を、それでもこちらの方が人間らしいとして選びとる人もいるかも知れません。というか、おそらくそちらの方が多数派でしょう。どちらが選びとるべき道なのかは、あくまで一人ひとりが考え、そして議論をし、公共的に決定されなければなりません。
しかし重要なことは、理想主義者の理想、現実主義者の現実、どちらを選びとるにしても、それはあくまで「現実」ではなく「空想」であると認め、そしてそれを国際社会で共有する努力が必要になるということです。どちらの「空想」を選んでも、選んだ途端にそれが「現実」として世界中で認められるわけではありません。もしかしたら外国はまったく違う「空想」を選びとり、それに基づいて行動してくるかもしれない。そのような可能性を前提として、なんとかその「空想」を他国に広めていく努力が必要になります。その時、本当にその「空想」を広めていけると思うか、そして、広めていきたいと思うか、「空想」を選びとる際には、注意しなければならないのです。
もしその注意を嫌がり、現実に逃避するならば、その結末は、まさしく最初に示した記事でさんざん例示された、「想定外」という、最悪の結果を生むことに、なるのです。

*1:この節の説明は、社会学のモラル・パニックという概念にもとづいています。もっと詳しく説明を聞きたい人は、[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF:title]を参照したり、

アメリカは恐怖に踊る
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とかを読んでみたりしてください。

*2:あえで最初に紹介したブログの表記を用いる。もちろん、実際はこれは戦力のことである