あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

そういう「他人とのどーでもいい比べあい」自体が嫌なんだけどな

多分今回書くような議論はこれまでにも何回も繰り返されてきたことで、今更僕が書いても何の新鮮味もないことなのだろうけど、でもまぁ、繰り返すことが必要なこともあるんじゃないかとも思うので、車輪の再発明をすることにする。
非モテをこじらすと治らない - 常夏島日記
非モテの苦しみを綴った文章らしく、はてなブックマークのコメント欄でも共感するようなコメントが多く寄せられているんだけど、僕は全く共感できなかった。というかむしろ、この記事で述べられているようなタイプの男どもは僕が最も嫌いなタイプの人間であって、共感も同情も全く感じず、ただただ「こういう薄汚れた畜生どもが世の中から抹殺されれば、この世の中はもうちょっと素晴らしい世の中になるのになぁ」としか思わなかったのよね。

本当にそれは「非モテ」が原因か?

確かにこの記事では、自分たちが女性にもてなかったことが、自分たちの性格を歪ませてきたと記されている。その点から「非モテが俺たちの性格を歪ませたんだ」と、ブログの管理人は主張するわけだけれど、でも記事をよく読んでみると、必ずしもそれが原因ではないようにも読み取れるわけです。
例えば以下の記述。

バイト先で好きだったロリ系黒髪の女の子がチャラいイケメンにやられているとか、同級生の大人びた賢い女の子がバイト先の中年のおっさん*1の慰みものになってるとか、クラスでトップクラスの美人が合コンで知り合った商社マンにヤラれた、とかという話を持ち寄っては、イケメン死ね、おっさんくたばれ、商社は不良債権で潰れちまえと呪うのが日課でありました。

こういうような露悪的な文章は本当に読んでいるだけで吐き気がしてくるくらい大っ嫌いなのですが、それでも我慢して読んでいくと、ここで彼らが呪っているのは、「自分の好きな女性と自分が付き合えない」ということではなく「自分の好きな女性が別の男性と付き合っている」ことであることが分かるわけです。
もちろん「自分の好きな女性が別の男性と付き合っている」ということは、モノガミー的な性規範*1を前提に置く限りは、「自分の好きな女性と自分が付き合えない」という結果に対する原因ですから、その結果を呪っている以上、その結果を生み出した原因も同時に呪ってしまうというのは、ごく自然なことでしょう。
しかしその様に考えるには、上記の文章はあまりにその好きな女性の相手の男性のことを悪く書きすぎているし、むしろ「付き合えないこと」自体ではなく、「その女性が別の男性と付き合っていること」に腹が立っている、そう解釈したほうが自然に思えるのです。もしその彼らが好きなタイプの女性が、別にだれとも付き合っていなかったのなら、彼らはそこまで苦しみや怒りを感じないんじゃないでしょうか。
そうなってくると、むしろ彼らの怒りや、その怒りによって生じた性格の歪みの原因は、「自分が好きな女性と付き合えないこと」、つまり非モテそれ自体ではなく、それと関係してはいるけれど、しかしそれとは明らかに別個の問題、「自分が好きな女性が別の男性と付き合っていること」であるように思えてならないのです。

結局彼らは「女性と付き合いたい」のではなく「自分の価値を証明するもの」が欲しいだけでは?

じゃあなんで「自分が好きな女性が別の男性と付き合っていること」が苦しみとなるのか。「付き合えないこと」自体が苦しみなら、それはたしかに恋愛感情といえるでしょうけど、別に恋愛感情ならば「別の男性」をそこまで敵視しないはずなわけで、これは恋愛感情とはまた別の感情であると考えたほうがよさそうです。
ここで注目すべきは以下の記述だと、僕は考えます。

私は中学生から高校生くらいの時に非モテクラスタにどっぷり所属していました。チビで、デブで、眼鏡かなんかかけてて、運動が苦手で、自分にしか興味がなくプライドだけはむやみに高い、ブサ面。自分の「男性としての価値」などかけらも感じたことがないクラスタです。受験少年院と呼ばれる高校を卒業した我々は、多くが、いわゆる一流と言われている大学に行きました。私自身は残念ながら一流の少し下でしたが。やっぱり学生時代を通じて非モテで、みんな童貞で、クリスマスには世間のうわついた雰囲気に呪詛を垂れ流しながら男同士で集まって焼き鳥か何かを食べる数年間を過ごしました。

この文章では、最初「私」という主語に基づいていた記述が、いつの間に「我々」という主語に基づく記述に変化し、そしてそこで「男同士で集まる」ことが自分達の生活の大半を占めていたという風に説明されています。ここから、ブログ主の学生時代は、男性集団の「我々」に完全に内包されたものとして「私」が存在し、そこで自我が形成されていったことが読み取れるわけです。
となると、ここで疑問がひとつよぎります。一体何で完全に「我々」という男性集団の中で生活していたのに、一体なぜ「女性と付き合いたい」と考えるのか?これが、男女が混合された集団の中で生活していたという話なら、たしかにその中で「好きな女性がいるのにその女性と付き合えない」ということは問題になってもおおかしくありません。ですが、男性集団の中だけで暮らしているのなら、そもそも「好きな女性」なんて願望自体、一体どこで生まれるというんでしょう?
答えは明白です。それは男性集団内のコミュニケーションで幻想として生まれるんです。では、男性集団内でのコミュニケーへションとは一体どういうものか?それは、ごく簡単に言ってしまえば、「俺とお前どっちがより偉いか」という優劣付けなのです。そして、その優劣を決める、評価基準の一つとして「彼女が居るかどうか」という評価基準が提示され、その評価基準を満たすために「女性と付き合いたい」ということになるのです。
こう解釈すれば、、なぜ「女性と付き合えない」こと自体ではなく「女性が別の男性と付き合っている」ことが彼らにとって苦しみの原因となるかも、明白になるでしょう。ある女性がどの男性とも付き合ってないのならば、その女性は別に男性同士の優劣付けには何の影響も及ぼさない、“どうでもいい存在”です。ところが、その女性がある男性と付き合ってしまうと、その女性は“どうでもいい存在”から一挙に“優劣付けのカギを握る存在”となるのです。その女性と付き合っている男性を、「自分のような、女性と付き合っていない男より優れている男」と周囲に認めさせる、そんな効果を持つのです。だから他の人もまた、その効果を得ようとして「その女性と付き合いたい」と思うようになる。しかし、それはあくまで自分のランク付けを高める手段の一つなのであって、その手段によって叶えたい本当の感情・欲望は、「その女性と付き合いたい」ではなく「他の男より自分が優れていると他の男に認めさせたい」というものなのです。彼らの視線の先にあるのは、女性ではなく、その女性と付き合っている姿を見せつける、他の男性なのです。

そんな苦しみさっさと殺せ

もちろんだからといって、別に僕は「彼らは偽物の非モテだ」などということを語りたいわけではありません。例え本当の欲望が「自分の好きな女性と付き合いたい」という恋愛感情に基づく欲望ではなく、「他の男性より自分のほうが優れていると認めさせたい」という欲望だったとしても、その欲望の実現を妨げている条件として「女性と付き合えない」という問題があるのなら、それは「非モテによって苦しんでいる」と言ってもいいでしょう。但しもしそうならば「女性と付き合う」という条件が実現しても、また別の問題から苦しみは生まれるわけですが、それ自体は元記事でも認めていることです。ついでに言うならば、その苦しみをなくすのには、それこそid:p_shirokuma先生も言っている通り人を見上げる、人を見下す、それしか価値判断基準がない人間はなにしたって幸せにはなれませんということにいかに気づくことが出来るかだと思います。ブログ主は自分の苦しみについて

その苦しみは、生かさぬように殺さぬように、おなかの中で飼いならして過ごさないといけないものなのだと思います。

なんて生ぬるいこと言っていますが、僕としてはむしろ、さっさとどんな手段を用いてでも殺してしまうべきなんじゃないかと思うわけです。

元記事とは違った「非モテ」のあり様

ただ一方で、そういう男性間での優劣競争の目的として「女性と付き合うこと」を求める、そんな非モテとは、また違う「非モテ」もまた存在するんじゃないかとも、僕は思うわけです。事実、先ほど「共感する意見が多い」として紹介したはてなブックマークのコメント欄ですが、その一方で「自分は非モテだけどこれとは違う」というような意見であったり、あるいは「これまではてなで話題になってきた非モテとは違う」というような意見もまた見られます。さらに言えば、僕自身自分は非モテであり、そのことで結構苦しいとは思うけれど、でもこの記事で書かれているような苦しみとは違う苦しみだよなと、思ったりするわけです。
なせか。まずそもそも、別に僕は「女性が他人と付き合うこと」自体についてはなんとも思わないんですね。そりゃあ自分の好きな女性が他人と付き合っているせいで自分と付き合えないなら、それは悲しいでしょうが、でもそれは別に「別に誰とは付き合っていないけどあなたとは付き合っていない」と言われる時の悲しみと一緒でしょうし、ましてや別にその付き合っている別の男性に恨みを覚えるっていうことはほぼないと思うわけです。
更に言うならば、元記事で言われているような「イケメンや商社マン」と、その女性が「イケメンや商社マン」であることを理由に女性が付き合っているならば、むしろ「お幸せになってください」と思い、その女性に興味をなくすでしょう。だって別に僕はイケメンや商社マンではないし、イケメンや商社マンであることに特に価値を見出していない。とするならぱ、そこで無理やりその女性と付き合いだしたって、その女性が尊んでいる価値と自分にとって大事な価値が全く異なるからうまくいくはずがない。だししたらむしろ付き合わなくて正解なわけです。

「恋愛に付随するどーでもいいこと」のせいで「恋愛そのもの」から排除される

僕が非モテであり、そのことが苦しい理由って、むしろそういう風に「恋愛の価値観が一元化されて、『男としての価値』『女としての価値』という、自分にとってはとことんどーでもいい部分で競争することでしか、恋愛に参加できない」ことなんですよ。
例えば、元記事には次のような記述がありますが

その彼らの奥さんの多くは、背がすらっと高くてスタイル良好、色白美肌で目がぱっちりした美人です。おまけに慶應とか立教とか青学とかを卒業した才色兼備です。

それら全て、別に持ってて悪いとは言いませんが、付き合い相手を選ぶ属性としてはどーでもいいことです。
それよりも例えば、価値観や趣味を共有できるとか、話していて話題が自然と合うとか、人生で悩んでいることを共有できて、一緒にいて安心感があるとか、そういうことが重要視されるべきだと、少なくとも僕は思うわけです。
ところがなぜか「恋愛」という場所ではそういう自分にとってほんとうに重要なことではなく、自分がどーでもいいと思うようなことばっかりを、男女共に重要視しそれを示威しあう。服装や身だしなみにちゃんとしろだの、お肌の管理は基本だの、コミュニケーション能力を身に付けろだの(わざわざ能力がなきゃコミュニケーションが合わないんだったら、そんなの元々興味関心が異なってるんだから、付き合うべきでないでしょうに!?)、自分にとって全くどうでもいいことで競争しあっているわけです。人生は短いんだからそんなくだらないことに付き合っている暇はないし、そんなことを来にしているような人間とは価値観が合わないだろうから付き合いたくもない。
ところが、そうやって自分にとって「恋愛に勝手に付随するどーでもいいこと」を拒否すると、なぜか「恋愛そのもの」に参入できなくなる。別に恋愛がしたくないわけではなくて、むしろ、自分に合う人と一緒にいて安心感を得る、そんな恋愛は人一倍したいのに。
そういう「価値観・話題を共有する」「安心感を得る」というのは、別に恋愛じゃなくて友人関係でも実現できるのではないか、そういう声もあるかもしれません。ただ、僕のセクシュアリティにおいては、やっぱりそれはヘテロでモノガミー的な性規範に基づいく、男女の緊密関係でしか存在し得ないと思うんですよね。複数人での関係や同性間での関係では、やはりどうしてもその集団の中で「優劣付け」みたていなものが生まれてしまうように思えてならないんです。*2
(閑話休題。元記事では女性が悪しざまに罵られているのに対し、元記事のブログ主の言う「非モテクラスタ」内の男性に対して結構信頼を寄せているように思うのだけれど、僕はむしろ「男性間の関係の方がよっぽど自分にとっては鬱陶しくて嫌」なんですよね。ここらへんは多くの非モテと異なるところなんだけど、同性で集まるからこそ、そこでは「(女性蔑視と裏返しの)男らしさの価値」みたいなことが強烈に称揚されて、その空気に息苦しくなるんですよね。だから僕は非モテだけど、じゃあ「非モテ」を自称する男性同士なら仲良くなれるかといえば、そんなことは全く無いように思います。)
だから「恋愛そのもの」はものすごくしたい。けれど「恋愛に付随するどーでもいいこと」はできないししようとも思わない。しかし、そうやって「恋愛に付随するどーでもいいこと」を拒否すると「恋愛そのもの」から締め出される、それが僕にとっての「非モテであることの苦しみ」なんですね。

どっちも別に非モテを代表はしないけど

もちろん、元記事が非モテの苦しみを代表しないのと同様に、僕個人のケースもあくまで非モテの一ケースであり、どちらも別に非モテ全体を代表するものではありません(非モテを代表するなんてものがそもそも生まれ得るのか?という問題はありますが。ま、少なくとももっと問題を抽象化・一般化しないと無理である気はします)。ただ、少なくとも、僕のような非モテからすると、元記事のような「周りの男に認められるために女性を求めるケース」が、自分が抱えていると非モテ問題に含まれてしまうというのは、やっぱりちょっと違和感があるところです。そもそも、妻帯出来ている人間がいまだ「非モテとして苦しんでいる」ということは、それ自体、彼らにとっての「非モテ」が偽の問題であったことを証明しているのではないかと、思ったりもするわけです。

*1:一人の人間は一人の人間としか付き合わないということ。要するに一夫一妻

*2:もちろんこれは僕個人のセクシュアリティだから、それとは異なるセクシュアリティがあることは否定しません。複数人の関係であったり同性間の関係でも安心感とかを得られるという人は居るでしょう。ここの節の話はあくまで僕個人という一つの例に限定した話です。