読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

経済成長論争ってなんでこう、レッテル貼り対決になるのか

なんか中日新聞上野千鶴子氏が寄稿した文章を元に、またインターネット上では「経済成長は善か悪か」論争が盛り上がっているそうです。
synodos.jp
この論争を読んでいて、ちょっと古参のブロガーなら即、「ああ、またこの論争か」と思うことでしょう。経済成長論争っていうのはそれぐらい、ブロゴスフィアで何度も何度も繰り返し論争の対象になってきた話題だからです。
d.hatena.ne.jp
anond.hatelabo.jp
eulabourlaw.cocolog-nifty.com
大体四年おきぐらいに議論がぶり返していますな。オリンピックか。
しかしそれだけ議論が何回も何回も行われていても、いまだブロゴスフィア内ですら合意形成ができていないのが、この「経済成長論争」というものなわけです。
僕が思うにその原因っていうのは、結局経済成長肯定派も否定派も、相手の議論こそがすべての人々を不幸にする悪魔的政策であるとレッテル貼りするばかりで、経済成長することのメリットとデメリットは何かがわからない。経済成長を推し進める、またはやめるという政策を取ると、どういうタイプの人が幸福になって、そのかわりにどういう人が不幸になるか、それが客観的に示されないからであるように、思えてならないんですね。
それこそ一番最初に示した北田暁大氏の論考でも、「脱成長論は新自由主義だ!」とレッテル貼りをして、脱成長論のデメリットばかり掲げられるけど、それらの反論が脱成長論肯定派の議論とかみ合っているかといえば、正直かみ合ってないと言わざるをえないでしょう。北田氏は新自由主義「小さな国家(緊縮財政)/個人主義的な競争主義/流動性の上昇/貧富の格差の肯定」と定義するけど、それってまさに脱成長論者が「経済成長の弊害」として指摘するものじゃないですか。

結局、経済成長とは私たちの「生活」とどう関係するのか

なぜ経済成長論争がこんな風にレッテル貼り対決にしかならないか。それは、結局経済成長肯定派も否定派も、経済成長それ自体や、その経済成長を人々に強いる、または脱成長を人々に強いるということが、人々のミクロな生活(労働だったり余暇だったり)をどう方向づけるのか、価値表明の前の事実認定の段階での合意形成が取れていないし、取る気もないからではないでしょうか。
いや、マクロな面で言えばそりゃ経済成長の定義っていうのは明白なんでしょう。国内総生産が前年と比べて増加すれば経済成長?とかそんな感じなんでしょう。
しかし、そうやってマクロな現象である経済成長が、人々の一体どういうミクロな営みによって形成されているのか、経済成長が人々を幸福にするか不幸にするか問うなら、まさにそういうミクロな視点から見た経済成長論こそが重要なはずなのに、経済成長肯定派も否定派も、そういうミクロの営みについてはほとんど語らないわけです。
そんな中で、唯一と言ってもいいぐらい、経済成長というもののミクロな意味について語っている文章があります。山形浩生氏の下記の文章です。
cruel.hatenablog.com

 人はGDPとか経済成長とかいうことばだけ覚えて、なんかわかったつもりでいるけれど、それを実感として理解している人はおどろくほど少ない。でも、それは抽象的な数字なんかじゃない。明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。そうした各種の無数の努力が積み重なっていく様子を想像してみなきゃいけない。

僕は、ぶっちゃけ山形浩生氏というのは大嫌いなんだけど、この簡潔な説明にはやはり敬服せざるをえないと思うわけだ。経済成長とは「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。そうした各種の無数の努力が積み重なっていく」ということだという認識。
もちろん、この認識が本当に正しいのかどうかまでは、僕は判断できない。山形浩生氏は経済成長肯定論者だから、経済成長否定論者からするとまた別の認識の仕方があるのだとは思う。ただここで重要なのは、こうやって、「そもそも私たちが生活の中で何をしたり、強いられたりすることで経済成長が起きるのか」という、経済成長というもののミクロな意味を確定させようとしていることでしょう。なぜならこれがまず最初にこれがなされない限り、結局経済成長論は空疎な議論にしかならず、結局レッテル貼りにしかならないのですから。

自分の生活との関連が分かって初めて、その政策について評価できる

なぜこういう風にミクロな観点から経済成長というものが生活に占める位置を確定させることが重要なのかと言えば、こうやってミクロな意味をはっきりすることで初めて、「では人々は経済成長を選択すべきか否か」がわかるからです。
例えば上記の定義に従って言うならば、経済成長を肯定し、経済成長を推し進める政策とはつまり「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことを奨励し、人々にこのように振る舞うよう条件付ける政策ということになります。そして逆に言えば、経済成長を批判し、脱成長を推し進める政策とはつまり、「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことをむしろ悪いことだと考え、人々にこのようにしないよう条件付ける政策ということになります。
このように具体的に、人々の生活をどう条件付けるかが分かって初めて、そのどちらを選ぶか判断ができるわけです。例えば僕なんかは、常に改善を考えなきゃいけない生活とか大嫌いで、出来る限り何も考えないで日々を過ごしたいから、後者の政策のほうが良いと思うわけですが、しかし世の中にはそうではなく、常に改善を考えるのが大好きな人間も居て、そういう人間は前者の経済成長を推し進める政策を支持するでしょう。そして、共通の事実に基づいて、それぞれ独自の価値観を持った個人がある政策について価値表明を行い、そしてどちらの価値を国是とするか、国民が議論を行うことにより、国家として選択をする。
政策論議とはこのようになされるべきだと思うのです。
しかし現状のインターネット上での経済成長論争はこのような場面にいくことはほとんどありません。経済成長肯定論者は経済成長がメリットしかないかのように語り、経済成長否定論者は経済成長がデメリットしかないかのように語る。実際は、経済成長というものが一つの現象であり、それが人々の生活の中から発生する出来事である以上、かならずそれに適合する人もいれば不適合を起こす人もいるはずなのに。
一体なんなんだろうかこれは。議論に参加している人たちは、僕なんかよりずっと頭のいい人ばかりなはずなのに。

カメラ左翼とカメラ右翼

線路の向こうの火山
承前:
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
というわけでカメラにはまっております。
で、インターネット上でも色々カメラについての文章とかを読んだりしているのですが、そうすると「写真とはいかなるものであるべきか」というのが、実は人によってだいぶ違うということが分かってきて、その違いを眺めているのもなかなか楽しいです。
例えば、以前「アメトーク」というテレビ番組でカメラについて特集が組まれていたそうで、その中で小籔千豊とかいう、最近だと「夫婦別姓は日本の伝統!」とか言って失笑を買っていた右翼芸人*1が、「空」「ねこ」「いぬ」「カプチーノ」ばっか撮るカメラ女子を批判し、賛否両論が巻き起こりました。
matome.naver.jp
d.hatena.ne.jp
minkara.carview.co.jp
dysdis.hatenablog.com
【速報】高柳明音さん激怒、アメトーク大批判。 - AKB48まとめ速報
カメラ速報まとめ ~かめそく~ : 【アメトーク】小藪先生のカメラ講座【殺伐】
この論争では、「どういったものをカメラで撮るべきか」ということが問題となったわけです。
この他にもたとえば、「超音速備忘録」というブログで以前
wivern.exblog.jp
という記事が書かれ、この中で書かれた

  • 「そういうの難しくてわかんない!私は私の好きな写真が撮れればそれでいいもんね!」みたいな文化は滅べばいい
  • 写真の加工は善である

という主張がなされ、それに対してはてブコメントで

  • そうは言ってもあんまり加工のやり過ぎはよくないんじゃないか
  • 好きな写真が撮れればそれで良いことの何が悪いんだろう

みたいな反論がなされる、といったことがありました。
このように、写真について語るということは時として論争を引き起こし、そしてその背景には、個々人が持っている、写真についての「思想」の違いがあるのです。
と聞くと、僕のような人文系オタはついつい、「思想の違いがあるのなら、その思想の違いをマッピングしてみたい」ということを思ってしまうわけです。

カメラをめぐる思想の四象

というわけで、カメラの思想、マッピングしてみました。
www.positioning-map.com
f:id:amamako:20170220163429p:plain
色々突っ込みたいところは山ほどあるかもしれませんが、とりあえずの叩き台ということで……
この図の内、一番右上を「カメラ右翼」と呼び、一番左下を「カメラ左翼」と呼ぶことにします。ええ、『フード左翼とフード右翼』

のパクリです。
では、それぞれの思想について解説していきます。

権威主義ロマン主義

この思想は、カメラ右翼思想の亜流であり、上記で紹介した【写真】カメラは「真実を写す機械」だと思っている人に言いたい5つのこと : 超音速備忘録という記事はまさにこの思想に位置します。この思想においては、写真は「他人に見せていかにカッコイイか」が重視されます。そのため、被写体選びもまず、その被写体が写真にしたとき権威的な他者の評価が得られるかが重視され、「私の好きな写真が撮れればそれでいい」的な考え方は否定されますし、写真の編集に関しては、「かっこよく見えるためにどんどんイジれ!」となり、彩度・コントラストもどんどん上げますし、HDRもどんどん使います。また、色温度は低い傾向があります。このような写真の代表としては下記のようなものが挙げられるでしょう。
irorio.jp
このような考え方は、しかしリアリズム主義者からは「彩度上げすぎて眩しすぎ」「写真版ラッセンかよ」「現実を加工するな」とツッコミを受けます
b.hatena.ne.jp
anond.hatelabo.jp
www.gizmodo.jp
www.afpbb.com
し、自由主義者からは「他人の評価を気にしすぎてキモい」と思われています。

権威主義・リアリズム

この思想は、カメラ右翼の本流といえます。彼らの写真の特徴は、一言で言えば「コンテスト狙いの写真」と言うことができます。撮影後の加工は出来る限り避け、撮影時の光量・構図で勝負するのが一番だと考えています。コントラスト・彩度は出来る限り抑え、なんならモノクロ写真が一番だと思っている節もあります。
また、この思想の人たちは「カメラ女子」と呼ばれる人たちを徹底的に嫌います。彼らに言わせれば、カメラ趣味とは「カメラ道」がごとき求道的なものであり、女子供や中途半端な覚悟の人間が手を出して許されるものではないのです。この記事の最初に挙げた小籔騒動は、まさしくカメラ女子に対する、カメラ右翼のバックラッシュだったと言うことができるでしょう。
そして、そのようなカメラに賭ける覚悟を証明するために、レンズ沼に堕ちがちです。

自由主義ロマン主義

こちらの思想は、カメラ左翼であり、カメラに対してより革新的な考え方を取ります。旧来のカメラに対する考え方に反旗を翻し、「別に権威に褒められなくったって、自分の好きな写真が撮れればそれでいいんじゃね」と考えます。その為加工にも躊躇がありませんが、その加工はあくまで自分と、その自分の周りの人を楽しませる目的で使われます。
このようなタイプは、最初、SNOWやinstagramを使うことでカメラの楽しさに目覚めます。そしてさらにその楽しみをもっと「盛る」ために、コンパクトデジカメやミラーレス一眼・一眼レフに移っていきますが、その過程で時としてカメラ右翼のバックラッシュに直面したりもします。
ただ、現代におけるカメラ好きの最大派閥は、カメラ左翼であるということにカメラ右翼は気づいていません(いや、もしかしたら「気づいてはいるけど認めたくない」だけなのかもしれませんが)。その証拠に、カメラについて取り上げるテレビ番組や一般雑誌を見てみなさい。殆どが岩合光昭とか中井精也といった「ゆるい写真」についての特集ですから。

自由主義・リアリズム

こちらの思想は、カメラ左翼の亜流ですが、世の中で言う「カメラ女子」のなかには意外とこちらの思想を持っている人が少なくありません。スマホで写真を撮る際は加工も楽ですが、ミラーレス一眼やら一眼レフで撮った写真は加工するだけで一苦労ですし、写真を撮っていく中で、いわゆる「ナチュラルな写真」の魅力に気づくパターンもあります。あるいは、カメラ右翼だった人が、権威狙いの写真に飽きてこちらに移行する場合もあったりします。
このタイプの思想の人が撮る写真は、彩度・コントラスト抑えめで色温度も低めです。
また、このタイプは時としてトイカメラとか二眼レフカメラとかといった変なカメラを使ったりもします。

みんなちがってみんな良い

さて、ここまで連々と語ってきましたが、僕の言いたいことは、実は単純に「みんなちがって、みんないい。」
www.youtube.com
だったりします。
ただ、「みんなちがって、みんないい」と言うためには、そもそもお互いの違いを理解しておかないといけないと思うわけです。そういう違いを理解していないと、小藪騒動みたいに、目指す場所が違うのに同じ場所を目指していると勘違いして、的はずれなアドバイスをすることになるわけです。
それを避けるためにも、自分がそもそもカメラについてどういう思想を持っているのか、把握するのは悪いことではないでしょう。この記事が、その助けになれば幸いです。

『けものフレンズ』は、むしろ私たちに違ったあり様の「知性」を教えてくれるのだ

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

けものフレンズについて、「知能を低下させるアニメ」という評価があります。けものフレンズを見ている人が「すごーい!」「たのしー!」としか呟かなくなることなどからそう言われるようです。
これに対しては、しかしさまざまな人々から、「けものフレンズは知能を低下させるのではなく、むしろそれを高めてくれるものだ。」という反論がなされています。
anond.hatelabo.jp
anond.hatelabo.jp

僕もこれらの反論に全面的に賛同します。
ただその一方で、このけものフレンズを見ていると自分たちの知能が低下してしまうのではないか、という不安も全く根拠のないものではないと、僕は考えるのですね。
なぜなら、けものフレンズという作品には、私たちが普段「知能」と呼んでいるもの、その根拠となる「近代的知性」を相対化し、揺さぶってくる「フレンズ的知性」があるからです。このフレンズ的知性は、私達が普段「知能」と呼んでいるものとは全く異なる考え方をします。だから一見すると、「知能」を衰退させるものとして写ってしまう。
でも違うんです。近代人が言う「知能」とは、違うあり様の知性が、けものフレンズという作品には込められており、むしろ、そのような知性こそが、現代の私たちが真に手に入れるべきものであるとさえ、言えるのです。
では、そのような「フレンズ的知性」とは一体何か。何が「近代的知性」と異なってくるのか。キーワードは次の3つです。

  • 「孤立」ではなく「共同」
  • 「競争」ではなく「互助」
  • 「啓蒙」ではなく「内発」

どういうことか、これから説明していきます。

「孤立」ではなく「共同」

近代においては「一人ですべて考え、決めること」が重要視され、「内省」というものが文学においても特別視されてきました。
自分がいかなる存在であり、他者とは一体どうやって付き合っていけばいいか、世界とは一体どういうものなのか。そういったことは、一人で延々と考え、自分の中で答えを見つけだすことが重要であり、他者の言葉などに影響されるのはよくないとされてきたのです。
しかし、このような考え方は、現代においてはむしろ答えの出ない悩みに人々を追い込んでしまっています。これについては、前回の記事で心理主義というキーワードを元に解説したので、ご参照ください。
『けものフレンズ』が僕たちに見せてくれる新しい「人間」の形 - あままこのブログ
一方、けものフレンズにおいては、そのような問いは一人で延々と考えるものではありません。「君は○○が得意なフレンズなんだね!」という言葉に代表されるように、自分という存在は、自分が内心で自分のことをどう思っているかではなく、自分が何ができるか、そしてそれによってどう周りに貢献できるかによって決まってくるのです。
つまり、悩みはみんなで分かち合い、そして答えを出すものなのです。例えばけものフレンズの3話において、トキちゃんはかばんちゃんに歌うコツを聞き、アルパカちゃんは喫茶店を繁盛させる方法についてアドバイスを得ましたし、5話において、ビーバーちゃんとプレーリードッグちゃんは、「住むところがない」という悩みを、二人で共同して意見を出し合い、仕事をすることによって解決できました。このように、一人で抱え込んで「孤立」するのではなく、みんなで「共同」することによって問題を解決すること、このような形の知性こそが、けものフレンズにおいては重要とされています。
これは、とかく主人公一人に問題を押し付けがちな、日本のサブカルチャーにおいては画期的なことです。以前著者は、『風の谷のナウシカ』という作品について、「ナウシカが問題をすべて一人で抱え込みすぎているのでないか」という批評をしたことがありましたが*1、この点に関して言うならば、実はとっくに「けものフレンズはナウシカを超えた」とさえ、言えると僕は考えます。
そして、このような形の新しい知能を、「IQ」とは異なる知能、「EQ」として捉えるという考え方もあるそうです。IQが自分ひとりで黙々と問題を解いていくものであるのに対し、EQは、人とどのように付き合い、問題を共同して解決していくか、その能力を測るものです。

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

そして、実は「けものフレンズ」についても、「すごーい」「そうなんだー」「たのしー」というフレンズ文法が、チームで仕事をするにあたっては、コミュニケーションを円滑にし、極めて有用に働くということが指摘されています。
tech.misoca.jp

  • フレンズ文法は、基本的にポジティブにフレーミングした上で発言する文法だ!
    • 〇〇が苦手なフレンズなんだね!へーきへーき!フレンズによってとくいなことちがうから!
    • 〇〇が得意なフレンズなんだね!すごーい!
  • 謙虚(Humility) 尊敬(Respect) 信頼(Trust) だ!

nuryouguda.hatenablog.com
あなたが仕事をしたり勉強をするときに、本当に必要なのは、一人で黙々と知能テストを解く能力ですか、それとも、チームみんなと協力する能力ですか?
その点を考えただけでも、けものフレンズはむしろ、本当に私たちが必要とする「知能」を高めてくれるものであることが、分かると思います。

「競争」ではなく「互助」

けものフレンズのフレンズたちは、誰かを助けるために何かをすることを厭いません。かばんちゃんやサーバルちゃんが何か困っていれば他のフレンズを助けますし、また、かばんちゃんやサーバルちゃんも、誰かが困っていたらなんとかしてその子を助けようとします。また、渡し船をしているジャガーさんや、喫茶店を開いているアルパカさんのように、なんの見返りを求めることなく常に生活の中で誰かを助けているフレンズたちも居ます。
それに対して、現在の私たちの行動は基本的には、「競争をし、誰かを出し抜く」ことを基本としています。学校では、テストで他人より高い評価を得ることによって相対的評価を高めようとし、仕事ではライバル企業と競争し、相手を市場から蹴落とそうとします。そしてそのように競争によって自分の利益を最大化しようとすることが、社会全体を発展させ、結果的に人々をみんな幸福にするのだと、信じています。
ですが本当にそうでしょうか?例えば、震災の時、みんなが水を欲しがっているときだから、水を自分の手元に独占して価格を吊り上げることが、合理的行動だから良いのだと言った人がいました。なるほど確かに競争に勝って自分の利益を最大化することが、「近代的知性」においては善とされています。
ですが、「フレンズ的知性」においては、どうでしょうか。「みんなが水を求めて困ってるんだから、みんなで水を分配すれば良いんじゃないのかなぁ」と考えるでしょう。
では、この2つの内、より人々を幸せにする知性はどちらでしょう?
また、「近代的知性」では、競争によって自己の利益を最大化することが重要とされますから、他人を常に用/不用の基準で判断します。そしてその視点からは、劣った存在である高齢者や病者・障がい者は、不用な存在であり、突き詰めて考えれば、そのような存在は生かしておくこと自体がもったいないということになります。
しかし「フレンズ的知性」においては、そのような価値によって仕分けはされません。ただ、「フレンズであること」が重要なのです。もちろん、それぞれのフレンズに得意なこと/苦手なことはあります。ですが、一見何も得意なことがなにもないように見えるかばんちゃんに対しても、サーバルちゃんや他のフレンズは決して見下したりしません。むしろ、積極的にかばんちゃんを助けようとします*2。おそらくそこでは、「共にあること」そのこと自体がフレンズにとってうれしい、幸福なことと認識されているのでしょう。
さて、この2つの知性のどちらがより人々を幸福にするのでしょうか。前者のような知性では、人々は常に自分が老人や病者・障がい者になることに怯えなければなりません。しかし、どんなに怯えたって人はふとした瞬間に病者・障がい者になってしまいますし、さらに言えば、人はだれでも年老いれば高齢者となります。そうなったときに、「君は不用な存在だから」と切り捨てられるのか、あるいは、「へーきへーき」と、むしろ共にあることに感謝してもらえるのか、僕は、後者のような社会を生む知性こそが、人々を幸福にすると断言します。

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

「啓蒙」ではなく「内発」

かばんちゃんたちは図書館へと向かう旅先の途中で、フレンズたちが抱えている様々な問題に遭遇します。そして、その問題を解決するために、知恵を振り絞るわけですが、しかしその際にかばんちゃんは、常にそのフレンズそれぞれの特性を活かす方法で、問題を解決することを考えます。
そのことが一番顕著なのは、5話の家造りでしょう。5話において、ビーバーちゃんは、計画を実行する手順を考えることは得意でも、実際にその手順を実行することは苦手です。そしてその一方、プレーリードッグちゃんはなにかを実行することは得意でも、その手順を計画することが苦手なのです。
このような時、「近代的知性」にもとづいて考えるならば、教育≒啓蒙を行い、ビーバーちゃんに手順を実行することを、そしてプレーリードッグちゃんに手順を計画することを教え込もうとするでしょう。なぜなら「近代的知性」においては、すべての個人が一つの完成された「近代的自己」になることが求められ、その中で個々人が持っている特性は無視されなければならないからです。
しかし、かばんちゃんはそうはしませんでした。得意なこと/苦手なことという特性がそれぞれあるんだったら、その特性を否定するのではなく、活用しようとします。具体的には、二人で共同で家を作ることを提案したのです。そしてさらに、家の形も、それぞれが意見を自由に出し合い、それぞれの要望を出来る限り実現する形にしようとしたのです。
これは、同じ「異人*3たちがやってきて問題を解決する」という、近年アニメや漫画・ライトノベルに流行している作品のストーリーの中でも、かなり独特な方法です。それらの作品においては、異人たちはしばしば「転生者」としてやってきて、ただ自分のやり方を教育≒啓蒙というかたちで、押し付けて問題を解決しようとします。例えば、そういう作品の例として代表的な『まおゆう』という作品においては、魔王というキャラクターが転生者として現れ、中世以前の社会を、現代の近代的手法で「啓蒙」することによって変革しようとしますが、その過程においてはその世界の特性は完全に無視され、まるで出来の悪い歴史の教科書のように、ただ現実の歴史をなぞり、その中で乗じる悲劇も「発展のためにはしょうがないことだ」と無視します。
このようなやり方は、まさに「近代的知性」特有のものといえるでしょう。ある一つの理想形があって、それは万人が求めているものだと決めつける。そして、その理想形に至らせるやり方も一つであると決めつけ、やり方が一つだから、そのことで生じる犠牲も、「理想のためには仕方のないものだ」として許容されるのです。
しかし、「フレンズ的知性」のやり方は違います。そもそも、それぞれの地域・フレンズによって、理想とするものは全く異なってくるし、その理想を実現する方法も、多種多様なものなのです。そしてさらに言えば、その地域・フレンズの理想や、得意なこと・苦手なことについて、最もよく知っているのは、問題を抱えているフレンズ本人たちなのです。そのことは、かばんちゃんたちにとっては当然のことですから、自分のやり方を押しつけようとするのではなく、フレンズたちの特性を用いて何かできないかと、フレンズたちの試行錯誤を重要視しながら、考えるのです。そこには、「俺のやり方でやればうまくいくんだから黙って従え」というような、前節で挙げた「転生もの」特有の傲慢さはありません。
このように、その当事者自身で、当事者の特性を活かした形での、問題の解決を測ることは、近年「内発的発展」ですとか「当事者主義」として重要視されています。

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

内発的発展論の展開

内発的発展論の展開

なぜこのような当事者自身が、当事者自身のやり方で問題を解決していくことが、重要視されているのか。その背景には「近代的知性」の、ある一つのやり方が最善で、それをみんながやればうまくいくという、「啓蒙主義」が、限界に来ているということが挙げられます。
例えば発展途上国支援。近代における西欧の発展が唯一存在する発展のやり方だとすれば、まず工場を作り、そしてその工場を支える社会インフラを作ることこそが、発展の唯一のやり方であるということになります。そして事実、発展途上国では「開発独裁」という、正しいやり方を国家が人々に押し付ける形で押し付けてきました。
しかしその結果生じたのが、地域の環境破壊であったり、社会構造の破壊によるセーフティーネットの無効化や、不平等の拡大などでした。そんな啓蒙主義の負の側面が明らかになる中で、近代西欧の発展方法のみが唯一のやり方ではないんじゃないんか、例えば自然豊かな地域なら、その自然を活かした形での発展があるのではないかとか、
フェアトレード―格差を生まない経済システム

フェアトレード―格差を生まない経済システム

宗教による不平等是正のシステムがあるのだったら、そのシステムを使ってベンチャー企業を支援したりすれば良いんではないかとか、
イスラム金融はなぜ強い (光文社新書)

イスラム金融はなぜ強い (光文社新書)

そういった様々な地域独自のやり方の模索がされるようになっているのです。
また、身近なところで言えば、「学校」という制度においても、「近代的教育」、つまり集団で机に座って同じ授業を受ける、そんなやり方から、個々人が自発的に学習をしていく、そんなやり方への移行が叫ばれています。
その理由の一つとしてあるのが、そのようなやり方は、机に座って授業を受けるのが苦にならない、いわゆる「定型発達者」にとってはよくても、そうでない「非定型発達者」にとってはとても苦痛になっているということが、近年気づかれるようになったということです。
それこそ例えば、けものフレンズの4話に出てきたスナネコちゃんのような存在が、机にじっと座ってただ黙々と板書を写す、みたいなことができるでしょうか?それより、スナネコちゃんがあれだけ好奇心があるんだから、その好奇心を活用して自分からいろんなことを調べられるような授業を行うほうが、よっぽど良いはずです。
このように、「近代的知性」に基づく「啓蒙」という方法が様々な点で限界に突き当たる中で、そうでない、「フレンズ的知性」に基づく「内発」という方法を知ることは、マクロな問題でもミクロな問題でも、きっと役立つはずです。そしてそのような「内発」というやり方について、けものフレンズは格好の教科書となるのです。

*

誤解があるといけないので一応言っておくと、僕は別に「近代的知性」をすべて捨て去り、「フレンズ的知性」に全面的に移行すべきというようなことを述べてるのではありません。前項で述べたとおり、方法は一つじゃないのですから、フレンズ的知性が有効な場面もあるように、近代的知性が有効な場面も当然あるでしょう。近代的知性がなかったら、あのジャパリパークを走るバスとかを一体誰が作れるのか。
そうではなく、重要なのは、「知能」、及びそれの基盤となる「近代的知性」とは、違ったあり様の「知性」があると知ることなのです。それは―例え表面上そう見えたとしても―決して「知能」を低くすることではありません。むしろ、「すごーい」「そうなんだー」「たのしー」という言葉を、そう言いたいことを感じたときに素直に言えるということ、それだって「知能」の一つなのではないでしょうか。
だから、とにかく言いたいことはただ一つなのです。


『けものフレンズ』、みよう!

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

*1:sjs7アーカイブ - 2008-08-15

*2:このことからも、けものフレンズに障害者がいたらこうなる。ワイが間違ってる?というしょーもない記事が端的に誤りであることがわかります

*3:ストレンジャー

『けものフレンズ』が僕たちに見せてくれる新しい「人間」の形

f:id:amamako:20170209022047j:plain
『けものフレンズ』、自分もすっかりはまってしまっており、家に帰るとずっとdアニメストアでループ再生している、そんな感じの今日このごろです。

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

この作品に関しては、“はてな地方によくすむ、こうさつがとくいなフレンズ”の間でもすっかり人気を博しており、下記のような素晴らしい記事もたくさん書かれています。
honeshabri.hatenablog.com
ねこねこブログ : けものフレンズはなぜ見ていて泣きたくなるほど切ないのか。寂しいフレンズ達と題名『けものフレンズ』 - livedoor Blog(ブログ)
anond.hatelabo.jp
そんな中で自分がわざわざブログなんか書いても、屋上屋を架すようなことになるだけかなー、とも思うのですが、でもやっぱ書きたいので書きます。

『けものフレンズ』が打破する人間中心主義の隘路

自分がこの作品を見ていて一番好きなシーンは、サーバルちゃんと一緒に行動する、おそらく人間のかばんちゃんが、さまざまな特性を持つ他のフレンズに助けられながら進むその中で、セルリアンに対して紙飛行機を飛ばして気をそらしたり、川に橋をかけたりして、さまざまな「工夫」を編み出す、そんな瞬間だったりします。
なぜそのシーンが好きなのか。それは何より、人間というものが、他の動物とくらべて別に特別な存在ではない、フラットな立場にいる1つの「種」であること、そしてそのフラットな立場から、他の種との差異として、「知恵」を持っているということが描かれているという点にあります。
人間というのは他の動物とは違う、特別な存在であるというのは、長らく支配的な考え方でした。そして、その考え方の中心にあるのは、「人間には内面がある」という考え方です。人間ではない動物や物には、人間のように高度な自意識を持ったりすることがなく、自己というものに対して深く考えたり、文化を生み出したりすることができるのは人間だけ、だから人間は他の動物とは一線を画す特別な存在なんだと、そんな考え方です。このような考え方を「人間中心主義」といいます。
このような考えは、「人間であるかどうかが重要なんだから、人種とか性別の違いなんてそんなに重要ではない」という正の作用もありますが、しかし一方であまりに、だから人間には自然を自由にする権利があるんだというふうに考えることにより、自然破壊を引き起こしたり、内面や心というものを重視しすぎるあまり、そこですべての問題が解決できるのではないかという錯覚を引き起こしたりする、負の作用もあるわけです。
なかでも僕が問題視するのが、内面や心といったものに対する偏重です。「心の持ちよう」について私たちは深く考え過ぎるがあまり、袋小路に陥っているのではないでしょうか。
例えば、90年代に爆発的な人気を博したアニメとして、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品がありますが、これなんかはまさに、自分とはどういう存在であるかとか、他者とは一体どうやって付き合っていけばいいのかといった問題を、「心の持ちよう」の問題として引き寄せすぎたがために破綻した、代表的な作品といえます。

この作品は、結局は破綻した作品であるにも関わらず、後世の作品に大きな影響を与えました。ただ単純にロボットに乗って敵をやっつけたりするのではなく、自分がなぜロボットに乗るのか、なんで敵と戦うのか、そもそも、なんで自分は生きているのか、そんなことをアニメのキャラクターに考えさせることが、一種のステータスとなったのです。
そしてそのような風潮と軌を一にするかのようにして、カウンセリングや自己啓発セミナー、精神分析といったものがブームになり、「心の持ちようこそがすべての問題の根源である」というような言説が氾濫するようになりました。このような社会の風潮を、「心理主義(化)」といいます。ですが、ではそのような風潮によって人々は救われたのかといえば、むしろその反対でした。自己啓発セミナーによって自信を得たかと思えば、過剰な自信によってむしろ社会不適合を引き起こしたり、自分が自尊心を持てないのはすべて過去のトラウマが原因だというような(俗流?)精神分析によって、自称アダルト・チルドレンを大量に生み出したりと、人々の悩みはむしろ深くなる一方だったわけです。
このように人々が袋小路にハマる中で、「心のあり方とかについてグダグダ考えても仕方ない。とにかく行動あるのみだ」というような反動も生まれてきます。しかしそのような反動も、「心の持ちよう」へのこだわりからは抜け出せなかったため、「決断力を持つために強い『実存=心』こそが重要だ」というような、心理主義の別の有り様でしかなかったわけです。
では人々はどうやって心理主義から抜け出せるか。それには、そのような心理主義の根幹にある、「心を持っていることこそが人間の特殊性だ」という、人間中心主義からの脱却こそが、重要になるわけです。
これは、別に「心」の存在を否定する、というわけではありません*1。ただ、「心」というものを特別なものとして捉えるのではなく、人間が周囲の環境に適応するために生み出した知恵、ツールの一つとして捉え、それに固執しないことが重要になるのです。
人間は別に人類という種として分化したときから「心」、とくに「自意識」を持っていたわけではないという仮設があります。これは「二分心仮説」というもので、現在のような、自分と他人を明確に区別する、(自)意識が生まれたのは、今から3000年前ぐらいに、高度に分化した社会によるストレスになんとか適応しようとする中で、「幻聴」という形で自分の内なる声を生み出し、それがやがて「意識」と呼ばれるようになったという、そういう仮説です。
神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

ここで重要なのは、「意識」という、現在的な意味での心を生み出す基盤となるものでさえ、あくまでその時点での環境に適応するためのツールに過ぎなかったという点です。つまり、それは万能なものではなく、それがない頃にも人間は生きてきたし、これからも有用であるとは限らないのです。そして、現在まさに、「心」というツールが問題解決に限界を示している中で、「心の持ちよう」から抜け出すために、人間は一旦自分の持つ特権性から飛び降り、他の動物と同じフラットな存在として自己を再定義する必要があるのです。

「知恵を出して問題を解決する」ということこそが、人間というフレンズの得意なこと

そして、まさにそんな現在において、僕たちに、他の動物と同じ一つの「種」としての人間を見せてくれようとしている、そんな作品が、『けものフレンズ』なのだと、僕は考えるのです。
けものフレンズに登場するフレンズたちは、自分をその技能によって定義します。「○○がとくいなフレンズなんだね」というように。しかしそんな中で、人間であるかばんちゃんは自分の技能を見つけられません。もしそこで、ただ心のなかで「自分は一体何者なのか」と内省したりするなら、このアニメは凡百な心理主義アニメと成り果てていたでしょう。しかしそうではなく、自分が何者かを知るために「図書館」へと向かうわけです。そしてその度の途中で、「知恵を出して問題を解決する」という技能を用いるのです。
……もうおわかりでしょう。この、「知恵を出して問題を解決する」ということこそが、人間というフレンズの得意なことであり、人間というのを一つの「種」として定義づけるものなのです。
ここで重要なのが、「知恵を出して問題を解決する」ということが、先天的なものではなく、後天的な特徴であるということです。つまり、人間は最初から人間なのではなく、何かをなすことによって、定義を獲得し、人間になるのです。
そしてここにこそ、心理主義や人間中心主義の隘路を回避するヒントがあります。心理主義はあくまで自分の内面に答えを求めるものであり、そうであるが故に、自分という存在が既に決定されたものとして扱います。人間中心主義もまた同じで、人間というものが特権を持つ存在であると最初に決めてしまうがゆえに、その特権性から逃れられなくなってしまう。しかしそうではなく、人間という種、そして自分という存在も、もっと軽やかな、可塑性を持つものである。そしてそうであるが故に、その定義もまた、これから何をするかで決まっていく、そういう考え方が、『けものフレンズ』からは見いだせるのではないかと、僕は考えるんですね。

『けものフレンズ』はテン年代の『風の谷のナウシカ』になる!……かも

では、そんな「自らの定義を求める旅路」は、これからどこに向かうのか。しかしこれに関しては、僕は結構ドキドキしてこのアニメを見ています。なぜなら、このアニメはどうやら、ポスト・アポカリプス、つまり人類の終末後の世界を暗示しているような、そんな節があるからです。
図書館では一体どんな真実が待ち受けているのか。もしかばんちゃんが、自らの持つ知恵というツールが、時として他の種を滅ぼしたりする、そんなツールでもあることに気づいてしまったら……
しかし、もしそこでかばんちゃんがそんな真実を目撃して、それでも自らを否定せず、フレンズたちとともに歩む、そんな道を見つけ出したのなら、こりゃあひょっとすると、漫画版『風の谷のナウシカ』に匹敵するほどの傑作となる、そんな可能性もあります。

とにかく、キャラも可愛く、ストーリーも意外と深く、考察しようと思えばいくらでも考察できる、『けものフレンズ』はそんな作品です。まだみていないフレンズたちは、ぜひ見てみましょう!

*1:そのような問題は、「心脳問題」として問題になるそうですが、僕はそちらの問題については全然知らないので