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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

『とらドラ!』の寒々しさについて

エア批評

はてなダイアリーを読んで、とらドラは別に小説も読んでなきゃアニメも見てなくて、ニコニコ動画でMADとかをみたり、あらすじをちょこちょこっと聞いただけなんだけど、なんかエア批評してみたくなったので。
とらドラねぇ……最初あらすじだけ聞いたときは、「あーまた鬱になりそうだなー」っていう感じの作品だったのよ。というのも、僕はとてもとても暗い学生時代を送っていたので、耳すまを見ればもちろん鬱になるし、それだけじゃなく世間的にはオタク向けの作品とされている涼宮ハルヒやスクラン、はたまた何とあ〜るとかを見ても鬱になってしまう体質なのだ。あとぽてまよとかげんしけんとかフラワーオブライフもきつい。
これの原因はもちろん、「学生時代っていうのはこんなに楽しい可能性に満ちた時代だったのに、俺は何てつまらない学生時代を送ったんだ……」とか考えてしまうことによるもの*1である。だから、とらドラという作品を最初に知ったときも、きっとそんな感じになるのだろうなと予想したわけだ。
ところが、実際にアニメが放映されて、そしてアニメでどんなエピソードが放映されているかがおぼろげながらに分かってくると、どーも何か違うぞ?という印象が出てきたのである。
つまり、例えばハルヒとかスクランみたいな、あるいはあ〜るみたいな作品というのは、実際にその作品のキャラクターがやっていることをやってみたくなるのだ。良く分かんない部活立ち上げてそこでわいわいやって、事件を解決したり部室に立てこもったりサバゲーしたりしたい*2。でももう出来ない。だから鬱だ死のう……と、そんな感じなのだ。ところが、じゃあとらドラのアニメでやっているような馬鹿騒ぎをやってみたくなるかというと……どうもこれがならないんですよね。なんか、そのバカ騒ぎがうすら寒いのである。そんなこと言ったらハルヒ鳥坂先輩のすることだってうすら寒いだろう、という反応が返ってくるかも知れない。けど、そっちのうすら寒さっていうのは、やっていることの無意味さに対するうすら寒さでしょ?あるいは「若いからこんなバカやってられるんだぜ」ということに無自覚である事へのうすら寒さでしょ?そういうのとは、なんか違うのだ。
で、このうすら寒さっていうのは一体何なのだろうなぁと考えているところで、ちょうど↑の記事を見つけて、そこでガッテンした引用があったので、孫引きしようと思う。

同じく、6巻後半の地の文より。

 みんな、行くべき場所がある。みんな一人で、歩いていく。自分で道を選び、定め、作っていく。それは時に交差し、時に傍らに並び、そうして別れ、いずれまた出会うかもしれない。もう出会わないかもしれない。
 そんなみんなの頭上には、あの夜見つけたオリオンが、同じ星々が、輝いている。見えないときも、見えるときも、いつも変わらずそこにある。確かなものは、きっとある。
(p.253-254)

これが、どの立場からの文章なのかはよく分からない。主人公とかヒロインとが思っていることなのか、はたまた作者の文なのか。ただ、どちらにしろ言えることは、こんな文が小説を読んでいる中で出てくるっていうのは、そういう小説が好きな人には良いのかも知れないが、僕にとっては寒くて仕方がないということだ。
何が寒いか?それはなにより、この文章が、あたかも「自分を客観的に見ることが出来るんです」とでも言うように、わかったような口ぶりであるということだ。そして、それは実は個々のエピソードにも当てはまるのではないか。つまり、彼らは確かに「バカ騒ぎ」のようなエピソードをやっているが、その実、そのようなエピソードについて、「そんなエピソードを経て僕たちは大人になっていくのだ」的な、メタ視をしているのではないかと(中には、そのようなメタ視にすら「そういうメタ視をしたがる年頃なんだよ自分たちは」というように、メタメタ視をしているのかもしれない)、そんな疑念がどーにも頭によぎって、うすら寒くなってくるのである。
こういううすら寒さは、もちろん雫や鳥坂先輩にはなかった。彼らはとりあえず今やりたいことをばーってやっていたし、そこで将来のことなんか考えてすらいなかっただろう。ハルヒはちと微妙だが、彼女も確かに自分をメタ視する自意識は過剰だったが、しかし彼女はそこで「そうやって大人になる」みたいな安定した考えは持たなかった。自分の小ささに、激しく絶望し、そしてその諦念の上での享楽としての「バカ騒ぎ」、そこには「大人になっていく」なんて予想はないのだ。セカイの滅亡か、現在の享楽か、彼女の頭の中にあるのはその二つだけだ。
このように書くと「とらドラの面々だって別に、今やっていることが大人になったときタメになるから、なんて理由でバカ騒ぎはしていないだろう。彼・彼女らは今やりたいことをただやっているだけなんだよ」という風に反論が来るかもしれない。だが、そうであったとしても、そのようなバカ騒ぎの行為をやっても、それに関わらず僕たちは大人になる、いや、ならなければならないというような通念が彼らには透けて見えてくるのだ。更に言えば、彼らを透かしてみた作者の頭の中、さらにこのような作品を好む人々の頭の中にも、見えてきて仕方ないのだ。
↑の記事には、またこんなことが書いてあった。

 ところで、機能不全家庭で育ったアダルトサヴァイヴァー(最近では『アダルトチルドレン』の意味の拡散により、専門用語としてはこちらを用いるらしい)と関係が深いのが、近年増加しているといわれる境界性人格障害だ。端的には、「理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係のあり方」(DSM-IVの診断基準より)に象徴されるパーソナリティ障害である。幼少期の人格形成において親から無条件の愛情を得られず、親の愛情を得ようとするための行動が条件づけられた結果、健全な自己愛や対人関係の形成が阻まれたものとされている。
 ここで強調しておきたいのは、引用した診断基準に示されたような傾向を持つひとは世の中にいくらでもいて、その全員が境界性人格障害というわけではまったくないということだ(大河たちがそうとされてはいないように)。どの疾患においても、必ずいくつかの基準が社会生活に支障をきたすレベルで認められねばならないし、そもそもDSMは専門知識を持って臨床研修を受け、経験を積んだひとが臨床や研究の現場で用いるための「指針」にすぎない。自分で持ち出しておきながら何を、と思われるかもしれないが、素人がこれを誰かに当てはめて「お前○○」などと診断(笑)するのは血液型別性格診断レベルの害悪と言わねばならない。
 この種の人格障害者に対してどのように接するべきか? というアドヴァイスにおいて一般的に言われているのは、次のようなものである。

 同情ではなく共感を示しつつ、べったりにならず距離を置きつつ、振り回されずに一貫した態度で見守り続ける。実乃梨が亜美に、大河がサンタクロースに求める、そして竜児が実乃梨に示す態度とどこか似ていないだろうか?
 もちろん、彼ら彼女らを即座に境界例扱いしようというわけではないし原理的にそれは不可能だ(繰り返し述べるが、そんな『診断』がぼくに下せるはずもない)。むしろこれらの態度は、通常の人間関係においても肝心なポイントである(それが自然に行われているからこそ『通常』なのだとも言える)。ただ、それが敢えて明示的に繰り返されるということは、逆説的にそれらの不在を物語っているし、特に大河においては親子関係の不健全さと強く関連付けられている。親子関係、ひいては人間関係が主題とされた『新世紀エヴァンゲリオン』との類似性を思い出すのは、ぼくひとりではないかもしれない(そういえば、かの作品において惣流・アスカ・ラングレーは、かつて自分を遺棄した母親に『だから見て! 私を見て!』と叫び続けていた。そして劇場版において、『ずっと一緒だったのね! ママ!』『私を見てくれてる!』と満たされた途端、彼女は命を落とすことになった)。
 竜児と大河は、依存的な関係を退け、文字通り「竜虎並び立つ」関係を目指している。なるほど、対人関係についてのきわめて現代的な問題意識が主題となっているという点では元増田氏と見解が一致するところである。ぼくはそれを、原作者である竹宮ゆゆこの個人史に由来するものと見ているけれども、それは憶測の域を出ない。

まず最初にこの文章を読んで思ったことを率直に述べておこうと思う。「ゼロ年代にもなってアダルトチルドレン論かよwwww
はっきり言ってすごくうすら寒かった。なんでこの文章を書いている人はこんな登場人物たちの内面に注目するんだろうなと。それがこの作品を批評するときにそんな重要な視点かよと。記事ではその前に

みんなさ、自分ひとりで解決して乗り越えちゃうんだよな。
登場人物たち。
そこにさ、オラクルは必要ないわけよ。

 と元増田氏は仰るけれども、むしろ「自分ひとりで解決して乗り越えざるを得ない哀れな子供たちの物語」と読めはしないだろうか。この作品において、明示的に登場する保護者は誰ひとり保護者として機能していない。大河の家庭は典型的な機能不全家庭であり(アニメ版1話で、改めてヴィジュアル化された彼女の自宅と寝室の描写には寒気がした。いったい、あの状況がネグレクトでなくて何であろうか?*1)、竜児も父親に「勝ち逃げ」(あらかじめ死なれていたら父殺しもできない!)されてやっちゃんと共依存状態。案外まともな大人をやっているのが実は独身(30)だったりする有り様だ。
 元増田氏は「現代における人間関係の希薄化」「共同体の崩壊」を『とらドラ!』に見出した。ぼくは、それらがもう少し限定的な「現代における親子関係の希薄化」「家族共同体の崩壊」に起因していると指摘したい。亜美が、竜児・実乃梨・大河の関係を「パパ役、ママ役、子供役」の「幼稚なおままごと」と喝破する(7巻 p.130-132)のは慧眼だ。……そして、「全部チャラにしなよ」と要求したあとで「あたしのことも、一から入れてよ」と呟くあたり、実に居たたまれないのだけど。

と書くけど、そんな高校生ぐらいの時分で一人でほっぽかれることがネグレクトと言われるほど深刻なことなんて思う方がどうかしてるし、「現代における親子関係の希薄化」って、じゃあ希薄化するまえの親子関係っつーのはどんだけベタベタした薄気味悪い関係だったのか。そして更に「哀れな子供たちの物語」なんて恥ずかしげもなく言っちゃう態度にはもうひきつり笑いしか起こらない。
だが、これをただこの批評をした人がアダルトチルドレンとかそういったものに敏感すぎるという風に片付けてしまって良いのか?*3ということをもうちょっと考えてみると、実はそうではないのだ。
キーとなるのはこの一文である。

 竜児と大河は、依存的な関係を退け、文字通り「竜虎並び立つ」関係を目指している。

一見、とても良いような方向性に見える。だが僕はむしろここにこそ『とらドラ!』という作品の寒々しさ、というか誤解を恐れず言ってしまえば病理があると思うのだ。
考えてもみて欲しい。きっと竜児は大河が好き、あるいは大河は竜児が好き、もしくはその両方なのだろう。ここで問題である。誰かを愛しているときに、その愛してる相手に依存したい、あるいは依存されたいと思うこと、これは間違った、不自然なことか?自分が人を愛するときに、そういう思いを抱かないなんてこと、ありえるかと?
僕は、そんなことはあり得ないと断言する。むしろ「愛」とは、依存したい・依存されたいという感情を別の単語で置き換えた言葉にすぎないとさえ、言える。とらドラはラブコメディであると聞く。だとしたら、その意味は、依存したい・依存されたいという人間の感情の動きを描いたドラマということでしかあり得ないのだ。もしそれが外見でそう見えないということは、それは本来そのようなものである恋愛感情が、何かによって抑圧されているのだと、そのようにしか捉えることは出来ない。
では一体何が抑圧なのか。それこそまさに「大人になる」=「自立した個人になる」という命題である。つまり、大人という自立した個人になるのならば、そこでは依存的な関係は止めなければならない。アダルトチルドレンみたいな愛情の欠如を抱え込まないで、きちんと自分一人で生きていける、そんな人間にならなくてはならない。そのような大前提が、抑圧の背景にある。
だが、本当にそうだろうか?この世の中の「大人」がみんなそんな大層立派な人間であるか?そんなことは、はっきり言ってない。もちろん、大人の中のごく一部には、そういう聖人君子も居るかも知れない。だけれど大多数の大人なんていうのは、実際の所自立なんかしていない。伴侶あるものはその伴侶に依存し、伴侶なきものはフィクションの代替物に依存するか、もしくは「誰も僕を救ってくれない!」なんて言いながら、一人2ちゃんねるや増田やtwitterにでも愚痴を書く。誰もが依存されたがってるか、依存したがっている。愛情を自分でなんとかできる人なんてむしろ少数派。愛情なんてもの、欠如していて当たり前なのだ。大人と子供の違いなんて言うのは、結局の所、年を食っているか食っていないかでしかない。アダルトチルドレンであっても、二十歳を超えれば大人なのである。
ところがそれを彼らは理解できない。どこか遠くに理想型としての「大人」があるのだと思い込んでいる。アダルトチルドレンを克服し、自分で自分を愛することが出来る、他人に依存しない、そんな「大人」を。そして、自分たち子供はそんな「大人」にならなきゃいけないと。だが、それは幻想だ。そんな「大人」は存在しない。そうである以上、そんなありもしない幻想を目指すことは無意味なのである。大人なんていうのは、結局二十歳を超えたら勝手に押される烙印なのだ。だとしたら、そんなもの気にするだけ無駄なのである。そんな抑圧しか生み出さない命題は、早く捨ててしまった方が、絶対楽になれる。ありもしない命題を気にして、それで自分の内面とかに過剰に注目して批判したりして、それで「大人になるという教養小説には必要なことなんだ」なんて韜晦に至っている方が、よっぽど寒気がする。
良いじゃん依存したって。っていうかほんとさー、とらドラのキャラクターの奴らって変に倫理的だよな。竜児君は大河とみのりんどっちが好きかなんてことで悩んでいるらしいけど、そんなもん、両方いただいちゃえばいいじゃねーか。その先のことなんか知ったこっちゃねーよ。そーだなぁ。きっと二人が学校の中庭で口論でもして、で夜中の屋上でどっちが竜児君の彼女か決めようって事で、ナイフやら包丁やらナタやら斧やらが飛び出すんじゃねーの?それを首だけになった状態で眺めるのもまた一興ってね。そんな同人誌ねぇかなぁ。
それは嫌だって?でも、それこそが人を愛する、というか人が生きるっていうことなんだよ。後先のことなんか考えずバカ騒ぎして、そしてその報いを受ける。その繰り返し。その過程で変化はするかも知れないけど(対象年齢が上がったり下がったりしたりして)、成長なんか絶対しない。あるのはどんな風なクズであるかということの多様性だけ。それが理解できず、「成長」なんて一元的な見方で人間存在を描いたら導いたりできるなんて思うのは……何度も言った言葉だけど。改めて言う。


寒気がする。

*1:[http://www.syu-ta.com/blog/2007/02/23/192603.shtml:title]参照

*2:特に校舎でやるサバゲーっていうのは憧れだよなぁ

*3:まぁ、id:y_arimは敏感すぎるのは事実だと思うが