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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

いしけり騒動についてもうちょっと真面目に

政治と運動

あれだけただ書き殴っただけの駄記事にブクマが集まるって事は、結構関心があるってことだろうし、そいじゃもうちょっと真面目に記事書いてみますか。

まず始めに

僕の立場を明確にしておくよ。
今回のいしけり騒動で分かったこと。それは一部のはてサが余りに「ナイーヴ」であったということだろうね。これは、もちろん悪い意味だよ。
ただ、そこでこの問題の構図を「頭の悪いはてサラディカリスト」と「頭の良い実務家弁護士さん」という図式で読み取るのも、僕は焦点がずれていると考えている。
「ナイーヴ」であるということ。これはもちろん悪いことなのだけれど、ただそれは、「頭の悪さ」とか、そういう類の悪さではないんだよね。
じゃあどんな悪さであるか、それをこれから述べようと思う

「他者支援」について

ただ、その前に、いしけり側、要するに「『反日上等』とか言うな」と主張する側にも、ほんのちょっと筋が悪い所があったというのは、やはり否めないということは、ちゃんと指摘しておく。
いしけり側の発言として「他者支援」という言葉がよく出てきたよね?「自分の主張をしたいのなら自分の場所で主張をすればいい。この運動は外国人という『他者』を支援すること、それこそが目的なのだから、そのような『他者』に迷惑をかけそうな発言は一切慎むべきだ」と、そんな感じの主張。
この主張は全くもっての正論で、だからこそこの正論を言われたとき反対する側はみんな押し黙っちゃったと思うのだけれど、でも僕はこの言葉にみょーな違和感を覚えていたのだ。
というのもさ、だって、本当にそれが自分に一切の得をもたらさない「他者支援」だったら、それに個々人が参加する動機ってなんなのさ?っていうことじゃないですか。
自分の利益さえ一切顧みず、ただひたすらに弱者のために奔走し、自分の利益なんか一切考えない、そんな人物は、確かに美しいだろう。だけど、現実問題としてもそんな人間は例え運動の場だろうとごく僅かなのであって、殆どの人は、その他者支援が、巡りめぐって自分たちのためになるからその他者を支援する、それだけなのだ。
それこそ何か最近盛んに引用される(僕はこの例えは、極めれば無制限なリバタリアニズムになると思っているからあんまり使いたくないのだが*1)ニーメラーの警句みたいに、「ここで外国人排斥を許していたら、その排斥はやがて私たちにも広がってしまう」とか、「外国人に対して寛容でない国は、きっと他の日本人のマイノリティに対しても寛容でないだろう」とかいう風に、その他者支援がめぐりめぐっては自分たちを守ることになるからこそ、運動に参加するわけだ。つまり、他者支援といっても、結局の所それは自己支援でしかない。言い換えれば、他者支援によって得られる効果が自己支援に繋がるベクトルだからこそ、人は運動に参加する。
もちろんだからといって他者支援において支援される他者の利益に反するような、そんな自己支援は許されないよ。今回の「反日上等」は、まさしく他者支援における「他者」の利益を侵害するものであるのだから、運動がそれを排除するのは当然でしょう。でもそれは、じゃあそのような主張をしない他の人が自己支援にではないってことを意味しない。ただ単に、自分の自己支援のベクトルが今回の他者支援運動のベクトルに合致していたか、そうでなかったかという、そんな違いでしかないの。
そういう違いなのに、運動に残った側が「この運動は他者支援の為のものなのだから、他者のことだけ考えろ、自己の利益は度外視しろ、それが出来ない奴はクズだ!」みたいな偽の正論を言って、自分たちをまるで殉教者であるかのように言うのは、僕は端的に間違いだと思うのだ。

「戦略の違い」ではなく「目的の違い」

しかし、そういう些末な問題はあるにしても、やはり今回の騒動でどちらに非があるかといえば、それは明らかに「反日上等」と言う側にあると、僕は考えている。
根本的には自己支援であるにしても、しかしこの運動は、「外国人のための運動」という他者支援の運動なわけだ。なのにその場所で、その他者の不利益になるようなことをするっていうのは、やはり利敵行為と思われてもしょうがないし、運動から叩き出されたとしてもまぁ仕方のないことだろう。だから僕は端的に言う。反日である人間はもう外国人支援運動に関わるな!日本を愛し、君が代を歌い、日の丸にキスしたくなるようなそういう愛国者だけがこの外国人支援運動に参加する権利を持つ!と。
ただ、これを「戦略が悪い」程度の問題として考えられるかというと、僕はそうは思わない。むしろそんな程度のことであれば、逆に良かったといえる。これは戦略の問題ではない。むしろ、戦略によって何をなすかという、目的の問題なのである。
いしけり側の目的。それは何より「自分たちの支援する外国人の定住権を得る」ことにある。彼らは定住するためなら幾らでも日本を愛すし政府のケツを舐めナショナリストにも媚びるだろう。こう書くと僕がそのような姿勢に反感を持っているかのように受け取られるかも知れないが、まぁ感情的には反感を持つけど理性的にはそれが正しいということは知っている。要するに彼らはギリギリの瀬戸際に居るのだから、そんな場所で一々ナショナリズムやらプライドやらそんなことを気にしていることはできないのだ。あらゆる手段を用い、泥水をすすってでも生き延びる。それが人間として正しいことであることは間違いない。
それに対して「反日上等」と言う側はどうか。彼らの目的は「全ての人に寛容な社会を作る」ことだ。だからむしろ「反日上等」とは彼らの主張の根本ですらある。「反日」とはつまり、「日本という枠」に収まらない人間に対して不寛容であることへの抗議だからだ。彼らはそもそもお国が「こいつは日本にいて良い外国人」、「こいつは日本に居てよくない外国人」という風に分別する枠組み自体を批判している。
この違いを言い換えるならば、前者はあくまで現行のルールの中で、より多くの外国人の受け入れを求めているのだが、後者は現行のルールそのものを解体しようとしているのだ。これは、外から見たら確かに似ているかもしれないが、しかし内容的にはそもそも全然違うものだ。なのに何を間違ったか後者の人間が前者の人間の運動に乗っかれると勘違いしたこと。これが全ての騒動の発端であったと言っていいだろう。だから僕は何度でも言う。政府のケツを舐める覚悟が無い人間が外国人支援運動に関わるな!と。僕はそういう覚悟はないから外国人支援運動には一切関わらない。

「ルールの中でバトルロワイヤルを生き抜くこと」こそがゼロ年代の社会運動なのだろう

しかしここで改めて嘆息してしまうのが、はてなサヨクのナイーブさである。
はてなサヨク、というかロスジェネの人々はよく「枠組み自体を疑う」というようなことを言う。例えば若年労働者と外国人労働者が職を奪い合って対立しているとき、彼らは「そのように雇用を奪い合わせ対立を生み出す資本主義を倒せ」というように、体制変革こそが必要なのだと訴えるように。
だが、そんな簡単に体制が変革するわけがない。ただでさえ格差が固定化し、弱者は弱いままで、強者は強いままなのに、一体どうやって弱者が強者に勝てるというのか。それだったら、同じ程度、いや、自分より弱い程度の弱者を虐めて、利益をぶんどる方が、よっぽど成功率が高いし、効率も良いだろう。
「枠組みを壊す」なんてことは馬鹿げている。それよりも枠組みの中で如何に自分の取り分を多くぶんどるか、それこそが今最も必要なことなのだ。そして、今の時代、ゼロ年代の社会運動とは、そのための手段に過ぎない。枠組みの中で自分をアピールし、強者に媚び、弱者を虐げ、より利益を分捕る。そのようなマキャベリストでなければ、生き残ることは出来ない。
いしけり氏を見ていて感心するのが、彼が「外国人支援」という目的のみに奉仕し、体制変革とかそういう馬鹿げたことを一切考えてないことだ。まさにゼロ年代の社会運動を指揮する者はこうあるべきだろう。逆に言えば、こういう風でなければ、そもそも弱者を救うことなど不可能なのだ。
はてなサヨクやロスジェネたちはしきりに「体制変革」なんてことを言う。だがそんなことを言えるのも、結局彼らが既得権益を得ている立場であって、別に弱者のように自分が生き残るために行動をする必要がないからに過ぎない。そして、彼らが弱者に対し「体制を変革せよ!」と扇動するにしても、それは決して弱者を救わないのだ。

*1:人権擁護法案反対の時は盛んに使われたよねぇこれ