あままこのブログ

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アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』に見る、新しい「仲間」のかたち

いやあ、『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメ、ほんっとーに、良かったですね。
で、最終話を見終わってから、僕なりに、アイドルマスターシンデレラガールズのアニメが良かった点を色々考えていたんですよ。
で、作画といった点はより詳しいマニアの人に任せるとして、僕がお話全体を振り返ってみて、良かったなぁと思うのが。やっぱり「CINDERELLA PROJECT」の14人の、「仲間」のあり方が、とても心地よかったという点なんです。
それは、言うなれば、学校とか仕事とかでの同級生・同僚と違い、地元での関係とも違う、「第4の空間」*1において、お互いの違いを認めながら、それでもそれぞれの心のなかに共通の理想を持つ、そんなあり様の仲間だったのでは、ないでしょうか、

第一クールのアニメは「仲間になる」物語だった

シンデレラガールズのアニメでは、以前のアイマスのアニメ化とは違い、14人が集まるところからスタートします。全く違う個性を持ち、とにかくデビューを熱心に望む子もいれば、ロックなアイドルを目指したり、中には印税だけが目当ての子も居たりする。そんなバラバラの女の子たちが、しかし互いにコミュニケーションを取っていく中で、それぞれの違いを認識しながらリスペクトしあうようになり、最後はみんなで力をあわせ、1つの大きなイベントを乗り越える。前半のストーリーはそんな、「仲間になる」ストーリーだったといえるでしょう。

第2クールの「仲間から、その外へ活躍を広げていく」物語だった

そして、そのような第一クールで出来たCINDERELLA PROJECTの「仲間」から、その「仲間」を胸に、より広いステージへ出ていくのが、第2クールの物語だったわけです。
そのステージへの飛び出し方は人それぞれです。が、そのいずれにしても、今までと違ったり、やったことのないことを挑戦し、「仲間」の外へ飛び出していくというものでした。
ここで重要なのが、それらの活動がうまくいったのは、きちんと第一クールで「仲間」が形作られて、そこが土台となっているから、という点です。全くなにもない、あるいはそう思い込んだままで、いきなり外へ飛び出そうとすれば、それこそ終盤の島村さんみたいに壊れてしまいます。だからきちんと、今までの自分の軌跡、そしてそこで得た「仲間との思い出」があることを、思い出す必要が、あの時の島村さんにはあったし、みんなそれがあったからこそ、より広いステージへ飛び出して行けているわけです。
そしてラスト、あの、文字通り「なんでもあり」のアイドルフェス、でも、あそこまでなんでもありでありながら、そこにいる誰もが笑顔のなれる、そんなアイドルフェス。これができたのも、アイドルたちがそれぞれ、より広いステージに飛び出していき、そこで新たな、自分とは全く違う「仲間」を見つけてきたからだったのです。

新しい「仲間」のかたち

仲間だもんげ!」という言葉に代表されるように、「仲間」という言葉は、アイマスにおいてとても重要視されています。
ですが、ではその「仲間」とは、一体何なのでしょうか?
今年でアイマスは10周年になるそうです。10年間、アイマスはよくも悪くも様々な経験を積み、そしてそのファンも、様々な異なった思いをアイマスに持っています。
アーケード版原理主義ゼノグラシア容認派・否定派、961プロジェクト肯定派否定派、DS派、そして9・18事件……デレマス自体、「ソシャゲーなんて」という点で否定するファンは多かったですし、今も一定数いるでしょう。
ここまで目標や思いが多種多様な集団が、はたして「仲間」としてひとくくりにできるのか?
そんな疑問に対し、「いいや出来るんだ、例え見ている方向や思いが全く異なっていたとしても、それぞれの違いを認め合い、楽しむことさえできていれば、『仲間』なんだ」と、仲間という言葉を再定義したのが、実は今回のデレマスアニメだったのではないかと、そう思えてならないのです。
そしてきっと、こういう形で「仲間=コミュニティ」というものを広く再定義していくことは、アイマスにかぎらず、これから先の日本全体において、重要になってくるのでは、ないでしょうか。
なんだか最後は話が大きくなってしまいましたが、とにかく、『アイドルマスターシンデレラガールズ』、本当に良いアニメだったと、僕は心から思います。